第三十話 空しく幽明を隔てて

 そうっと玄関の扉を開いたら、鬼がいた。


「聞いたわよ」

「…………」


 鬼が、もとい母が、鬼の形相で腰に両手を当てて、いたいけな十一歳の少女を見下ろしている。

 槿花は、瞬時に四択を迫られた。

 白を切る。

 嘘を吐く。

 正直に謝る。

 逃げる。

 経験則からいって、正直に謝るのが一番長引かなくていい。

 よし、と槿花は選択した。


「あ、あの……」

「朝から教室で取っ組み合いの喧嘩してたんだって?」

「…………、……ご」

「また榊くんでしょ。昔は仲良かったのに、どうしちゃったの?」


 困ったものだと、母が眉尻を下げる。

 その言い方がまるで槿花に非があると決めつけているようで、素直に謝ろうと思った気持ちが一瞬で吹き飛んでしまった。


「……でも、先に突っかかってきたのは榊だし」

「それに、その髪、その服」

「っ」

「また寄り道したわね?」

「…………」


 槿花の言い分を聞くよりも先に新たな指摘を受け、槿花は今度こそ押し黙った。

 榊に言い返したのは絶対に悪くないが、立ち入り禁止の場所に入ったのは確かに槿花が悪い。

 槿花の沈黙を、母も肯定と受け取ったようだ。頭が痛いとばかりに額に手を当てると、昨日も聞いたようなお説教が始まった。


「外には出ないって何度も言ってるのに」

「…………」

「すぐには影響がなくたって、積もり積もれば命に係わるかもしれないの、分かってる?」

「でも……」

「言い訳しないの。これはあなたのためなのよ?」


 ぴしゃりと言われたその一言に、槿花の中の罪悪感は一瞬で反抗心に置き換わった。今日一日で芽生えた鬱積が、理性の蓋をあっさり蹴り飛ばす。


「……里のためでしょ」


 ぼそりと呟く。途端、母が蘇芳色の目を一回り大きくした。

 しまったと頭の片隅では思ったのに、一度口火を切ってしまえば、もう止められなかった。


「誰かが禁止区域で変なことして、面倒が起きて、研究に影響が出たら困るからでしょ。私、知ってるんだから。本当はそんなんじゃないのに、研究を……応援? してくれる人のために、その研究ばっかりしてるって。お父さんのためじゃ全然ないって――!」


 パンッ、と小気味良い音が、槿花の左頬で鳴った。

 遅れて、じぃん、と痛みが広がる。

 いつの間にかずれていた視界をそろそろと前に戻せば、母が細めた双眸を凍らせて槿花を見ていた。


「っ……、」

「お母さんに謝れないのなら、お父さんに謝っていらっしゃい」


 槿花が何か声を発する前に、母が淡々とそう言った。

 喉元まで出かかった謝罪と、間違ったことは言っていないという矜持が、槿花の舌の上でせめぎ合う。

 槿花は全身で怒りを表すように踵を返すと、家を飛び出した。




       ◆




 駆け出した西の空は、既に茜色が濃さを増し始めていた。

 西日に昏く沈んだ棲雲山の影が、刻一刻と最後の方尖柱メンヒルである辛柱はちほんめに迫っている。周囲を見回しても、木柵の間に続く道にはもう人影は見えない。

 走りながら背後を振り返れば、限られた場所に軒を連ねる家々から、温かそうな灯りや炊事の煙が立ち上っているのが遠く見えた。


(誰もいない)


 それは遅刻しそうな朝と同じはずなのに、今は何故か槿花一人が取り残されたような気分だった。

 自分は間違ったことを言っていないはずなのに、どうしてこうも惨めな気分にならないといけないのか。


「……お母さんの、ばか」


 あえて声に出してから、知らず止まっていた足をまた前に繰り出す。

 墓地へ着く頃には、槿花はすっかり息が上がっていた。永遠の花園に入る前に、大きく息を吐いて呼吸を整える。


 墓地もまた、腰高ほどの木柵で囲まれている。出入口には可動式の扉があるが、ここだけは常には閉じられている。

 何故なら、墓地には年に三度以上訪れてはならないという禁則があるからだ。

 ここに咲く花は押し潰されても細胞が死ぬことはなく、変色もせず、花粉が飛ぶこともない。みだりに身を置けば、自身の時間までずれて予期せぬ事態を招く可能性もあるからだ。


 本当は、こんな風に足を踏み入れて良い場所ではなかった。

 だからこそ、母の言いようには不審しかない。

 それでも、この小さな島には逃げ場所など数えるほどもない。

 槿花は僅かに躊躇いながらも、みだりに入ってはならないと言いながら壁も天井もない、ただの木柵を飛び越えた。


「お父さん……」


 丘の上から見た時よりも幾分減った雨粒を避けながら、等間隔に並んでいる棺の硝子を一つずつ一撫でしながら見て回る。

 棺の中の人たちは、皆まるで眠っているように穏やかだ。時折げっそりと窶れた女性や、青白い顔をした老人がいなければ、ここが死者たちの楽園だと忘れそうになる。


「本当に、生き返る、のかな」


 年に一度の墓参りに来るたび、周りの人々が呟いていた言葉が蘇る。


『待っていてね』

『もうすぐ完成するから』

『早くあなたに逢いたい』


 この島にいる者は、誰もが一度は命の火が途絶えた愛しい者をここに預け、その火を再び灯す日を夢見て日夜研究に励んでいる。

 正確に時を戻すために。確実に命を繋ぎとめるために。絶対に同じ結末を向かえないために。二度と愛しい者を失わないために。

 一度は失った死者を、取り戻すために。


「お父さん、逢いたいよ……」


 槿花の両親は、研究者として訪れたこの島で出会ったという。だが槿花が六歳の時、父は志半ばで病死した。

 母が今も身を削って大変な研究を続けているのは、父の遺志を継ぐとともに、いつか父を生き返らせるためだ。

 そしてそれは、この島にいる者のほとんどがそうだった。

 死者蘇生の希望を求めてこの島を訪れ、ある者は研究に従事し、携われない者はそれ以外の仕事を請け負った。

 いつか願いが叶うその日が来るのを信じて。 


 そしてその中には当然というべきか、華族や資産家もいた。彼らは時辰の島に住まぬ代わりに、資金や物資を援助した。

 それは何の生産も成果もない島の研究を続ける上での、命綱のようなものだった。彼らの機嫌を損ねることが島の危機に直結することは、幼い槿花でも何となく分かっている。

 それでも、何年も昔に死してこんはくも離れた者ではなく、死後すぐに蘇生させる方法へと研究内容が変わっていくのは、槿花には何だか嫌だった。


「お母さんの、嘘つき」


 とぼとぼと歩き続ければ、やがて父の棺の前へと辿り着く。

 槿花は父の物言わぬ寝顔を見つめると、いつもそうするように胸元から認識票クリシスを繋ぐ革紐を取り出した。

 革紐には、灰玉髄の認識票と八角柱の時針儀ホーラの他にもう一つ、父の形見も付けていた。

 夜空の弓月ゆづきと同じ色に輝くと言われる、月石げっせきだ。


 月石は空に浮かぶ大小二つの月のうち、小さな弓月の欠片だと言われている。

 冴月媛命さつきひめのみことの血がかかることによって満ち欠けすると云われる妻月めづきと違い、小さな弓月は永遠に欠けたままだ。物理的に欠けているのだという。

 それはある伝説では、弓月の化身である冴月媛命さつきひめのみことが上古の神魔大戦で敗北したためで、その欠片はネオン神族の体と同様、世界中に散らばっているという。

 そのため、月の石も神の体と同一視され、やはり神体具同様、願い事をしてはならないと言われている。

 真偽の程は定かではないが、自然発生すると知られている魔石や霊石よりも希少であることは確かだ。


 そんな石を父が持っていたのは、父が半花はんかだったからだと、母は言った。

 父は多くの華族がそうするように、母親とともに捨てられた。殺す代わりに、月石を持たせて逃がしてくれたのだと。それを優しさと受け取ったと、父は笑っていたという。その意図がどうであれ、と。

 父の死後、母はその月石を槿花に持っているようにと言った。


『絶対に、無くしちゃだめよ。肌身離さず、友達にも……里の誰にも、決して見せてはいけないわ』


 それは父の唯一の思い出に縋るようでも、大きな秘密を抱えているようでもあり、いつも優しい母が少し怖く感じたことを覚えている。

 だから槿花がこれを取りだすのは、母の愚痴を言いに父にこっそり会いにくる、この時だけだった。


「お父さん、聞いて。今日もお母さんったらひどいんだよ」


 淡い赤褐色を帯びた月石を両手で包み込んで、口元に押し当てる。いつもは次の鐘が鳴るまで取り留めもないことを話し続けるのだが、今日ばかりは太陽の傾きが気になった。

 辛柱の鐘が鳴っても、突然何かが起こるわけでないことは分かっている。それでもやはり、いつも気軽に飛び越えている木柵とは流石にわけが違う。


「そろそろ、帰らなきゃ」


 父の顔を見つめながら、そう自分に言い聞かせる。

 けれど、あんな剣幕で怒った母の元にすぐに帰るのは、やはり気が引けた。


「……帰りたくないなぁ」


 木柵に手をかけてはみたものの、飛び越える気力が湧かない。だからといって、ここで夜を明かすわけにもいかない。

 それに、今朝は変な夢を見て飛び起きたせいか、もう目がしょぼしょぼしてきた。榊と喧嘩して余計な体力を使ったのもある。本音では、早く自分の寝台に飛び込みたかった。

 槿花は意を決して、木柵を乗り越えた。

 既に藍色が広がり始めた東の空に向かって、とぼとぼと歩く。我が家が一歩ずつ近付くごとに、素直に謝ろうという気持ちが大きくなる。

 違和感に気付いたのは、もうすぐ里の屋根が見えるという辺りだった。


「あれ?」


 木柵の外に繁茂する木々の向こう側の空が、茜色に輝いていた。

 槿花は、方向を間違えたのかと、まず後ろを振り返った。何せこの里は木柵と野原ばかりで、棲雲山以外ろくな目印がない。

 だが、背後もまた明るかった。真っ赤な太陽が、今にも棲雲山の影に隠れようとしている。


「なんで……」


 もしや火事だろうか。滅多にないことだが、過去にはあった。


「お母さん!」


 嫌な予感に、槿花は駆け出した。だが木柵を飛び越えて近道をしてすぐ、その足は止まってしまった。


「なに、あれ……?」


 里が、燃えていた。

 普通の火とはどこか違う、研究棟で起きた魔石事故の火事のような火勢の強い大きさな炎が、まるで海のように広がっていた。

 くの字形の家に小さな庭の、同じ形をした板葺きの屋根があちこちで焼け落ちている。


「なん、で……」


 まさか、また研究棟で何か事故が起こったのだろうか。

 そう理性的に考える反面で、もしかしてという不安が槿花の胸を締め付けた。


「私が、刻限を破ったから……?」


 辛柱の鐘の後には、出歩いてはならない。それを槿花が破ったから、里に罰が下ったのだろうか。


「そ、そんなはず……」


 ない、とは、槿花は言い切れなかった。

 だって、日没後に出歩くことが禁則とは知っているが、破ったらどうなるか、槿花は知らないのだから。


「ど、どうしよう……」


 考えれば考えるほど思考が纏まらず、心の臓がどくどくと早鐘を打つ。右からも左からも炎がうねる里を前に、足が少しも動かせない。

 バチバチと、建物や木々が燃える音がする。ごうごうと、逆巻く風が炎を巻き上げる。炎の熱が、星屑のような火の粉が、槿花のすぐ目の前まで迫る。

 無意識の内に、自宅方向へと足が動いていた。


「っお母さん!」


 叫んでから気付く。そうだ。槿花が飛び出した時、母は家にいたはずだ。

 そう思い至った瞬間、槿花は今にも炎にまかれそうな玄関に迷わず手を伸ばしていた。




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