第三十一話 啼きて母を求む

「ぁつッ」


 玄関の戸は開いていたが、その先は踏み込めないほど熱かった。


「おか、お母さん……!」


 こんな陰府のような場所にいるわけがないと思いながら叫ぶ。がむしゃらに家の中に入ろうと更に踏み出す。

 どこかから誰かの怒号が聞こえていたのは、その時だった。


「……! ……せ!」


 それは、聞いたことのないしゃがれた男の大声のようだった。

 時辰ときの島は閉ざされた場所だが、それでも来訪者が皆無ということはない。支援者が時折訪れることもあれば、研究者や志願者だという者も車站えきに降り立つ。

 だが、こんな時間に大陸列車は停まらない。

 何かが変だと耳を澄ませば、更に続く怒号が風に乗って今度は明瞭に届いた。


「南は全部里だ! 残らず焼いちまえ!」

「……え……?」


 だが、すぐには意味が理解できなかった。

 確かに、居住可能地域の南側には民家が集まり、北側に研究棟が広がっている。だがそれを、焼くとは、何だ。


「お、お母さ……!?」


 訳が分からず、槿花はとにかく中に入ろうとした。

 その腕を、誰かに掴まれた。


「馬鹿! こっちだ!」

「っ」


 恐怖して振り向く。

 その先にいたのは、遠く聞こえた声の主ではなかった。


「さ、かき……?」


 桑茶色の髪や日に焼けた頬が炎に照らされて赤く染まっていたが、それは確かに島で唯一の同い年の少年だった。

 この炎の中を逃げ惑っていたのだろうか。服も肌もあちこち黒く煤け、髪もちりちりと焼けている気がする。

 その疑問を視線で感じたのか、感情が制御できないのか。榊は、家から離れようとしない槿花を無理やり引き戻しながら捲し立てた。


「変な連中が突然里に火を放ったんだ」

「な、なんで……」

「知るか! いいから走れ!」

「でも、お母さんが……っ」

「研究棟の方は無事だ。みんなそこにいる」

「そう、なの?」


 その言葉に、槿花もやっと榊のあとに従って走り出した。二人でいつもの木柵の間を、学舎とは反対に向かう。

 だがその木柵にも所々炎が舐め上がり、安全な道などはもうどこにも見当たらないように思えた。


「こっちだ!」


 時針儀ホーラを確認しながら、榊が柵を越える。それに付いていきながら、槿花は恐々後ろを振り返った。

 火勢は益々勢いづき、藍色の空に無数の火の粉が舞い上がって、まるで空を焼くようだ。

 だが、先程までの底なしのような不安は薄らいでいた。母が家に取り残されていないと分かったからだろうか。


(手の平が、熱い)


 前を行く榊は、ずっと槿花の右手を握っている。火事のせいか、二人の手はすごく熱かった。汗でぐしゃぐしゃだ。

 いつもなら文句を言って振り払うけど、今は少しも離したくないと思った。


「変な連中って、何なの?」


 いつもは眺めるだけだった野原を踏みしだいて研究棟を目指しながら、槿花は不安を払いたくて聞いた。

 だが相手は自分と同じ十一歳の少年だ。理路整然とした説明を期待する方が間違っていた。


「知るか。なんか突然里に来て、大人たちが出たらしいけど、訳わかんないこと喚いて、そしたら火をつけたんだ」

「訳わかんないことって……」

「なんか、『逆らった』とか『独占してる』とか……分かんないよ! おれだって、その時は家にいたし……」


 繋いだ榊の左手が、強張るようにギュッと力が籠る。その痛みだけでも、その時の光景がよほど恐ろしいものだったのだろうと察せられた。

 対応に出た大人たちは、きっと火を食い止めることができなかったのだ。もしかしたら、無事ではないかもしれない。


(どうしよう……どうなっちゃうの?)


 事故や病気以外で誰かが死ぬかもしれないという事態に、槿花はこの時初めて直面した。今まで経験したことのない不安と焦燥が、じわじわとその心を追い立てる。

 研究棟が見え始める頃には、二人とも言葉にできない恐怖のせいで、いつも以上に息が上がっていた。

 研究棟には正面入り口に大きな木の門が建っているが、周囲にあるのはやはり墓地と同じ腰高ほどの木柵だけ。入り込むことは容易だ。

 だが。


「な、なんで……!」


 榊が愕然と声を上げる。槿花は、声も出なかった。

 研究棟が、燃えていた。

 瓦屋根に朱塗りの柱の、古色蒼然とした建物群が。

 里と研究棟を区切るぼろぼろの柵が。

 よく忍び込んで遊んだ薬材庫が。

 まるで天の怒りを一身に受けたかのように、赤々と燃えている。


(これ、どこかで……)


 突然訪れた既視感に、槿花は酸欠だけでなく眩暈がした。蜜が燃える異臭が、木造建築が焼ける焦げ臭さが、槿花の頭をぐわんぐわんと揺さぶる。

 榊がぎゅうぅっときつく手を握ってくれなければ、その場に頽れていただろう。

 その榊が、呟いた。


「父さん……」


 榊の父もまた研究者だ。恐らくこの建物群のどこかにいる。

 助けなきゃ。そう思うのに、体が強張って言うことをきかない。


「槿花」

「っ」


 ぐっと肩を掴まれ、槿花はハッと正気付いた。榊の鳶色の瞳が、槿花を射抜いている。


「おれ、父さんを探してくる。お前は、ここから動くなよ」

「え、でも、火が……」

「里に戻るなよ、いいな!」


 槿花のいらえも待たず、榊が研究棟の一つに駆け出す。その背を見つめたまま、槿花もまた呆然と口を開いた。


「……お母さん」


 そうだ。ここには母も避難しているはずだ。母が気付いていないのならば、槿花が報せなければ。


「お母さん!」


 気付けば、槿花もまた見知った研究棟の建物を目指して駆け出していた。


「お母さん、どこ!? いるの!?」


 返事をしてほしいと願いながら、こんな所から声が聞こえたら助からないのではないかと怖くなる。

 見覚えのある路地が、あっちもこっちも火で赤々と照らされて、知らない場所のようだ。


「お母さん……!」


 母の最後に見た表情が何度も何度も蘇ってきて、息が詰まった。


(こんなことになるなら、逃げずにちゃんと謝れば良かった……!)


 本当は、自分が悪かったのだと、ちゃんと分かっている。でも謝れなかった。母にだけは、間違っていても否定してほしくなかった。

 でもこんなことになるなら、そんな我が儘な考えなんかするんじゃなかった。毎日研究で疲れているのを知っていたのに、また困らせてしまった。朝ご飯の手伝いも、面倒がらずすれば良かった。


(こんなことになるなら……!)


 後悔ばかりが、波のように後から後から押し寄せる。ろくな考えが浮かばず、涙が零れそうだった。

 その時、またあの野太い声が聞こえていた。


「女神を殺せ……!」

「!?」


 風向きが変わったのか、あるいは近くにいるのかもしれない。


(だから、女神って何なの!?)


 神話の神々以外、思い当たるものなど一つもない。

 神話の類いは、幼い時には寝物語に、学舎では歴史の一環として学ぶが、弓月ゆづき沖島ひーるとうと違って、この島に女神の伝説があるとは聞いたことがない。

 そもそも里を焼いたのなら、目的は十中八九、時を操る研究だろう。

 だが謎の訪問者たちは、研究棟にまで火をかけた。

 他に目的があるのか、或いは。


「お母さん、いるの!? ねぇ、お母さん!」


 槿花は最悪の想像が脳裏を過って、熱気で喉が焼けるのも構わず叫び回った。

 大人が対応に出ても火を放たれたのなら、大人たちは連中を拒否した――研究に関わらせたくなかったということだ。

 抵抗し、その後、どうなったのか。

 ドォン、とまた遠くで爆発音に似た鈍い音が上がる。


「ッ」


 建物が焼け落ちたか、あるいは攻撃でも受けたか。嫌な想像ばかりが脳裏に渦巻く。

 やっと母が使う研究棟の扉が見えた時には、泣きそうになった。

 この一帯はまだ辛うじて燃えていない。だがすぐ隣の棟は、既に真っ赤な炎が魔獣の舌のようにその壁を舐め始めている。ここも時間の問題だ。


「お母さん! お母さん!」


 槿花は焦る気持ちに押されるまま、古びた板敷の廊下を土足でひた走った。いてほしいと、いてほしくないが槿花の中でせめぎ続けて、胸が引き裂かれそうだった。


(違う、ここにはいない、玄関に……!)


 幾つ目かの板戸に手をかけた刹那、突如確信が湧き上がった。手を放し、踵を返す。

 その時、


「――槿花……」

「!」


 室内から、母の声がした。僅かに開いた戸の隙間から漏れる明かりに目を凝らせば、母が呆然とそこに立っていた。


「お母さん!」


 槿花は迷わずその胸に飛び込もうとした。

 だが、


「お父さんの所にいなさいと言ったのに……!」

「……!」


 辿り着くよりも先に聞こえてきた言葉に、今度こそ槿花は愕然と確信した。


(……やっぱり、そうだ)


 無闇に出入りしてはならない墓地。日没後に出歩いてはならないという禁則。

 それでも母は、槿花に外にいろと言った。

 炎の魔の手が届かない、時の止まった墓地に。


「あの……ごめんなさい、私……でも」


 理由も原因も何も分からないけれど、槿花は謝った。

 今朝見た夢とまるで同じだ。少しずつ台詞は違うけれど、同じ。

 けれど。


「もう……もう、使えるものがない……戻すのは、もう……!」


 母が、その場で顔を覆って膝から崩れ落ちた。

 泣いている。父が死んだ時を最後に、一度も槿花の前で涙など見せたことのなかった母が。

 そう気付いた瞬間、槿花は母の震える肩を抱きしめていた。どんなことにも動じない、いつまで経ってもかないっこないと思っていた母の体が、今はこんなにも小さく弱々しい。


「ごめんなさい! 私のせいで……っ」


 槿花は何も知らなかった自分が益々嫌になった。

 自分の我が儘で身勝手な行動が、母をこんなに苦しめていたなんて。何も知らずに、母は分かってくれないと酷いことを言った。


(きっと全部私のせいだ)


 いつ炎がここまで来るかも分からない今、二人がすべきことは謝罪ではなく一目散に逃げることなのに、槿花の思考はただそればかりに占められていた。

 槿花が母のことを助けなかったから。

 槿花が刻限を破ったから。

 母が何度も何度もをしてくれたはずなのに、槿花が何も分かっていないから。


「……いえ、まだよ」


 泣きじゃくる槿花の腕の中で、おもむろに母がぽつりと零した。

 その言葉に、槿花もやっと逃げるという選択肢を思い出す。


「そ、そうだよ、早く逃げなきゃ。火が……」


 槿花は慌てて立ち上がって戸を目指す。だが母は、何故か反対の戸棚へと歩み寄った。

 ぶつぶつと何事かを呟きながら、次から次へと植物や鉱石を腕に抱えていく。


「お母さん、何してるの!? 早く逃げなきゃ!」


 腕を無理やり引っ張る。びくともしない、と顔を上げれば、母が覚悟を決めた目で槿花を見下した。

 そっと、空いた手で槿花の左目にある泣き黒子を撫でる。


「えぇ、逃げるわ。未来さきへ」

「さき?」


 熱さと息苦しさで、母の言葉の意味がよく分からなかった。そんなことよりも、早く一緒にここから逃げてほしい。

 そう願って更に腕を引く手に力を込める。その胸に、強引に何かを押し付けられた。

 飛蓬マグワートと、寒白菊クリサンセマム、それに硬質な――石のようにも、大きな鱗のようにも、貝のようにも見える何か。


「これ、なに? 研究の大事な材料じゃ……」


 槿花はよく薬材庫にも忍び込んでいたため、一通りの物には見覚えがある。ここは母の研究棟でもあるし、不自然ではない。

 ただ問題は、二人は今にも火達磨になる寸前だということだ。いくら研究が大切とはいえ、それっぽちの薬材など抱える時間も惜しい。

 しかし、母はもう答えなかった。


「絶対に放さないで」

「え? だから、なにを……」

「ひふみよいむなやここのたり。ふる玲瓏ゆらゆらと震べ」


 薬材を受け取りながらも戸惑う槿花をぎゅうっと抱きしめて、もう母は淡々とのたまい続けた。

 夢の中で聞いた祝詞のりととは、また少し違う。


「天地示現、古主こしゅ古神こじん、降臨烈座敬ってまをす。四域太強しいきたいきょう、四域盤石、不動不変、揺変揺動ようへんようどう、神縁再来、神魂不滅、神魂不乱、神魂清浄しょうじょう、神魂従和心じゅうわしん


 それは、域外の神々に願い、揺るがないものを揺るがす願いだった。詠み上げるごとに祝詞が力を増し、槿花を中心にして不可視の力が集まってきていることを肌で感じる。


「一心に願い申す。帰心帰宮きしんきぐう、形に影のそう如く、魂魄たましい、彼に従わん……!」


 そして祝詞が完成した時、槿花の内外に集約された力は今にも溢れんばかりに満ち満ちていた。まるで爆ぜる寸前の爛熟した果実のようだ。

 精霊術も四操術も使えない槿花には、それは初めての感覚で、鳥肌が立つほどに怖かった。


「お、お母さん、これ、なに……っ?」

「槿花、ごめんね」


 ドゴンッと近くで大きなものが落下した音が響く。梁か扉か、何かが焼け落ちたのだろうか。だがもう、そんなことを思考する余裕もなかった。

 母が、熱気で赤くなった顔をそれでも笑ませて、こう言ったから。


「どうか、幸せでいて」

「――――」


 声が、出なかった。

 何かを言わなければならなかったのに。

 もう、後悔したくなかったのに。


 瞬き一つ。


 次に瞼を押し開いた時。

 母の姿はどこにもなかった。



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