第三十二話 涕をふるいて独り還らず
眼前に、黒く煤けた建物の残骸が広がっていた。
「…………え?」
たった今まで肌で感じていた熱気は、どこにもない。竈の火を消したあとのような鼻につく匂いはあるものの、初秋を思わせる風はしっとりと爽やかで、槿花の汗ばんだ首筋を冷やしていく。
槿花は、辛うじて燃え残ったらしき床板の上で、呆然と座り込んでいた。天井は焼け落ちたのか半分以上骨組みが剥き出しになり、抜けるような青空が見えている。
首を横に向ければ、炭化した柱が等間隔に並んでいたり、途中で折れていたりする。そこから白い煙が何本も細く棚引くさまは、木柵の向こうの野原でたまに見る霞のようで、なんだか現実味がない。
(なにが、あったんだっけ……?)
頭がぼうっとして、よく思い出せない。
ただ確かなことは、朝の鐘を聞いた覚えもなければ、母に朝の挨拶をした記憶もないということ。
つまり、またあの日の朝に戻ったということではないということだ。
(お母さん……そうだ)
母という単語に、槿花はにわかに浮足立った。それからやっと、今いる場所が研究棟の一室だと遅れて理解する。
途端、次々と記憶が蘇ってきた。
「もしかして、時を跳んだ……?」
「こんなことも、できるんだ……」
母たち研究者は皆、時を自在に戻したり止めたりする方法を探しているものだとばかり思っていた。未来に行くなど、研究の副産物だろうか。
手元を見れば、母に持たされていた物は何年も経たかのようにからからに干乾び、指を開いただけで粉々になって風に吹き飛んでいった。目で追えば、昨日と同じ白いほどの朝日が、きらきらとそれを照らし出している。
そして気付く。
周囲に、誰もいないことに。
「お母さん……?」
母は、すぐ傍にいたはずだ。きつく、きつく抱き締めてくれていた。
槿花が時を跳んだとしても、あちこちから残煙が立ち上っているのだから、一日と経っていないだろう。
母も遠くには行っていないはずだ。
「お母さん……お母さん……!」
槿花は急き立てられるように走り出した。崩れている戸を一つずつ覗き、母を呼び続ける。
声が掠れていた。熱に焼かれたのだ。触れる柱も戸もまだ全部熱い。
今度は夢ではない。
あの火事も、怒号も、母の言葉も。
「おかあさ――」
研究棟を丸々見終わってしまい、別の建物へと向かおうと路地に降りた所で、門前広場の辺りに人影が見えて、槿花は咄嗟に言葉を呑み込んだ。
最初は、里の人々だと思った。だがすぐに違うと気付いた。
立っている十余名は皆、それぞれに
そして彼らに囲まれるように、薄汚れた小袖や羽織を纏った人々がまとめて座らされていた。
こちらは二十人程はいるだろうか。誰もが憔悴しきった顔をして俯き、両手を後ろ手に縛られている。あたかも罪人の如く。
(な、なんで……)
状況が皆目分からない中、思い出したのは炎の中から聞こえてきた怒号だった。
(あの人たちが、里を焼いた……?)
榊の言葉を思い出す。
突然現れた連中。抵抗した大人たちを脅かし、里に火を放った。
まさか、あそこに集められた人々は、殺されてしまうのだろうか。
槿花は最悪の可能性に、再び走り出していた。三つか四つある建物の陰を伝って、門前の人々の顔が見えるまで近付く。
(お母さん……いない……)
目が痛くなるほど目を凝らす。母らしき人物は、いない。
それを確認すると、槿花は知らず止めていた息を大きく吐き出した。
身体中から緊張が抜けたことで、他の音も耳に届いてくる。
「朝までかかるなんて聞いてないぜ」
「全く、手こずらせやがって」
「隠さずに渡してくれりゃ、殺さずに済ませたものを」
皮甲に髭面の男たちが、口々に身勝手な文句を言っている。その足元には、研究棟から根こそぎ持ってきたのか、乱雑に積み上げられた綴り紙や木簡、薬材の入った麻袋が無秩序に転がっている。
やはり、時を操る研究が目的だったのだろうか。
「……我々は、そちらの意向に十分従っていたはずだ」
座らされているうちの一人が、昏い目をして呟く。あれは、榊の父の
普段とまるで違う覇気のないその声の、あまりに悲痛な訴えに、槿花は胸が締め付けられた。
(おじさん……!)
彼らが無造作に打ち捨てている資料や材料は、里の人たちが何十年もかけて集め、調べ続けてきた集大成。いわばこの島の血肉とも言うべきものなのに。
「知るかよ。お前らが隠れて違うこと研究してたとか、別の所に売りつけようとしてたとか、雇い主が言ってるんだからそうなんだろ」
「我々がそんなことをするものか!」
「あーあー。そんなことより、女神だよ、女神」
男たちは木斛の意見を灰よりも軽く吹き飛ばして、そう言った。
女神。
やはり、他にも目的があるらしい。
「……だから、そんなものに心当たりはないと、何度も言っている」
「だぁかぁらぁ、隠したら殺すって言ってんだろ」
答えるのも面倒臭いという風な口を利きながら、男がズブッと無造作に、木斛の胸に刀を突き刺した。木斛が目を見開き、声もなく口を喘がせる。
それを見もせずに刀を引き抜けば、木斛の大きな体がどさりと倒れた。その下に、真っ赤な血溜まりが生まれる。
「――――ヒッ」
「首謀者は女神を騙る不届き者だ。女神は生け捕りにしろって言われてるからな。男は使えないなら殺す」
あちこちで上がる悲鳴を牽制するように、男が淡々と宣告する。まるでその声に精霊術でもかけたかのように、人々は途端に口を噤み、目を逸らし、体を縮こませた。もう誰も、悲鳴すら上げない。
そしてそれは、槿花も同じだった。
(お、おじさんが……っ)
飛び出しそうになる悲鳴を両手で押さえて、必死で焼け落ちた建物の陰で縮こまる。だが背を向けても目を瞑っても、男の声は容赦なく聞こえてきた。
「おい、準備はできたか」
「へぇ、もう十分熱々です」
何のことかと、戦々恐々と薄目を開く。見るのも怖いが、見ないのはもっと怖い。
だが陰からそっと顔を出して、すぐに後悔した。
「ぃいやぁぁあああ!」
一人の女性が、引き倒され、右手首を踏まれて押さえ付けられていた。その右手甲に、真っ赤な焼き
じゅぅぅっと肉の焼ける音と匂いが、風に乗って隠れている槿花の所まで届いた。
そしてそれは、始まりに過ぎなかった。
恐怖で戦慄する人々は這うように逃げ惑い、男は斬り殺され、女は髪を掴まれて次々と焼き鏝の餌食になった。
二十人もいなかった里人は瞬く間に半分近くまで減り、残った者もほとんどが痛みで失神していた。
そのおぞましい惨劇に、槿花は嫌でも理解するしかなかった。
百人以上いたはずの里の人々は皆、あの火事で焼かれるか、今のように無惨に殺されてしまったのだと。
(……そんなはずない。みんな、どこかに、逃げ……)
だが頭で思考したことは、まともに心に届いてはこなかった。考えなければならないのに、思考がまともに働かなくて、上手く息が吸えない。
里と研究棟の他にも、隠れる場所はあったはずだ。学舎に、鐘楼に、墓地に。
棲雲山だって、こんな時なら逃げ込んだって具眼者は追い出したりしないだろう。
それに、女神と名乗る誰かを探しているから女性は殺さないというのなら、母もどこかにいるはずだ。
だから、だから。
その時、カラッと小さな物音がした。
「!」
ハッとそちらを見る。広場とは反対だ。
見回りだろうか。他にも仲間がいるかもしれないことなど、考えもしなかった。
だが、見えたのは予想よりも遥かに小柄な人物だった。
「……さかき?」
額や頬や腕に擦り傷や血痕を付けた榊が、血走った眼を見開いて刀を持つ男に向かって歩いていた。その手には、煤けた包丁が握られている。
槿花は考えるよりも先に駆け出していた。
「榊、だめ!」
「っ」
前しか見ていなかった榊の腕に、がむしゃらに飛び付いた。榊が、初めて気付いたように槿花を振り向く。
子供らしさの残る、まだまだ大人になりきらない少年が、凛々しい眉を吊り上げて槿花を睨みつけていた。
その顔には昨夜と同じ混乱がまだありありと色濃く、だがそれを塗り潰して有り余るほどの怒りが噴き出していた。
「離せ!」
「だめだよ! 今出て行ったら……っ」
振り払おうとする榊の腕に、必死にしがみつく。今あの場に出て行けば、榊もあの焼き鏝を当てられてしまう。
いや、その手に持った包丁から、殺意は明らかだ。きっと殺されてしまう。
「殺してやる! あいつ、父さんを……!」
やはり、木斛が殺されたところを、榊も見てしまったのだ。それでもすぐに飛び出さなかったのは、きっと武器を探していたから。
つまり、榊は衝動からではなく、冷静に思考してその答えに――殺すという行動に辿り着いたということ。怯えて現実から目を背けていた槿花とは、決定的に違う。
それでも、槿花は同意することなどできなかった。
「やめ……殺すなんてだめだよ、待って……!」
「あいつが里を焼いたんだ! みんなに、奴隷の焼き印まで……俺たちは何もしてないのに!」
「…………っ」
榊の言葉に、槿花の中で何かが引っかかった。
その一瞬の緩みに、ついに槿花は突き飛ばされてしまった。背中を強か打つ。
だが意識は、突然頭の中にねじ込まれてきたような知らない声に奪われていた。
『俺たちは何もしていない。ただ生きていただけだ……!』
『あいつらが虫を潰すように俺たちを殺すのに、牙を剥いて何が悪い』
膝が震えるほどの哀惜と、爆発しそうなほどの憎悪。
そしてそれに応えるのは、愚かにも弱々しい涙声の正論。
『お願い、戦わないで……! 殺し合うだなんて何にもならないわ!』
悲痛な懇願が耳元で響くようで、頭が割れそうに痛い。ただ嫌だという感情だけが声を掻き消す。
(やめて……やめて、やめて……!)
頭の中に響く声に、耳を塞いで抗う。その槿花にさっさと見切りを付けて、榊が再び歩き出す。
遠ざかる背中の、鬼気迫るその殺気に、声が出ない。
(……行かないで……お願いだから、もう誰も――)
「おっと、ここにも女がいたぞ」
「っ!?」
突然背後から襟首を無造作に掴み上げられた。首が締まり、体が勝手に立ち上がる。
「さか……っ、たす、け……」
助けを求める声はけれど、まともに音にもならない。
けれど。
「ッ、槿花を放せ!」
先へと進んでいたはずの榊が、踵を返して飛び込んできた。槿花を吊るし上げる男めがけて、一切の躊躇なく包丁を突き刺す。
その背を、別の男が呆気なく踏みつけた。
「ぅわあッ」
「榊ッ!」
思わず駆け寄るが、少しも手は届かない。
その目の前で、榊の薄い背に血で曇った刃がむざむざと突き立った。
「さ、か――――」
薄っすら赤く充血した鳶色の瞳が大きく、大きく見開かれる。その目頭に浮かぶ雫の色を、槿花は一生忘れられないだろうと思った。
たった一人の父を助けるため、炎の中に飛び込んだ十一歳の少年との約束を破ったことを。
父が殺された刹那の激情を呑み込み、せめて一矢報いるために武器を手にした少年を止めたことを。
そのせいで見張りに気付かれたのに、槿花を助けようと戻ってきてくれたことを。
後悔を。
そのたった一滴の涙に見た。
それは、父親の時と同じように音もなく広がる血溜まりに落ちて混ざって、皆の命のように儚く溶けて消えていく。
消えるその最後の一瞬まで、槿花はその涙の色を、蘇芳色の瞳に刻み続けた。
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