第三十八話 檻外 残照明らかにして
少女の商品としての日々は、屈辱とともに始まった。
奴隷商の男が自慢した通り、この店は同業の中でも随分マシな部類のようだった。
訪れる客はどれも皆仕立ての良い服を着、時に従僕を従え、時に主人の使いとして、店の男たちと交渉していた。
彼らにとって見目が良いことは必須条件のようで、奴隷たちは男も女も皆、髪や肌の手入れを欠かさなかった。
皆一様の簡素な貫頭衣と、足首に括られた麻縄がなければ、奴隷だということを忘れそうになる。
だが決して天幕の外に出ることの出来ないこの場所は、明けることのない夜闇に覆われた
少女は、腹が空かないだけの最低限の食事を得ることで、やっと体力が回復し始めた。
体力が戻ると、まず冷静な思考が戻り始めた。食事を差し入れる男の行動と視線、癖を覚える。
足の痛みが消えると、食事が出される隙をついて男の鍵を奪おうと飛びかかった。殴られた。
それならばまず枷を壊そうと、食べ終わった食事の皿を使った。だがこれもすぐに気付かれて殴られた。
蹲る少女に、男は呆れたように言った。
「飯を限界まで抜いて分からせたつもりだったのに……まだ足りなかったか?」
「……――」
その言葉を耳にした時、少女はやっと考えを改めなければならないのだと思い知らされた。
男の目には、苛立ちや嘲笑などといった感情は一切なかった。ただ、いつもの手順を踏んだはずなのに結果が異なることに対する怪訝だけがあった。
それはまさに、
何より、去り際に男が独り言のように思案した言葉が、少女を更に打ちのめした。
「肉付きも良くなってきたし、そろそろ容赦もやめるか」
「は……?」
それは信じがたい発言だった。そして、ただの事実だった。
その日以来、男は少女が少しでも怪しい動きを見せれば、容赦なく腹を蹴った。
鍵を見たから。目が反抗的だったから。客を睨んだから。
理由はそんな愚にもつかないことばかり。徹底的に少女が奴隷であるという立場を教え込む作業に過ぎないことは明白だ。
腹ばかりを狙うのも、顔に傷がつくと商品価値が落ちるから。だが腹ならば、
最早畜生よりも劣っている。
最初に刺々しく溢れていた矜持と反抗心は、見事に削らていった。
他の奴隷が見ている前で着ていた小袖を剥ぎ取られ、他の奴隷と同じ生成りの貫頭衣に着替えさせられた時には、羞恥と惨めさで死にたくなった。
(なんで……何で私が、こんな目に遭わなきゃいけないの……?)
分からない。分からないから理由が欲しい。でも何も思い出せない。
あの男たちに理由を付けて怒りをぶつけることさえ、出来なかった。そうするには、少女の心は擦り減りすぎていた。
(私、何か悪いこと、したのかな……?)
二週間も過ぎる頃には、次第に理由を内側に求め始めていた。
思い出せない記憶の中で、自分が何か取り返しのつかない失敗をしたのではないか。その報いを、今受けているのだろうかと。
そう思わなければ、とてもではないがこの状況を忍受することはできそうになかった。
そのせいで、少女の気持ちは更に荒んで落ち込み、他の奴隷たちのように客が来るたびに愛想を振りまくことは、とても出来そうになかった。
すると、また男が言った。
「そろそろ飯代が尽きる。そのまま無愛想を続けるなら、残りの首飾りも売るからな」
「っ……分かって……ます」
そう、言うしかなかった。
それから、少女は他の奴隷たちと同じように髪を手入れし、客が来るたびに虚ろな瞳のまま口角を釣り上げた。
そうして、更に二、三週間も過ぎた頃、それはついに効果を表した。
「撫子色の髪か」
心を無にして笑い顔を作っていると、突然そう言われた。そこで初めて、少女は檻の向こうに人が立っていることに気が付いた。
誰、とは言わない。客だ。
細い目元に寄った皺や、髪にちらほらと混じった白いものを見るに、五十歳前後だろうか。光沢のある羽二重の着物を羽織り、ちらりとしか見えない羽裏に表よりも一層手の込んだ縫い取りが散りばめられている。
後ろには従僕らしき老爺も控えているし、随分な金持ちだと分かる。
他の商品は一通り見終わったのか、その客は端にある少女の檻の前で立ち止まり、まさに品定めするように少女を眺めていた。
その隣では、目に留まった商品を一つずつ紹介してきた男が、逃してなるものかとばかりに少女の美点を捏造して売り込んでいる。
「うちの中でもとびきり無垢な少女といえばこちらでしょう。ものを知らないので即戦力とはいきませんが、その分旦那様の望むままに仕込むことができますよ」
「そうだな……。撫子色の髪は珍しいが、それだけでは儂の蒐集品に加えるのは……」
客が、少女を吟味しながらも、決め手に欠けると首を傾げる。その目に、何かが留まった。
隣の男に耳打ちする。
「あぁ。あれは首飾りですね。平たい石に数字がいくつか刻まれてますが、本人も何かはよくわかっていないようです」
「なに? 見せてみよ」
当たり前のように命令する。少女は少し抵抗したが、あっさり奪われた。
手渡された客が首飾りを矯めつ眇めつ眺め回す。
「この刻印、数字……本物のようだが……まさかこの娘のか?」
「えぇっと……どうでしょう。なにぶん、記憶の曖昧な娘でして」
男が、高価なものなら取り上げておけば良かったという顔で適当な相槌を打つ。
それに苛立ちながら、少女は小さく口を挟んでいた。
「私のに決まってるでしょ」
「それは、お前が誰かから譲り受けたもの、という意味か?」
「違う。私の、私を証明する、私だけのものよ」
少女は焦って言い募った。こんな自明のことで、盗人扱いされては堪らない。
だが客は、眉根を寄せて首を横に振った。
「それはあり得ない。本物ならば、ここに彫られているのは持ち主の名と生まれ日付だと聞く。だがこれは二百年以上前の日付だ。お前が正当な持ち主ならば、お前の齢は二百歳以上ということになる」
「へっ? ま、まさか華族……っ?」
新たな情報に、男が顔面を蒼白にして慌てだした。
長命な種は幾つかあるが、人間と全く同じ姿をした者と言えば限られる。中でも大陸の支配階級である華族を奴隷にしたとなれば、店の人間は全員処刑は免れない。
その横で、客が喜声を上げた。
「よし、買おう」
「えっ」
突然の決定に、男が目を剥いた。
「い、いやいや、困りますよお客さん! もし本当にこいつが、いや、この娘が華族だとしたら、うちが――」
「華族には
「そ、それは……なかったような……」
男は、記憶を辿るように目を泳がせた。
花紋とは華族の体のどこかに必ず現れる
少女を貫頭衣に替えた時には隅々まで洗い、確認している。見逃したなどとは言い訳にならないが。
「だったら、それでいい。君は華族を売買などしていない。儂も口外しない。相場の倍払おう」
「…………ッ」
男が細い目を更に見開いて、叫び出しそうになる口をぎゅうぎゅうに結び付ける。
決断しかねている、その様子を横目に、客は今度は少女に直接語り掛けてきた。
暗い
「お主も、こんな狭い檻の中にいるのは嫌だろう?」
「あ、当たり前でしょ」
怯えながらも軒昂と答えると、目尻の皺が更に深くなった。決まりだと、パンと両手を叩く。
「では、出してやろう」
「え……」
少女は、その申し出を俄かには信じられなかった。
その言葉は、この檻に閉じ込められてからずっと望んでいた言葉だ。だがそれは、奴隷として、物としてではない。
「……どうせ、買った先でまた閉じ込めるんでしょ」
言うべきでない本心が、恨みがましく漏れていた。
聞き咎めた客はしかし、鷹揚に笑った。
「安心せよ。儂の家にこんな狭い場所はない」
「…………」
その笑みに屈託はなく、少女は自分がもしかしてしなくてもいい不安を抱いているのかもしれないと思うようになった。そのくらい、客からは悪意が感じられなかった。
(この人、なら)
或いはと、枯渇し始めていた期待が再び顔を出す。
既にこの頃には他の奴隷たちの様子など眼中にもなかったが、それでも客が少女を買うと言った瞬間に向けられた嫉妬交じりの視線や舌打ちは嫌でも感じていた。
そこそこ良い買い手であることは間違いない。金のある家ならば、自由はなくともそこそこの贅沢はさせてもらえるかもしれない。従順にしていれば、あるいはある程度の小遣いや自由も得られるかもしれない。
(そう、なったら)
真っ先にこの店を潰そう。
そう考えた瞬間、少女の中で、買われることへの意識が引っくり返った。
その目の前で、客がまだ決めきれない男に小声で耳打ちする。
「店主よ。余計な倫理感を覚えたのなら止めておけ。今さら
「…………!」
その一言が決め手となったらしい。
凄まじい速さで勘定を叩きだすと、一瞬で腹を括った。
「毎度あり!」
そうして、少女は売られることとなった。
「良い御仁に買われたな。だがこの店のことは決して言うなよ。決してだぞ」
天幕から送り出す際、少女に上等な服を着させながら、男が何度も念押ししてきた。
華族かもしれない商品を置いて痛くもない腹を探られるては堪らないし、高値で売れるなら事実など二の次だと判断しただろうことは容易に推察できた。
残る問題は、少女の口からこの店が割り出させることだけだとでも思っているのだろうが。
(元々この店の名前もあんたの名前も知らないのに、誰に何と言えというの)
少女は内心で嘲笑した。
けれどずっと同じ形でしか笑っていなかったから、傍から見ればその微笑みはただ儚げなだけに映っただろう。
本当ならば、約一月ぶりに手枷が外され途端、男を殴り飛ばしてもおかしくなかった。だがここで問題を起こして、話が立ち消えになっては困る。
それを堪えただけでも、褒めてほしいくらいだ。
「ん……」
男の後に続いて天幕を潜ると、途端に眩しい西日が少女の瞼を射す。あまりの眩しさに、しばらく目を開けることができなかった。
そのまますぐに従僕に引き渡されたが、その刹那だけは、少女は確かに自由だった。
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