第三十五話 夜夜孤魂 月下に愁う
ずっと、考えないようにしていた。
すぐそばにいたはずなのに、いつの間に離れてしまったのか。
いないから探して、追いかけているつもりだった。
母にもう一度会えれば、きっと何もかもが良くなると信じて。
そのはず、だったのに。
「ぁ……ぁ……ウッ」
無意識に考えないようにしていた現実が今、最悪の形で結実し、槿花の元に舞い戻ってきた。
その罪の重さに耐えられず、鋼のように込み上げた嗚咽に負けて嘔吐していた。
おぇ、おぇぇっと、吐瀉物を床にぶちまける。
胃酸で喉が焼け、生理的な涙と感情がぐちゃぐちゃに混ざって涙が止まらなかった。頭が益々ガンガンと痛む。
それでも、槿花は必死に這いずって、事切れた母に縋り寄った。石のように固く冷たくなった肩に額を預け、謝り続ける。
「ごめ……ごめんなさ……私、私がお母さんを置いて、逃げたから……!」
だがどんなに言葉を尽くして謝ろうと、母には僅かにも届きはしない。返り続ける
槿花は逃げ込んだ薬材庫で、死体が握っていたらしい紙切れを見つけて、祝詞を唱えた。男たちの声が怖くて、その死体が誰なのか、確認もせずに時を越えた。
その結果が、これだ。
自分だけ助かりたいがために、すぐ傍にいた母にも気付かず、見捨てて逃げて、みすみす母を死なせた。
母はすぐ手の届く所にいたのに。
祝詞を唱える前には、生きていたかもしれないのに。
槿花は自分のことしか考えられなくて、気付けるはずだった事実に目を背けて、逃げてしまった。
後悔しないように、次はちゃんと言うと、そう決めたのに。
「おかあさぁぁん……っ」
あぁ、頭が痛い。右手が痛い。それなのに、空腹で胃がキリキリする。
体が生きようとするようで、辛くて堪らない。また逃げたいと思っている自分が嫌になる。
でも逃げる場所などどこにもない。それなのに、目は何かを探している。
そんな無為な行いを、どれほど繰り返しただろうか。
真っ赤に腫らした目で、見つけた。
投げ出されるように伸びた、母の右手の先に転がる細筆を。
筆先が、墨ではなく、血で固まっている。
そして、それが押し当てられたであろう紙は、まだ、槿花の左手の中にあった。
「……あ……」
くしゃくしゃになったその血文字を見た瞬間、槿花は閃いた。
「……そうだ。戻せばいいんだ」
母が槿花を逃すために何度も過去に戻っていたように、槿花もまた母の時を戻せばいいのだ。母が生きていた日まで。
否、あの恐ろしい連中がこの島に入るよりも更に前まで。
死者蘇生の術はまだ完成していないらしいが、時を戻ることはこの島ではある意味簡単だ。時を戻れば、全てが元通りになる。
里の誰も死なず、榊は
「祝詞……あと、薬材も」
頭痛のせいで平衡感覚が危うい中、槿花はふらふらと庫内を探し回った。母が口にしたことのある材料を、片端から掴んで床に並べていく。
何が必要かなど、槿花に分かるはずもない。それでも、探し当てなければならない。
「祝詞は、どこだろう……研究棟かな」
小さく安全な薬材庫から出るのはまだ怖かったが、祝詞が分からなければ何も始まめられない。時を跳ぶ祝詞では意味がない。
槿花は恐る恐る顔を出して周囲を確認すると、そろそろと地面に降り立った。なるべく赤く見える箇所を避け、母の研究棟に向かう。
最後に見た時には、まだそこまで燃えていなかった。あの連中が資料をどれくらい持って行ったのかは分からないが、全てを確保することはまず不可能なはずだ。
そうして、槿花は角を曲がる度にびくびくしながら、母の研究棟に忍び込んだ。どうにか燃え残った中から、祝詞がまとめられたものや、殴り書きされたものを根こそぎ持ち出す。
焼け落ちた建物は憐れだったが、焼け残った建物もまた、知っている誰かが今にも歩いてきそうで、でも誰もいなくて、悲しかった。
薬材庫への帰路に着く頃には、槿花の肉体も感情もすっかり疲れ果てていた。
だから。
「おい」
「!?」
突然声をかけられ、槿花は心の臓が止まるかと思う程驚いた。
やはりあの男がまだいたのだ。
だがバッと振り向いた先にいたのは、
「ぁ……」
途端、槿花の脳裏に涼しい顔をして男たちを切り刻む姿が想起された。全身が本能的に強張る。
仙は具眼者の使いだ。無闇に人を殺すことはない。
だが決して仁徳の徒でもない。
あの雨の中、皮甲の男たちを殺していたように見えた。だがその後で里の人たちを救ってくれたのたかどうか、時を跳んだ槿花は知らなかった。
「お前、その手に持っているのは何だ」
「っ」
仙が眉根を寄せて一歩を踏み出す。その人間味のない顔も声も怖くて、槿花は質問されたことも理解できず逃げ出していた。
(こわい……怖い……!)
求めていたのはあんな人殺しではない。
槿花が助けてほしいと願う相手は、たった一人。
「お母さん……っ」
喘ぐように走るせいで、すぐに息があがり、ろくに走れていなかった。
それもそのはずで、槿花はもう何時間も起き続け、走り続けていた。疲労と空腹は極限に達し、足は針山の上を歩くように痛み、歩くだけでも辛い。
それでも仙には掴まりたくない一心で、薬材庫に走った。
薬材庫に入ると掻き集めた資料を床にぶちまけて、片端から祝詞を読み上げた。材料がどれかは分からなくても、この空間にありさえすれば術が有効となることは既に証明済みだ。
「
詠んでは待ち、何も変わらなければ次を詠みを繰り返す。
一つ詠む度に頭痛は酷くなり、時には昏倒するようにその場に倒れた。
目を開けるごとに自分が何をしていたのかを忘れ、何をしようとしていたのかを忘れた。
その度に、足元に転がる死体が母だと気付いては後悔し、嘔吐し、泣き咽んだ。
それを、何度繰り返したか。
最も酷かったのは、目が覚めた時に強烈な異臭がしたことだ。
「な、なに、この臭い……」
現状を思い出した時、母の死体が腐り始めているのだと気付いた。
そして同時に、己の行いが全て無意味だったことを察せざるを得なかった。
槿花は時を戻すどころか、進めていただけだったのだと。
◆
「消えただと?」
地上から
何者かの手引きによって賊が島に入り込んだという報告は、既に受けている。
里の誰かへの私怨であれば放置する話だが、今回は明らかに意図的だった。里を滅ぼそうとする不埒者や、島の秘密を暴こうとする愚か者は時折現れるが、今回はそのどれとも違う感じがする。
圧倒的な作為を見せつけながら、その目的は結果ではなく、経過にこそあるような、不気味な印象。
強いて類似性を上げるなら、まるで
その酸鼻を極める中での、数少ない生き残りの一人である少女。その保護を目的に動いていた大仙が、目標を見失い、あまつさえ探しだすことすら出来ないという。
「相当の術の使い手か?」
「そうも見えませんでした。俺を見て悲鳴を上げて逃げたくらいですし」
「であれば、ますます面妖な……」
今回の件で一報が届いた時、縡齋はまず神魔の関与を疑った。だが事ここに至っても、神魔の気配は感じない。
島に入る前の段階から仕組まれていたというのなら、島を離れることの出来ない具眼者には対策のしようがない。
だがそこまで入念に、かつ長期に渡って執拗に狙うという行動自体が、そもそも神魔という存在には当てはまらないとも言える。
仮にそんな輩がいるとしたら、その神魔はネオン神族に心底から心酔しきっているか、想像もつかない善からぬことを企んでいる可能性がある。
もしネオン神族のもう一つの宿願のために動いているとしたら、時辰の島に来る理由には心当たりがある。
「もう一度探せ。今度は徹底的にだ」
「了」
大仙が踵を返して退室する。その背に容姿に見合わぬ深い嘆息を零して、縡齋は十一年ぶりに歯噛みした。
「……女神よ。やはり、
◆
「ど、どうしよう……どう……」
混乱した槿花は、悩むだけ悩んで、母の死体を薬材庫から運び出すことにした。
母たちがあんなに苦労しても正解を見つけられないのに、槿花が次で正解を見つけられるとは到底思えない。
次に祝詞を唱えて、もしまた時間が進んでしまえば、母の遺体がどうなるか分からない。
それならば、母の遺体はこれ以上絶対に腐敗の進まない場所に置いておくべきだ。父の眠る、時の止まったあの墓地で。
だが十一歳の槿花に、大人の体は大きすぎる。ましてや意識のない肉体は一層重い――と思ったけれど、意外にも持ち上げることができた。できてしまった。
「あれ……?」
違和感が、槿花の胸をざわつかせる。
母を持ち上げようとした腕が、妙に長いのはなぜだろう。否、正確には袖口からはみ出した肌が長い。
まるで、間違って幼い時の着物を着てしまったような、寸足らず。思えば足元もすーすーするような気がする。
(冬でも来たのかな)
時辰の島では、季節もまちまちだ。春の次に秋が来たり、冬が来たりする。衣替えというものはなく、その日の朝に空を見て季節を判断する。
槿花はもうずっと薬材庫に籠って、空などとんと見ていなかった。
だが今は、今日の服について悩んでいる時間などない。母の体の方が何倍も大事だ。
槿花は母をどうにか背に担ぐと、よろよろと薬材庫を出た。燃えて倒れた柵を跨ぎ越し、踏み荒らされた野原を抜け、真っ直ぐに墓地を目指す。
やっと辿り着いた墓地の扉を、体で押し開ける。墓地の中には、今まで見てきた火事の気配が欠片もなかった。相も変わらず、見渡す限り花々が好き好きに咲き乱れ、今日も今日とて美しい。
「着いた……、ここなら……」
あの火事の夜以来初めて感じた安堵に、どっと疲労が押し寄せる。もう少し中へと思うのに、槿花はそこで力尽き、母を負ぶったまま墓地の入口に倒れ込んだ。
次に目を覚ましたのは、知らない声が聞こえてだった。
「――の娘がそうか?」
それは、学舎で聞くような、どこか幼い甲高さの残る声だった。声質だけなら女児のようなのに、深く響く落ち着いた声調はまるで先生のようでもある。
「全く、いつの時を無為に彷徨っていたものか」
「だれ……?」
幼い声で重々しく嘆息するその人物に、槿花は中々開かない瞼を押し上げて問いかけた。
鼻先で芳しい花香が
里では見ないような金糸銀糸で縫い取った華やかな着物に、蝶のように腰紐を結んだ袴を合わせている仰々しい格好。仁王立ちに開かれた長革鞋が、威圧感を助長している。
だがその上に乗る小さな顔を見れば、大きな瞳にふっくらと丸い顎など、年の頃は槿花よりも幼いくらいに見える。だが険しく引き絞られた眉根や、その円らな瞳に宿る深い知性には、やはり隠しきれぬ貫禄が漂っていた。
そんな、ちぐはぐながらも完璧な姿かたちをした者の名を、槿花は一つしか知らない。
「……
それは、里の皆が具眼者を呼ぶ時に使う言葉だった。
だが少女――時の具眼者はそれには答えず、実に面倒くさそうに嘆息した。
「その呼び方は好かぬ」
「え?」
「
「…………え?」
続けられた言葉に、槿花はきょとんと具眼者を見上げた。意味が分からない。
「
見ろと言われ、槿花はやっと上半身を起こすと、己の手足に視線を滑らせた。
記憶よりも長く衣からはみ出した両手足。裾に至っては、踝まであったはずが膝までしかない。
「なに、これ……?」
「その方、姿だけなら既に妙齢よ」
「ちが……、私は、まだ……」
呆れた声で断言する具眼者に、槿花はすかさず訂正しようとした。けれどすぐ、言葉に詰まった。自分の年齢が何か、分からなかったのだ。
(私、いま、何歳、だっけ……?)
少しも思い出せない。だが記憶よりも長すぎる手足も、どことなく低くなった声も、記憶よりも高い視線も、どれもが違うということだけは分かる。
「道理で、難儀するはずじゃ」
「ち、違います、私は、あの、探してる人じゃ……」
「では、主は誰じゃ?」
「――――」
必死に弁明する槿花に、具眼者が白々しく問う。
そこでやっと、槿花は――愚かな少女は気が付いた。
自分の名前すら、分からなくなっていることに。
(『私』は、誰……?)
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