第二章 虹蔵れて見えず

第三十七話 天涯の涕涙 一身遥かなり

 がたん、ごとん、がたん、ごとん。


 一定の間隔で刻まれる音が、床に触れた耳から直接入り込んでくる。その音に誘われるように眠り、起き、そしてまた眠りを繰り返して、どれ程の時が経ったか。

 穏やかなその静寂はしかし、次に汽笛が鳴って扉が開かれた時、紙袋が破裂したような喧騒に切り裂かれた。


「開いたっ」

「すごい、これが列車の中」

「魔石はどこに……誰に渡せば」

「御者はいないのか?」

「ぼくあそこ! 窓の席がいい!」


「!?」


 わらわらと、どこから湧いてきたのかも分からない人々が様々に喋りながら一斉に車内に踏み入ってきた。

 床に横たわっていた少女は、突然押し寄せてきた無秩序に踏み殺されるのではないかと慌てて立ち上がる。

 だが意に反し、少女はまだ全身の痛みも倦怠感も完全には癒えていなかった。立ち上がったものの一方向に流れ続ける人々の波に抗うことができず、気付けば列車の外に押し出されていた。


「えっ、えっ?」


 まろぶように車站えきの石壇に出る。いたたっと膝をさすりながら顔を上げれば、その先には別世界が広がっていた。


「な、なに、これ……」


 それは、まるで情報の嵐だった。

 車站の階段から続くどこまでも真っ直ぐな石畳の通り。そこに押し込められた溢れんばかりの人々。その両側には、何から見ればいいのか分からないぐらい雑多で混沌とした露店の数々が延々と繋がっている。

 特に両腕を伸ばした程の幅しかない狭い場所に天幕を張ったような露店が隙間なく並んだ辺りは、圧巻の一言だった。

 狭い店内を最大限に利用すべく、階段状に並べられ手作りの棚。その上に並ぶ籠には一切の統一感がなく、その都度調達してきたと思われる不揃いなそこに、雑多な商品がこれでもかと詰め込められている。

 もぎたてらしい艶々の果物に、精緻な刺繍が施された反物、色硝子がきらきらと陽光を弾く角灯。見ているだけで目がちかちかする程だ。

 しかも、それでもなお場所が足らなかったらしく、天幕や壁や柱といったありとあらゆる隙間にも品物が吊るされている。その取り留めのなさこそが、店主の喧々諤々とした呼び声よりも鮮やかに客を惹きこんでいるように思えた。

 お陰で馴染み客とそうでない者とが、少女にさえ区別できた。あちこち視線が彷徨う者の間を、慣れた者はさっさとすり抜けて目的の品を購入していく。

 それが十二大陸でも最大規模を誇る東大陸のごん車站前に広がる列車通りであることを、少女は知らない。


 あまりに情報が多くて、初めて目にするものばかりで、少女は混乱しきりだった。だがその一方で、いつまで見ていても飽きないと思った。

 いつかこんな風に、こんな景色を見たいと望んでいたような気さえする。

 けれどそんな悠長は、この場所では許されなかった。


「おい、嬢ちゃん! そんな所に座り込んでたら邪魔だよ邪魔! 乗らないんだったらさっさと退きな」

「きゃっ」


 石壇の上下を行き来していた男の一人が、路傍の石をどけるように少女を端に追いやる。失礼なと睨み上げた時、ポーポーッと汽笛が二回鳴った。


「こ、今度はなにっ?」


 思わず両手で体を守る少女の視線の先で、大陸列車の扉がひとりでに閉まる。それから、列車の中で何度も聞いた長い汽笛がポーッと車站に鳴り響くとともに、細長い車体がゆっくりと滑り出した。


「行っちゃった……」


 無情にも遠ざかる列車を見送ると、途端に少女は心細くなった。手放してはいけないものを手放してしまったような、心許ない気持ちになる。

 思わず、胸元の首飾りを取り出して握り締める。その時になって初めて、少女はある変化に気が付いた。


「石がない……!?」


 革紐に通した三つのうち、昼夜で色が変わる石が消えていた。石を結び付けていた麻紐だけが、ぷらんと残っている。


「な、なんでっ? いつ……」


 慌てて服のあちこちをまさぐり、次に人のいなくなった石壇を隅々まで探したが、やはり見つからない。

 少女は愕然と蒼褪め、それから目の前の市場通りに駆け下りた。車站のすぐそばに、石ばかりを売っている露店を見つけたからだ。


「らっしゃいらっしゃい~。売るのも買うのも受け付けるよー」

「石!」


 発車と同時に人気のなくなった店頭で覇気のない声を上げる年嵩の男に向かって、少女は身を乗り出すようにして大声で訴えた。

 男は、驚くでもなく気だるげに手許の籠を漁った。


「はい石ねー。入り用? 何車站分?」

「違う! そうじゃなくて、私の石が消えたの!」

「……は?」


 出遅れた客かと内心値踏みしていた男が、少女の剣幕にきょとんと顔を上げる。

 その顔にやっと事の深刻さが分かったかと睨み返せば、今度はハァァと嫌味なほど大きな溜息を返された。

 肘をつき、中断した金勘定に戻る。


「嬢ちゃん、列車から降りたばっかり?」

「そう! 降りて、さっき見たら、私の石が無くなってて……」

「そりゃそうだろ。列車が取ったんだ」

「え? 列車が、とっ……?」


 言下に結論を言われ、しかし少女は理解できずに困惑した。

 列車の扉が開いて人が雪崩れ込んでくるまで、少女はずっと独りだった。乗る前も、降りた後も、列車の誰かが接近した記憶もない。

 何より。


「でも、私、誰にも石を見せてない」


 見せてはならないと、厳しく言われていたから。

 そう考えて、ふと疑問が胸を過る。


(誰に、言われたんだっけ……)


 だがその答えは、辿り着く前に男に遮られた。


「列車は力持つ石があれば乗れるし、乗れば勝手に切符が切られる。それが大陸列車ってもんだ」

「大陸、列車」


 繰り返してみるが、それで理解が及ぶわけもなかった。

 知っていたら乗らなかったと文句の一つも言いたいが、実際に具眼者から逃れるには列車に乗るしかなかった。

 少女は考えを切り替えると、質問を変えた。


「じ、じゃあ、取り戻すにはどうしたらいいの?」

「同じ石が欲しいんなら、なるべくご要望にはお応えするよ」

「そうじゃないったら! 私の石……あの石は、とっても大事な人からもらったもので……」


 言いながら、また記憶が揺れる。

 失ってしまった、けれど命と同じくらい大切な記憶が。


「石の色や形、大きさは? 魔石なら、それなりに……」


 男が幾つか石を並べながら矢継ぎ早に話を進める。だが最早、少女の耳には届いていなかった。

 前のめりだった体をふらふらと起こし、呆然と空っぽの車站を見上げる。

 綺麗な青空があるだけで、奇妙な鉄の箱もなければ、胸元の革紐に石が戻ることもない。


(どうしよう……あれがないと、私……)


 足元にぽっかりと穴が開いたような不安に、行くも戻るもできなくなった。

 正しいのはきっと、ここで新たに魔石を購入してあの島に戻ることなのだろうが、その力が出ない。

 佇立するしかないその右腕を、出し抜けに掴まれた。


「っな、なに?」

「あんた、奴隷か」

「……?」


 驚愕した顔で見上げられたが、少女は何のことか分からなかった。

 戸惑う少女にも見えるように、男が少女の右手の甲を上に向ける。そこには、少し薄くなった火傷の跡があった。

 つぶね、と読める。

 これがどうかしたか、と聞く前に。


「どこから逃げ出した」

「え」


 低く恫喝するような声で糾問され、少女は本能的に右手を引いていた。

 男の目の色が変わっている。


(……こわい)


 思わず後ずさる。

 それよりも早く、男が通りの喧噪を上回るほどの大声を張り上げた。


「奴隷だ! 逃げた奴隷がいるぞ!」

「っ!?」


 その大音声が響いた途端、少女のことなど見向きもしなかった群衆が一斉にこちらを凝視した。視線に破壊力があるとしか思えない圧が、少女を四方八方から射る。

 その視線の質と量の異質さに、ぞっとした。


「ッ」


 男の手を振りほどいて、がむしゃらに走り出す。だが通りを埋める人々は、それを許さなかった。

 少女の行く手を壁のように塞ぎ、少女が強引に通り抜けようとすれば無言で押し返す。

 非難し、侮蔑し、嫌悪する目、目、目。

 その目を、少女は知っている。

 遠い遠い、知らない記憶の中でも、人々は少女を追い詰めた。さながら人垣の牢獄を作って。


「なん……なんで……? 私、何も、悪いことなんて――」

「ここにいたのか」

「ヒッ」


 また背後から腕を掴まれ、少女は幽魄おばけにでも遭ったように悲鳴を上げた。バッと振り返る。

 腕を掴んでいたのは、細面の中年の男だった。前合せを釦で留めた服を纏い、腰には沢山の鍵を通した鉄輪かなわを下げている。


「だ……」

「やっと見つけたよ」


 れ、と続けるのを遮るように、男が片目を瞑る。そうすると途端に相好が崩れ、恐ろしいと感じた雰囲気も和らぐ。

 気のせいだったのだろうかと訝しむその周りで、何故か人垣が崩れ始めた。


「なんだ。すぐそばにいたのか」

「ったく、ちゃんと管理しとけよな」

「まだ逃げ出す奴隷っているんだな」

「いい迷惑だぜ」


 そんな声がちらほら上がり、敵意が嘘のように掻き消える。助けてくれたのだと理解する頃には、人の流れは何事もなかったかのように元に戻っていた。

 一体何だったのかと、肩透かしを食らった気分になる。だが一連の事情が呑み込めなくとも、男の顔を改めて眺めればその意は察せられた。


「あの……助けてくれて、ありがとう」

「いやいや。逃げ出した奴隷は最悪殺されてしまうからね。保護出来て良かった」


 男が朗らかに笑う。その笑みに安堵する暇もなく、少女は愕然とした。

 この人の好さそうな男でさえも、少女が奴隷であることには疑いを抱いていないということに。


(私、奴隷……なの? 本当に)


 そんなはずはないと、頭ではいくらでも否定する。けれども、ないはずの記憶の中では、右手の甲に押された焼きごての熱さがまざまざと蘇っていた。

 何より、周囲のあの反応。どんなに違うと否定し続けても、到底信じてもらえれるとも、逃げ切れるとも思えなかった。

 何より、今の言葉は聞き捨てならなかった。


「殺されるって、どうして……?」

「そりゃあ、奴隷だってちゃんと銭で売買されてるし、奴隷主は安い買い物じゃないからきちんと衣食住を与える。そこから逃げ出すってことは反意ありってことになる。抵抗されりゃ、殺すしかない」

「そんな……でも、無理やり奴隷にさせられた人だって」

「あぁ、そういう場合もあるかもね。でもその人たちは、奴隷にでもならなければその日を生き抜くことすら難しかったはずだ」

「それは……っ」


 奴隷にしようとする連中が悪いと怒鳴り返そうとして、しぃっと口に指を立てられた。ハッと周囲を見渡し、その冷たい視線に慌てて口を噤む。

 男はそれに苦笑すると、少女の掴んだままの腕をくいっと引いた。


「悩むのは後にして、とにかく行こう。ここは賑やかすぎる」

「え、行くって、どこに……」


 答えが返る前に、男が慣れた足取りで人混みを掻き分け、ずんずん進んでいく。

 通りを二、三度折れると、一気に人通りが少なくなった。その路地の中程に立つ天幕の前で立ち止まる。

 列車通りの店と違い、天幕は正面まで覆われ、覗く隙間も薄暗く、中がよく見えない。


「ここは……?」

「まぁ、いいから入って。行く宛てもないんだろ?」


 戸惑う少女の背を、男が快活に押す。

 天幕を揺らして中に入るが、闇に慣れない目には何も見えない。その手首に、固く冷たいものが嵌った。


「……え?」


 ぞわりと背筋が冷えて、恐々と腕を持ち上げる。重い。

 果たして、徐々に闇に慣れた視界に、鎖を垂らした鉄の枷が見えた。

 意味が分からない。

 けれど同時に、少女は全てを理解した。


「……騙したの?」


 全身が総毛立つような絶望と怒りが、足元からせり上がる。

 だというのに男は、まるで気にせず笑った。


「野良の奴隷なら、殺されるより保護して商品にした方が有意義だろ? 安心しろ。うちの店は他より優良だし、客層もいいぞ?」

「そんなの知るか!」


 怒りに任せて殴りかかる――その腕が、びぃんっと伸びた。


「!?」


 反動で数歩たたらを踏む。振り返れば、手枷から伸びる鎖がピンと伸びていた。その先が、別の鉄の棒に繋がれている。

 否、それはどう見ても檻だった。開いたままの扉の蝶番部分に、枷の反対側が付けられている。


「檻? って、なんで……」

「弁えている商品にはこんなことまでしないんだけどな。自覚がないうちはこうした方が早いんだ」


 まるで狂犬の調教でもするような言い草だった。怒りに言葉も出ない。

 その肩をもう一度どんっと押して、男は少女を檻の中に押し込んだ。足がもつれる。


「な……っ」


 それでも、少女はすぐさま態勢を立て直してすぐ走り出した。だが、男の扉を閉じる力に敵うはずもなく。

 がちゃんと、錠をかける音が嫌に大きく響く。

 そうして、少女は呆気なく奴隷となった。


「うそ……」


 ずるずると、力なくその場に蹲る。そうなってしまえばもう、抗う力も気力も奮い立たすことはできなかった。

 その様子に、男が納得したように悠々と去っていく。最早追い縋る気力もなかった。


 元々、少女は列車に運ばれてここに辿り着くまで、食事もしていなければ、傷や疲労が癒えるようなこともしていない。

 頭痛こそ収まったものの、足や右手をはじめとした全身の痛みはそのままで、立っているのも辛かった。

 何より、喉が渇いて仕方ない。

 列車に揺られている間は不思議と堪えられたが、今は空腹と喉の渇きに、もう一言も喋るのも億劫だった。


 それからずっと、少女は檻の中に閉じ込められた。

 檻の前に人が現れるたびに、自分は奴隷ではないと、ここから出してと掠れた声で叫んだが、当然のように誰一人として相手にしなかった。

 反応を示したのは、手枷こそされているが小さな毛布と寝床を与えられている、他の奴隷たちだった。


「馬鹿じゃないの」

「煩い」

「黙ってろ」


 頭部に獣の耳を生やした者や、肌の一部が鱗になっている者たちが、少女を冷ややかに睨んではそんな悪態をぶつけてくる。

 敵は同じはずなのに、彼らさえも少女の敵だった。


(信じられない…なんで、こんなことを受け入れられるの……?)


 それは、少女には理解しがたい心理だった。

 こんな屈辱的な扱いを何故甘受するのか。できるのか。

 いつもなら、少女は納得がいくまで立ち向かったろう。

 けれど今は、そんな気力もなく、ただ胸元の首飾りを握り締めるだけだった。


 出してという要求が通らないと知ると、少女は鉄の床に横たわりながら、今度は食事の要求をした。飢餓感で気が狂いそうだったのだ。


「……ねぇ……、ご飯……ご飯はないの……?」


 少女を奴隷だと決めつける連中に何かを請うのは矜持が許さなかったが、最早小袖の裾を噛み続けるのも限界だった。

 だが返されたのは、人とは思えぬ言葉だった。


「飯はお前の借金になるぞ? 銭か、金目のものでもあれば変えてやるがな」

「――――」


 あまりの非道さに、声もなかった。

 少女の話も聞かず檻に閉じ込め、物のように売り買いすると宣告しただけに留まらず、食事さえも弱味に付け込んで出し惜しみする。

 怒りが後から後から湧いて、尽きることがない。だが肉体の方は、罵詈雑言よりも涙がとめどなく溢れて留まらなかった。


 惨めで悔しくて仕方がない。

 みんなを助けたいと願って走り続けたのに、誰も彼もがその邪魔をする。やっと逃げた先でもまた敵が現れる。助けるふりをして、少女から全てを奪い取る。

 だというのに、ならば要らないと言えない自分の弱さが、腹の底から憎らしかった。


「そんなの、ない……」


 失った石があれば、きっといくらかにはなったろう。それだけの価値があると、誰かが言っていた。

 だが今は、価値のあるものなどもう何も持っていない。あるのはこの首飾りだけだ。

 そう、惨めな思いで握り締めた時、


「……それ、何だ?」


 男が、何かに反応した。わざわざ鍵を開けて中に入り、少女の胸元に手を伸ばす。

 そして喜声を上げた。


「いいじゃないか、これは金になるぞ」


 そう言って持ち上げたのは、革紐に通していた薄い灰玉髄と、八角形の水晶のような方柱だった。

 灰玉髄には幾つかの数字や文字が彫られているが、所々欠けていて正確には読めない。

 水晶の中には、虹色に光る蕾と、咲き掛けと、満開の、三つの小花が閉じ込められている。


「だ、だめ……!」


 問答無用で取り上げられそうになり、少女は慌てて飛びついた。が、あっさり避けられた。

 だが、それだけだった。無理やり取り上げることはされなかった。

 ただ、少女の蘇芳色の瞳を覗き込んで、こう言った。


「ま、一つでいいだろ。足りなくなったらまた売るがな」

「ぃや……いや……っ」

「どっちだ? それくらいは選ばせてやる」

「……ッ」


 自分の命のように縋りつく少女に、男は淡々と宣告する。

 少女は悩んだ末、泣きながら水晶を手放した。

 選んだ理由は、自分でも分からない。

 ただ、記憶の中の声が言ったのだ。


『これだけは、いつも肌身離さず持っているのよ。もし、もしあなたの身に何かあった時、認識票これがあれば、すぐにあなただって分かるから』


 優しい声が、大好きな声がそう言ったから。

 だから首飾りだけは手放せない。


「……お……、うぅ……っ」


 名前を呼びたいのに、なんと呼べばいいのかさえ分からない。

 懇願の末に得た食事は、泥のような味がした。

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