第三十三話 幽愁と暗恨の生ずる有り
その後のことは、どこか他人事のように遠く感じていた。
事切れた榊の隣を歩かされ、里人の焼死体や血溜まりを越えて歩き、門前まで辿り着いたことは覚えている。右手に感じた痛い程の熱さに転げ回ったことも覚えている。
けれど周りにいたはずの里人の顔も分からなければ、飛び交っていた声もまるで理解できなかった。
この里には
他の隠れ家も全部探し終わりましたとか。
研究者はあまり殺すなよとか。
女神を見分ける目印はないのかとか。
もう、頭が、体が、ろくに働かない。
ふと意識が働いても、思い出すのは榊の最後の顔とあの涙ばかり。その度に涙が溢れ、呼吸が儘ならなくなった。
深く響くいつもの鐘は鳴らない。それなのにいつの間にか朝が過ぎていた。太陽は高く、影は短くなり。
雨が、降り出した。
ぽつり、ぽつり、と雨粒が黒ずんだ地面に吸い込まれ、色を変え、土が強く匂い立ち始める。
「ちっ、面倒臭ぇな」
首魁らしき男が舌打ちし、里人たちを移動させるよう部下たちに命じる。槿花もまた、腕を引っ張られるままに立ち上がり、大人たちの後について足を動かした。
右足、左足、右足、左足……大人たちのすすり泣く声が雨音に消される中、焼け落ちた柱の横を通り、落ちて割れた瓦を横目に進む。
降り始めた雨は燻っていた煙も消し去り、全てを蒼く塗り潰す。
異変が起きたのは、その時だった。
「がっ!?」
後方で、奇妙な呻き声がした。
槿花が気付いて首を動かした頃には、首魁をはじめとする男たちが刀を構えて何かと戦っていた。
槿花は一瞬、榊が戻ってきたのかと思った。そんなはずはないのに。
男たちが凝視する先にいたのは、
顔は知らないが、その恰好をした者なら、槿花も知っている。具眼者に仕える仙だ。
時折、具眼者の用事を行うために棲雲山から降りてくることがあるから、知っている。
それが何故、今頃現れたのか。
具眼者は、島の危機に現れる。だが島民の命がそれと同義ではないことは、学舎できちんと教え込まれる。
具眼者を尊崇することは良いが、古の神族や
だから誰も、具眼者に助けを求めはしなかった。それが今になって、何故現れたのか。
だがそんなことを思考する余裕は、この場の誰にもなかった。
「聞いてねぇ……聞いてねぇぞ、具眼者が動くなんて!」
喚き散らして混乱する男たちを、仙が片端から殺していく。目にも留まらぬ速さで踏み込んで、
十人以上いたはずの男たちは、泳ぐように舞う朱縷の前に次々と倒れていった。ある者は朱縷に首を絞められ、ある者は体を真っ二つに裂かれ、苦鳴と共に雨と泥の中に打ち捨てられていく。
その度に泥が跳ね、血が飛び、槿花の服を汚し、頬を汚し、左目の泣き黒子を塗り潰す。
否、或いはそれは、呆然と立ち尽くすしかできなあ槿花を置いて逃げ惑う里人の跳ね上げた泥だったかもしれない。
男たちの怒号と里人たちの悲鳴が入り混じる阿鼻叫喚の雨の中、その場に立つ者は瞬く間に半分以下に減っていった。
(……な……ん……逃げて、いいの……?)
あまりの事態に、まだ頭がよく働かない。
ただ何となく、ゆっくりと頭を動かす。
死体、死体、仙、死体、死体、逃げた里人、死体、半焼の建物、死体。そして、白い塗り壁が真っ黒に煤けた蔵――薬材庫。
「……ぁ……」
そう、薬材庫だ。
母たち研究者が日夜せっせと蓄えては丁寧に保管し、失敗しては訪れて新しい薬材を持ち出していく建物が、焼けずに残っていた。土蔵だからだろうか。
子供の頃、いつも忍び込んでは母に怒られていたその場所に、気付けば吸い込まれるように足を踏み出していた。
その足先に、何かが転がった。
「?」
ゆっくりと首を下ろす。
泥の中に横たわっていたのは、里の女の人だった。青白い顔で血塗れの腹を抱えて悶えている。
仙が現れたどさくさに逃げ出そうとして、男たちに斬られたのだろうか。
「っ、ぃ、いた、ぃ痛いぃ……ッ」
「……っ」
その悲痛に掠れた悲鳴に、槿花は思わず逃げ出そうとして、どうにか踏みとどまった。
(た、助けなきゃ)
視界の端で仙と男たちが戦うのを見ながら、槿花は女性の胸元にしゃがみ込んだ。勝手に震えだす体をどうにか制御して、傷口らしき服の裂けた箇所に左手を伸ばす。
途端、想像したものとは違う苦痛が槿花を襲った。
「っ……くぅ……ッ」
燃えるような腹の刺し傷、じくじくと痛み続ける右手の火傷、転んだ時にぶつけた膝に、冷たい雨。あらゆる痛みが槿花の中に流れ込んでくる。
だがその中でも最も槿花を苛んだのは、今にも叫び出したくなるような恐怖だった。
槿花には、他人に知られてはいけない秘密が、もう一つある。
左手を相手に向けることで、相手が感じている痛みや不安などを吸い取ることができるのだ。
最初に気付いたのは、父を失って泣いていた母だった。声もなく泣いていた母の背を撫でていた時、母が愕然と呟いた。
『いま、何をしたの』
それが槿花の左手のせいだと気付いた時、母は見たこともないほど怖い顔をして言った。
『この痛みも、……苦しみも、お母さんのものなの。たとえ優しさからでも、奪ってしまわないで』
父の死を嘆く喪失も、父を想う哀惜も、どんなに辛くても、自分のものだから、と。
母を心配する槿花に、母は気丈にそう言った。
そしてその左手を誰にも向けてはならないことと、誰にも知られてはならないことを厳命した。
だから槿花は里の誰にも秘密にしたし、榊が怪我をした時も我慢した。動物の傷を奪ったのは偶然だったが、動物は人に話せないと気付いてからは、たまに使うことを自分に許した。
何故なら、痛みを肩代わりする瞬間は少し辛いが、その左手を木々や地面に向ければ、すぐに緩和したからだ。
だが今は、左手を通して次々と流れ込む女性の痛苦や艱苦が大きすぎて、いつものように他に流すことができなかった。こんなに大きな痛みを引き受けるのは初めてで、頭で思考する前に本能が左手を引いていた。
その手を、掴まれた。
「ひ!?」
「痛い……まだ痛いのよ……ッ」
痛みが引いていくのを察した女性が、槿花の左手を引き留める。その目尻から滴る赤い雨がまるで血の涙のようで、槿花は恐ろしさに身動きが取れなくなった。
と同時に理解する。母が厳命した、本当の意味を。
「や……」
考えるよりも先にその手を振り払っていた。だが力が強すぎて離れない。
そこに、別の手が割り込んできた。
男だ。手下に命令していた首魁らしき男が、槿花を掴む女の腕を掴んでいた。
そして。
「お前……お前が女神か……!」
男が絶え絶えの息ながら、槿花を睨み上げてそう言った。だが、まるで意味が分からない。
「め、がみ……?」
「女神って……、あんたたちが探してた……!?」
先に意味のある言葉を発したのは、痛みが和らいだらしい女の方だった。槿花の顔を見て、この陰府よりも陰惨な現状の原因を推して知る。
そこにある感情を目の当たりにして、槿花もまた気付いてしまった。
この惨状は、お前のせいか、と。
「……ぁ……」
知らず声が漏れ、踵が後ろに下がる。
二人以外の目もまた自分を凝視していると気付いた瞬間、槿花は鳥肌が立つほどの怖気に取り付かれた。
女神など知らないと、否定しなければならないのに、声が出ない。
男たちから逃げ惑う女たちが、仙から逃げ惑う男たちが、槿花に向けて足を踏み出す。
気付けば、猟犬に追い立てられる獲物のように、槿花は走り出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます