第三十六話 未だ死せずして 涙漣漣たり

 十七、八歳ほどの容姿を持て余しながら、少女はただただ困惑した。

 自分の名前が分からない。年齢も分からない。

 何故ここにいるのかも分からない。


(なんで……なんで分からないの? 私、何を……何かをしなくちゃいけないはず、なのに)


 どんなに記憶を辿っても、あるのは空っぽの闇。そして頭痛を始めとするあらゆる痛みと吐き気だけ。

 絶対に忘れてはいけないはずなのに、少女の中にはもう、今までのような手がかりとなるものは、欠片すら残されていなかった。

 分かるのは、辺り一面に花々が咲き誇っていること。少女の体の下にある花さえも、体をどかせば滲むことも落ちることもなく咲き続けるこの永遠の花園にさえいれば、きっと大丈夫なはずということ。

 それと、遥か遠くには、雲を突き抜けて聳える大きな山――棲雲山があるということ。

 その山から下りてきた、唯一無二の存在が言う。


「まぁ良い。ぬしを保護する」


 犬猫でも拾うようにそう言われ、少女は困惑した。

 保護とは、何かから守ることだ。それは分かる。

 守ってほしいと、ずっと思っていたのも確かなように思う。

 だが違うのだと、頭の中では真っ先にそう浮かんでいた。


「わ、私よりも、みんなを……みんなを助けてください」

「皆とは誰じゃ」

「そ、れは……」


 問われ、再び言葉に窮する。

 助けてほしいと思っていた。この惨状から救ってほしいと。

 けれど今、少女は生きている。

 助けたいのは、助けられなかった人々だ。

 だがそれが誰なのか、分からない。

 助けたかった人は、確かにいたはずなのに。

 そう思考して、思い出す。


「……ここにいた人は? ここに、誰かいたでしょ?」


 そう、助けたい誰かをここまで運んできたはずだ。その人を助けてほしいと見上げれば、具眼者は首を横に振った。


「酷く腐敗が進んでいたからの。丁重に埋葬したわ」

「……っ」


 そう言われ、少女は感謝すべきなのに怒りが湧いた。そんなことは余計なお世話だと。そんなことをしたら、助けられなくなるじゃないと。

 けれどそう言い返すことが良いことではないことだけは、残された常識と理性で理解していた。

 代わりのように、苛立ちに任せて無茶な要求をした。


「わ、分からないけど……とにかく助けて! みんな、苦しんでるのよ!」


 もどかしくて堪らないと、少女はついに立ち上がって叫んでいた。

 こんな問答など、何の意味もない。人智を越えた力を持つという具眼者が一緒に来てくれさえすれば、全ては解決するのだ。

 だというのに。


「できぬな」


 具眼者は、詰まらなそうにそう一蹴した。

 少女は、愕然と蘇芳色の目を見開いた。


「な、なんで……? 強いんじゃないの?」

「過ぎたことに、個人の意思が干渉することはできぬ」

「過ぎたって……でもここは、そんなの関係ないはず……」

「少なくとも、主を前に確認した時から二百年は経っている。それほどの時の流れに干渉することは、誰にもできぬ」

「に……?」


 何を言っているのか、少女はすぐには理解できなかった。

 二百年も経っていたら、少女は既に死んでいるはずだ。だって少女は仙でも華族でもないのだから。

 混乱する少女に、具眼者は続ける。


「生き残ったのは主一人じゃ。ゆえに、此処にいる理由はない」

「……そ……」


 そんなことはないと、少女は具眼者の言葉を何から何まで否定したかった。

 少女がここで独りきりなはずはないし、此処から離れる理由もない。

 けれど何故だか、声が出なかった。


「さぁ。来よ」


 具眼者が、少女よりも小さな手を差し伸べる。

 具眼者に保護されれば、きっと安全になるのだろう。もう何かに怯えることも、逃げ惑うこともなくなるはずだ。

 それくらいのことは、少女にも分かる。

 けれど何故だか、その手を取ることができなかった。


「……いや。行かない」


 少女は、本能的に退いていた。

 その刹那、具眼者の目の色が変わったことを、少女は確かに感じた。


「……ならば、ころ」


 す、と聞こえる前に、少女は踵を返して駆け出していた。花を蹴散らし、柵を目指して走る。

 その眼前に。


「!」


 音もなく、二人の男――仙が立ちはだかった。

 背後で、具眼者が一歩も動くことなく告げる。


「主を野放しにすることはできぬ。逃げるのならば、殺す他ない」


 その通告はあまりに無慈悲で、少女は背筋が凍るほどの恐怖を感じた。

 死という言葉が、少女の記憶を激しく揺さぶる。

 震える唇から零れたのは、いつかも紡いだような自己弁護。


「な、なんで……私は、私たちは何も……!」


 何も悪いことなんてしていないと言いかけて、脳裏にまたあの声が響いた。


『俺たちは何もしていない。ただ生きていただけだ……!』


 顔も知らない誰かの憎悪の声が、恐怖の底に押し止まっていた感情を押し上げる。

 そして。


「主がこの里の生き残りで、そして、女神の一人だからだ」


 具眼者の意味不明な理由が、込み上げていた激情を噴出させた。


「――――――どいて」


 今まで感じたことのない憎悪でもって、その一言を放っていた。

 否、今までは恐怖と混乱の大きさに負けて表面にまで辿り着かなかっただけで、その感情はずっと少女の胸の奥底に燻っていたのだ。

 突如襲いかかった暴力に。

 理由も確かでない理不尽に。

 助けたい人を助けられない無力さに。

 望む時には現れず、現れたと思えば一方的に命を奪おうという具眼者に。

 今まで味わった何もかもに。

 少女は、ずっと怒っていた。


「……悪いとは思っている」


 具眼者が、ぽつりと零す。それは謝罪のようにも聞こえたが、仙が動き出す合図でもあった。

 仙の一人が、ゆらりと間合いを詰める。その顔に向けて、少女は左手を突き出していた。

 少女の体がいくら成長したとはいえ、さすがにそれだけでは仙に届くはずもない。仙もまた、警戒しつつも道袍を靡かせながら悠然と歩みを止めない。

 はずだった。


「何を……――!?」


 少女に迫っていた仙が、徐々に顔を歪め、ついに足を止める。

 その顔に広がる苦悶の意味を、少女は知っていた。


神撫かんなか!」


 具眼者が初めて声を大きくする。それに応じてもう一人の仙もまた少女を殺そうと動き出す。

 その一人にも急いで左手を向けると同時に、少女は再び走り出した。


(もう、いや……! もう、奪われるのは……!)


 腹の底から湧き続ける怒りが、少女のぼろぼろのはずの脚をなお前へと押し出す。

 左手は向けた相手の痛みや苦しみを奪うが、反対に少女の中にあるものを与えることもできる。

 今までそんなことはしたことがなかったはずだが、今は本能が命じるままに、少女の中に無限にあるこの苦しみを仙たちに押し付け続けた。

 たとえ記憶がなくとも消えることのなかった二百年分の少女の苦しみに、仙が正気を保とうと自身の肌に強く爪を立てる。

 それを尻目に、少女はどこまでも走り続けた。

 走って、走って、走って。

 炭化した木柵を越え、狂い咲きの花が広がる野原を越え、山から流れる小川を越え、ただひたすらに具眼者から――棲雲山から逃げた。

 そうして気付けば、海が見えていた。


「ここ……」


 記憶にない、知識にもない場所に、少女はそろそろと歩み寄る。

 対岸にあるという雪と氷に閉ざされた島の影響で、眼前に広がる紺碧色の海は肌を突き刺すような冷気を発している。

 その冷たく荒々しい波頭を見下すように建っているのは、数段の階段があるだけの石造りの壇だ。中央には、片流れの屋根があるだけの四本柱が建っている。

 それを車站えきと呼ぶことを、少女は知らなかった。けれど自然と、屋根の下に佇立していた。意図も期待もなく、ただ右を見て、左を見る。

 そしてあることに気付く。


「あれ、何だろ……」


 指を差し入れればたちまち凍りそうな冷たい海面のすぐ下に、二本の棒が沈んでいた。その棒はどこまでも真っ直ぐに伸びている。

 間には、腐ってしまわないのか、同じ大きさに切り揃えられた木の板が等間隔に並んでいる。

 何かの遺跡だろうかと、石壇の端に寄って更に顔を覗かせた時、


 ポォ――――……


 大きな音が、空気を震わせながら近づいてきた。どこか里の鐘の音を思わせる。

 少女は音のする方を眺めやると、そっと一歩足を引いた。

 そこに、巨大な箱が水飛沫を上げながら滑り込んできた。

 驚いている少女の眼前で、箱がぽっかりと口を開ける。中には等間隔に並んだ長椅子と、正方形に切り取られた幾つもの硝子窓が見える。

 集会所の一室に似ている気もするが、真っ白な床が淡く光って見えるせいか、安易に踏み込める雰囲気ではない。人もいない。

 少女は、無意識に覗き込んでいた顔を引っ込めた。

 ここは駄目だと、本能が足を下がらせる――そこに、遠く声がした。


(また……まだ……!)


 仙か、いや、あいつらかもしれない。


 殺せ。女神を殺せ。


 知らない声が、覚えていない言葉を繰り返す。その終わらない恐怖から逃げるように、少女は箱の中へと飛び込んでいた。

 認識票クリシスが、弾みで胸元から飛び出す。それを目の端で捉えながら背後を振り返れば、視界の端で箱の口が――扉が静かに閉まった。


「……て、行くな女神よ! 主はいま――!」


 甲高い声が、扉が閉まると同時に無音に置き換わる。世界が明らかに隔絶される。

 そう感じた途端、少女はその場にへなへなとへたり込んだ。


「逃げ、られた……?」


 がたん、ごとん、と規則的な振動が床の下から伝わるのを体で感じながら、少女は信じられないと呟く。と同時に、安堵が大きな塊のように胸底から湧き上がってきた。

 ぽろぽろ、ぽろぽろと、涙が次から次へと溢れる。


「……ぅ、ひっく……!」


 床に額を付け、少女は独り、蹲って泣き続けた。

 ずっと、助けを求めていた。

 けれど結局、誰も助けてはくれなかった。

 その事実が少女に味方はいないのだと突きつけるようで、あまりに虚しくて辛くて、やるせなかった。

 それに、助けたかった人たちも置いてきてしまった。今となっては少女の唯一の味方だった二人を見捨て、自分だけ生き延びてしまった。


「あ、あぁ……っ」


 名前を呼びたいのに、それさえも出てこない。

 ただ、胸元の認識票と時針儀ホーラ、そして月石を纏めて握り締める。

 握り締めながらも、それらが何なのかも、少女にはやはり分からなかった。

 ただ、自分の命のように胸に抱く。

 これらさえあればきっと、よすがにして生きていけると、そんな確信だけはあったから。

 少女は均一な硝子窓から射す陽光をその背に浴びながら、いつまでも泣き続けた。




       ◆




 大陸列車の扉が閉まり、海面に沈む線路の上を波を蹴立てて走り出す。

 こうなれば、もう誰にも追いかけることはできない。

 ましてや具眼者は、己の管轄する島から出られない。

 時の具眼者――縡齋こととき=ラヴァン・タヘール=ズマンは、遠ざかる列車を見送りながら、遅れて追いついた大仙ムニに問いかけた。


「わちきの判断は間違っていたか?」

「いいえ。適切でした」


 背後で足を止めた大仙が、慰めるように否定する。それに自嘲しながら、縡齋は袴の裾を翻した。


こん車站に向かいますか?」

「いや、恐らく無駄じゃろう」

「そう、でしょうか」

「あやつが列車に乗れたのは、魔石以上の物を持っていたからだ。あやつが持っていたのは、恐らく月石。となれば、十二大陸を一周するくらいは可能じゃ」


 列車に乗るには金銭ではなく力を蓄えた石――魔石や霊石、月石などが必要だ。小さな魔石でも一度ならば乗車は可能だが、不足となれば強制的に次で降車させられる。

 だが大陸列車は、それぞれの島の入口と出口の二か所にしか停止しない。坤車站にも仙を送るが、恐らく手出しはできないだろう。


「……女神を逃してしまいましたね」

「あぁ。女神が降りた島の具眼者やつに、文句を言われるわ」


 幸運を司る女神ラナ・ラウレア・エア・ヒアは、必ず転生する。それは防ぐこともできないし、生まれ出でること自体は悪ではない。だが時が悪い。

 女神は、今の時代に存在するにはあまりに強大だ。

 上代の終わり、降臨した天人マルアハによりその肉体と魂を三つに裂かれて以降、女神の三つの魂は常に別の時代に生まれ、決して巡り合うことのないよう呪われたという。

 そして数十年前には、既に別の女神の子が一人、この世に生れ落ちたと聞いている。生まれる前から神魔デュビィに目を付けられ、現在の消息は不明だが。

 もう一人の女神の子がこの島から生き延び、二人が出会ったとしても、女神の魂はまだ不完全だ。何が起こるとも思えない。

 だが、それでも危険は孕んでいる。

 世の理法ことわりを理由に身勝手に魂を裂かれた女神が、天人を、この世を怨んでいないなどとは、誰にも断言できないのだから。


「……何も、何もしてくれるなよ、女神の子よ」


 この島に女神の一人が生まれたと察した時に零した溜息が、再び縡齋の喉元からせりあがる。

 何もなければこちらからは何もしないと決めて放置していたが、まさかこんな事態に陥るとは、流石に予想していなかった。

 たった一人生き延びた少女が女神だと知り、この二百年探し続けてきたが、結局取り逃がすことになってしまった。

 それこそまるで不可視の力が働くように、世界の意思が彼女を守るように、この島に閉じ込め続けることが叶わなかった。

 それが彼女にとって、幸いなことなのか不幸なことなのか。

 それは、具眼の座を与えられた縡齋にも、到底分かることではなかった。

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