第三十四話 母無くば何をかたのまん


 ハッ、ハッ、ハッ……!


 雨脚がいよいよ強まってきていた。

 自分の上がって乱れた呼気も心音も煩わしい。

 だが、それ以上に。


「女神だ! 女神がいたぞ!」


 背後から上がる男たちの幾つもの怒号が、ただひたすらに逃げるしかない槿花を追い詰めた。歩けない女たちの怨嗟の声も混じる。

 槿花は薄暗くなり始めた里の中を、当てもなくがむしゃらに走り続けていた。研究棟から離れ、時に木柵に寄りかかって呼吸を整えながら、野原の花を蹴散らして、何度も転びながら逃げた。


 最初に向かった民家の惨状は、研究棟よりも遥かに酷かった。板葺き屋根ということもあり、ほとんどの民家は焼け落ち、黒く炭化した柱と床が残るばかりだった。

 その間に点々と転がる黒く大きな塊が何か、槿花は考えなかった。

 人がいない。その事実が、槿花を益々追い詰めた。


(誰か……誰か助けて……!)


 その後も、学舎になら、集会所になら、墓地にならと、希望を託しては逃げ回った。そしてその度に落胆し、別の傭兵に見つかり、また走った。

 走って、走って、走って。


「ゼェッ……ゼェッ……!」


 もうどこにも逃げ場なんか残っていないように思えて、どこを目指せばいいのかすら分からなくなっていた。

 走りすぎて酸欠気味だし、転びすぎて膝も手も痛い。泥混じりな雨が瞼にかかって目も開けづらい。

 気付けば、何故かまた研究棟に逆戻りしていた。

 ふらふらと、焼け残った木柵を越え、建物の陰を歩く。何も思考できないまま、雨で洗い流された死体の間を歩き続けると、いつの間にか辿り着いていた。

 あの、薬材庫に。


「……おか……お母さん……」


 周りにあの男たちはいない。あの火災でも焼け残った重い蔵戸は、まるで指し招くように薄く開かれている。

 けれど、入ってはならない。もう幼子ではないのだから。

 何より、他に出入り口のない場所に自ら飛び込むなど自殺行為だ。

 そう、普段の槿花なら、分かったはずなのに。


「おかあ、さん……」


 救いが、欲しかった。

 逃げる場所も隠れる場所もないのなら。この島にいる誰もが槿花を責め恨み、追いかけるのなら。

 誰も、助けてくれないのなら。

 母の気配が少しでも残るこの狭くて薄暗い場所で、昔のように小さくなって隠れていたかった。

 けれど。


「っ……――!?」


 いざなわれるように忍びこんだ薬材庫の中、細い光が射すだけの暗闇の途中で何かに躓き、槿花は僅かに正気を取り戻した。

 火事や襲撃の時に、棚から何か落ちたのだろうか。

 粉雪のように光を反射する埃が舞う中、床に向かって目を凝らす。それから、手探りで床をまさぐった。

 すると左手がかしゃ、と乾いた音に当たった。そのすぐ次には、右手がぬちゃ、とぬめるものに当たる。


「っ」


 槿花は反射的に手を引いた。

 それは、人だった。

 床に血溜まりができるほど失血した――死んだ人。


「……もう、やだ……っ」


 はぁーっ、はぁーっ、と落ち着きかけていた呼吸が再び荒く浅くなる。胸が苦しい。

 鼓動を少しでも落ち着けたくて両手を胸に抱き寄せると、くしゃ、とまた音がした。


「……?」


 たった今、左手で探り当てたものだ。無意識に握り締めていたらしい。

 ゆるゆると指を開き、細い光の筋に紙を合わせる。赤黒い墨で、見覚えのある字が走り書きしてあった。


「……いむなや、ここの、たり、ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ……?」


 それは全く聞き馴染みのない難しい、けれど記憶に残る言葉だった。

 数刻前、母の声で確かに聞いた祝詞。


(何で、これが……)


 自然と沸き上がる疑問が、また別の疑念を呼び起こす。

 母が詠み上げた祝詞の書かれた紙を持っていたと思われる、この死体は一体誰なのかと。

 ここは里の研究者全員が出入りする場所だ。それに、祝詞も基本的な部分であれば多少はは似ることもあるだろう。

 だがその先を考える時間は、幸か不幸か、今の槿花にはなかった。


「どこいったあの餓鬼! 絶対見つけろ! 仙にやり返すぞ!」

「……ッ」


 扉のすぐ向こうで、あの男の声がする。

 狩りのように大声を上げて槿花を追い立て、死ぬ寸前まで殺そうとするような、あの目。


(いや……いや、怖いっ……死にたく、ない……!)


 そう思った時には、手許の紙片の続きを読み始めていた。


「……て、てんちじげん、こしゅこじん、こう、こうりん、れつざ、うやまってまをす。しいきたいきょう、しいきばんじゃく、ふどうふへん、よ、ようへんようどう……? しんえんさいらい、しんこんふめつ、しんこんふらん、しんこん、し、しょうじょう、しんこんじゅうわしん」


 分からない単語と難しい言葉ばかりで、槿花は泣けて読めなくなりそうだった。少しも母のように流暢にはいかない。

 しかし扉の外にはあの男たちがいるし、薬材庫ここにはもう逃げる先がない。あの男たちに掴まりたくないのなら、下手くそでも間違えても、唱えるしかない。

 母があの時、そうしてくれたように。


「いっしんに……一心に願いまをす。きしんきぐう、形に影のそうごとく、たましい、彼に従わん……!」


 たどたどしいばかりの祝詞が、ようやっと完成する。と同時に、数刻前に感じた不可視の力が再び槿花の内外に満ちるのを感じた。

 その感覚の中で、母の温もりだけがどこにもないことが、槿花の小さな胸をなお苦しめる。

 それでも、槿花はきっと大丈夫だと思った。

 祝詞の意味が分からなくても、必要な薬材がどこにあるか分からなくても、母が残してくれた言葉があれば、きっと母のもとに行けると――




       ◆




 槿花は、ぼんやりと重い瞼を持ち上げた。

 それから暫く、槿花はぼうっとしていた。赤い光に反射する小さな埃の粒を、見るともなく目で追う。

 どれ程そうしていたろうか。


「……あれ? 私、なに、してたんだっけ」


 温かな風に頬を撫ぜられ、不意に正気付いてゆっくりと周囲を見回す。

 所々棚板の割れた薬棚に、散らかった書物や筆や、飛蓬マグワートが押し込まれた木箱や銀翅鳥アスィミの羽根が床に散乱している。

 薬材庫だ。

 しかしここには、子供は立ち入りを禁止されている。黙って忍び込むなど、最近はとんとなかった気がするのに。


「なんで……いつ、忍び込んだっけ……?」


 何かきっかけでもあったかしらと、更に首を巡らせる。いつもはきっちりと閉じられている扉が、大きく開け放たれている。薬棚がよく見えたのはそのためだ。

 槿花は、茜色に染まる四角い空に誘われるように、扉へと歩み寄った。日暮れが近いのだろうか。返照が地面まで赤く染めている。


「なんだか、静か……」


 研究棟の周りは普段から静かだが、夕方になれば皆帰路についたり、研究にキリがつかないと慌てたり、何かと騒がしかったりする。

 だが今日は、そんな気配が一切ない。


(なんで……)


 訝しみながら、空を見て、建物を見て、また地面を見て、そして。


「…………!」


 幾つも転がる泥まみれの死体を見て、勃然と記憶の蓋が開いた。

 突然里に現れた何人もの傭兵たち。

 何もかも焼き尽くていく炎。

 害獣を駆逐するように無惨に殺されていく里の男たち。

 捕えられ、奴隷の焼き印を押される女たち。

 地面が赤いのは夕陽のせいなどではない。雨でも洗い流しきれなかった、里人たちの夥しいまでの血のせいだ。

 そこには、きっと榊の血もある。


「……ぃゃ……いやぁ……ッ」


 思わず拒絶するように頭を振れば、ズキンッと酷く痛んだ。両手で頭を覆えば、今度は右手がじくじくと痛む。

 そろそろと見れば、赤く爛れた火傷が薄っすらと乾き、『つぶね』の文字がぬらぬらと光っていた。

 記憶が現実と結び付く。途端、身体中から力が抜けて立っていられなくなった。


「私、奴隷になっちゃったの……?」


 痛みは体中にあるのに、現実味が一つもない。

 そもそも時辰ときの島には奴隷がいない。奴隷と言われても、どんな存在なのか想像もつかない。

 だが、それに答えをくれる者はどこにもいない。ここには、見渡す限り生者がいないのだから。


 だが一方で、希望もあった。

 誰もいなくなったのなら、あの恐ろしい連中も帰ったのかもしれない。もう逃げ回る必要はなくなった。

 そう思うのに、目の前に広がる血混じりの泥に足を踏み入れるのが怖くて、尻餅をついたまま本能的に薬材庫の中に後退りしていた。

 だがそれは、少し進んだところで止まってしまった。

 手が、何かに当たったのだ。


「…………――」


 曖昧になり続ける記憶の中で、既視感が鳥肌を伴って呼び起こされる。


 見てはいけない。


 本能が警鐘を鳴らす。

 けれど体は、壊れた偶人にんぎょうのように振り向いていた。当たった手の先にあるものを。

 死にたくないという恐怖から、一人逃げ出し、時の中に置き去りにしてきたものの、その正体を。


「――――……お、おかあ、さん……?」


 纏っているのは、最後に見た柄と同じかどうかも識別できないほど血に染まった小袖。刀で斬られて解けた細帯と、その下に見え隠れする、青黒く変色した肌。

 酷く乱れて肌に張り付いた赤褐色の髪の下には、見開かれたまま止まってしまった、槿花と同じ蘇芳色の瞳が、憎悪を薄れさせてなるものかとばかりに虚空を睨んでいる。

 それは確かに、槿花の母だった。


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