第二十九話 槿花一朝の現

「お仕事、まだ大変なの?」

「え?」


 筒袖の肌小袖に単衣を合わせて細帯で纏めた槿花は、母が用意してくれた燕麦粥と果物をぱくぱくと口に詰め込みながら、立ったまま椀をかき込もうとして手の止まっている母に呼びかけた。

 半ば上の空だった母が、正気付いたように槿花を見る。それから、諦めたように苦笑しながら対面の席に腰を下ろした。


「そうねぇ。今は昔の火活法かかつほうにあった招魂祝詞しょうこんのりとを基に、魔化した手鞠片檜葉てまりかたひば蘇生鶴イェラノース銀翅鳥アスィミの羽根を掛け合わせて、可能性のありそうな鉱物を端から組み合わせて、微調整しながらその変化と動揺を見てるんだけど、中々確定が出せなくて……」


 言いながら、いつもと同じ具の粥をゆっくりと口に運ぶ。やはりいつも通りだ。年がら年中研究のことで頭が一杯で、忙しそうなのに手が止まっている。


(なんであんなに心配だったんだろ?)


 だがそんな悠長なことを考えていられたのもそれまでだった。


「ほらほら、早くしないと、二の鐘が鳴るわよ」

「んっ」


 食後には母が仕事先で貰ってきた山査餅さんざしもちを食べようと狙っていた槿花は、急かされて危うく梨が喉につかえるところだった。どうにか胸を叩いて飲み下し、お茶で流し込む。

 二の鐘は棲雲山の影が乙柱にほんめにかかると鳴らされるもので、学舎では始業の合図だ。それまでに席についていなければ、また朝から怒られてしまう。


「お菓子! ちゃんと残しておいてねっ」

「はいはい、それより識別票くびかざりは持った?」

「持ったー」


 母の毎朝の確認にいつも通り返して、槿花は急いで食器を片付ける。

 識別票は里の全員が漏れなく所持し、ほとんどの人が就寝中も身に着けている。ものぐさな槿花が外すはずもない。


「着いたら必ず鏡を確認してね」


 用意していた鞄を拾い、玄関で靴の紐を締める背中にも、なお心配性の母が声をかける。研究棟も始業は二の鐘だから、急がないといけないのは母も同じなのに。


「分かってるって」

「外に出る時は必ず時針儀ホーラを確認するのよ」

「するする」

「でも柵からは絶対出ないのよ」

「わー……かってるってば」

「あと、喧嘩もしない」

「だからわたしはしてないってば!」


 いつまでも終わりそうにない母の諸注意に、槿花は逃げるように答えて自宅を飛び出した。庭の柵を軽々飛び越え、平らに均しただけの道に出る。


(まーすぐ突っ切って行けば、半分くらいで着くのに)


 時辰ときの島は、女神とネオン神族との大戦により時の流れが狂って以降、人の住める所はごく一部に限られていた。

 特に南北に細長い島の南側は砂嵐が止むことがなく吹き荒れ、内陸部では一歩進むごとに何日も経過していたり、何歳も若返ったりする。運が悪ければ、記憶を失い、或いは白骨になる者すらいたという。

 島の中心に棲雲山せいうんざん花圃かほがあるのは他の大陸と同じだが、花守かじゅの森もなければ穏堵おんとの森もない。そのためか、花圃には四季に関係なく百花が年中狂い咲き、そこから華族が生まれることもない。

 島に暮らす人々は、そういった種々の影響が強く及ばない僅かな土地に、肩を寄せるように暮らしていた。


(まったく、神様も困ったものなんだから)


 槿花の家は棲雲山の東側に広がる里の中でも端の方に位置し、庭を出ればすぐ眼前に、里の境界線を示す木柵が見える。

 この木柵の向こうでは花々が季節など知らぬ顔で好きに咲き、好きに実をつけている。そこに何の用意もなく飛び込めば、どうなるかは誰にも分からない。

 実際、時を越えたり遡ったりしたいだけであれば、時辰の島を適当に歩けば事は済むのだ。それが自在に操れない、或いは正確に把握できないからこそ大人たちは四苦八苦していた。

 そのため、学舎に行くまでも、研究棟に行くまでも、道の両側には古びた木柵がどこまでも続いている。これをはみ出すのは、里に無数にある禁則の内の一つだった。


(よくよく考えれば、ただの木なのに。変なの)


 自生する狂い咲きを避けるようにくねくねと折れ曲がる柵のぎりぎりを走りながら、槿花は空を見上げた。

 今日の空は抜けるような秋晴れだが、島の中央に聳える棲雲山の周りには白い雲が集まり、具眼者がいるという山頂をすっぽり隠している。


(具眼者って、どんな人なんだろ? やっぱり、すんごいお爺さんかな?)


 具眼者は時辰の島の全てを知っているとも云われているが、その姿を見た者はいない。

 だが今は、そんな御伽噺の存在よりも、その影が周囲に等間隔に建つ八本の方尖柱メンヒルの一つ、乙柱にほんめに近付いているということの方が重要だった。


「あぁ、もうっ、お母さんがいつまでも言うからっ」


 この島では、機械仕掛けの時計は役に立たない。時辰の島に満ちる狂った気が、悪さをするからだ。

 その中で棲雲山と太陽だけが揺るぎないため、島最大の日時計として生活の基盤になっていた。乙柱にほんめから庚柱ななほんめまでが活動時間で、日没の辛柱はちほんめから日の出の甲柱いっぽんめまでは一切の屋外活動が禁止されている。

 遅刻しては、また小言から始まってしまう。


 槿花は直角に曲がった道に差し掛かると、柵に足をかけて軽やかに飛び越えた。着地の直前、認識票クリシスの革紐に通したままの時針儀を確認して、そのまま向こう側の柵をもう一度飛び越えて道に戻る。

 それを何度か繰り返せば、どうにか二の鐘が鳴る前に学舎に入ることができた。


(よしっ)


 時針儀にも変化はない。

 時針儀は時の経過が視認できるように工夫されたもので、八角形の水晶のような方柱の中に、虹色に光る蕾と、咲き掛けと、満開の、三つの時告花カイロトスが閉じ込められている。これが咲いたり閉じたりすると危険区域だ。


「間に合っ……!」

「槿花、また遅刻かよ」


 ゴーン、ゴーン……と二の鐘が鳴り始めた教室に駆け込むと、待ちかねていたかのような声がかけられた。榊だ。

 島中の七歳から十二歳までが一所に集められている教室で、唯一の同い年の男の子。


「……ふんっ」


 槿花はあからさまに無視した。これも、数ある煩いの種の一つだった。

 現在里に住んでいるのは百戸に届かず、子供の数は特に少ない。物心ついた頃から顔触れは変わらず、一度揶揄や悪口の話題を与えてしまうといつまでもついて回るのだ。


「また柵を出たんだろ」

「……出てないわよ」

「頭にまた花がついてるぞ」

「えっ」

「ほら見ろ」

「……」


 してやったりと笑う榊に、槿花は凶悪な目付きで睨みつけてやった。


(なんかこれ昨日もやられた気がする!)


 槿花はむかむかっと鞄を机の上に叩きつけた。

 以前、頭に花が付いていると取ってくれたのは、他でもない榊だった。その時に、遅刻しそうだから柵の外を潜り抜けたのだと内緒で話したのに、それを先生に告げ口されて以来、二人の仲は悪化の一途を辿っていた。

 へへん、と榊が馬鹿みたいに笑う。


「年のくせにチビだしな」

「背が高くても幼稚じゃね」

「なんだとっ。認識票見せろこの!」

「じゃああんたも認識票出しなさいよっ」


 売り言葉に買い言葉で、今日もまた喧嘩が始まる。

 机に置くところだった鞄を振り回し榊の顔にぶつける。榊が鼻を赤くして槿花の領を掴む。させるものかと鞄を放り出して榊の桑茶色の短髪を掴み返せば、そこからまた取っ組み合いの喧嘩だ。

 教室の級友たちがまた始まったとハラハラする中、それは先生の呆れた声が響くまで続けられた。




       ◆




『今日のことも、お母上にお伝えしますからね』


 二の鐘とともに教室に入ってきた先生にいつものお小言を食らってから、その日の授業は始まった。

 最初は必ず出欠を取る。一人ひとり生まれた年月日と名前を刻んだ灰玉髄の認識票を先生に見せ、年齢を述べて返事をする。先生からは昨日までの里人の変化の報告と、今日採取に出る人の数が通達され、追加された禁則があれば周知される。

 それが終われば、年に合わせた読み書きや計算から始まり、島にいる様々な動植物や鉱物などの資源や、島の歴史について学ぶ。

 知識を身につけた者は、実践だ。素質のある者は、そこに四操術や精霊術も加わる。


(あーあ……今日も帰ったら怒られるのかなぁ)


 昨日もやった気がする計算を解きながら、帰宅後の母の説教に早くも嫌気が差す。今日が同じような一日の繰り返しだからか、説教の内容すら予想できる気がする。


『今日は帰ってこなくて結構!』


(そんなバカなね。日没後は出歩いちゃダメなんだから)


 だが、素直に帰る気には到底なれそうもなかった。

 そもそもこの里にいるのは、島で起きる様々な現象を解明し、活用するために集まった人々がほとんどだ。そのため、その子供たちにも将来は研究に従事することを暗黙の内に求められている。

 学舎で勉強をするのもそのためだ。任意で時を進める方法、戻す方法、止める方法、島を安全に行き来する方法……求めるものは無数にある。

 そのため、四操術や精霊術を得意とする者には特に大きな期待がかけられたが、その点でいえば槿花には全く素質がなかった。

 結局、午後の実技でも榊に馬鹿にされて髪や着物の引っ張り合いになり、また先生に叱られてしまった。撫子色の髪はぐしゃぐしゃになり、着物にも土がついてしまった。これでは、先生が報告するまでもなくばれてしまう。


「もぉぅいやっ、こんな狭い世界!」


 学舎からの帰り道、槿花は毎日叫んでいる気がする言葉をまた叫んだ。

 棲雲山の影は既に己柱ろっぽんめを通り越し、西の空がほんのり赤みを帯び始めている。子供たちは跳ねるように学舎を後にし、あちこちで楽しそうな笑い声が響いている。

 だが、槿花は少しも楽しくなかった。


 学舎に行けばあれをやれ、これをやれ。外に遊びに行けばあれはだめ、これはだめ。この島で生まれ育った十一歳の少女にとっては、何をしても窮屈に感じられて仕方がない。

 母に会いたくなっても、研究棟は子供はだめ。

 柵の外の野原の花がどんなに綺麗でも、入ってはだめ。

 珍しい動物が森や小山に来ても、見に行ってはだめ。

 気晴らしに遊びに行けるのは、里の中央に位置する鐘楼や集会所のある広場だけだが、そこにはほとんど学舎と同じ面子が来るから意味がない。


 島の東沿岸部には大陸列車のごん車站えきがあるが、乗れるのは大人だけで、必然的に買ってくるのも研究に必要なものに限られていた。お陰で娯楽品はお手玉や独楽こまなど、使い古した手作りのものばかり。

 線路に至っても、南にある小さな入り江を跨いで西南端のこん車站に続いているのだが、子供は利用も立ち入りも禁止されていた。


「別に、嫌いじゃないけどさぁ」


 それでも、外にはもっと魅力的で面白いものがいっぱいあるとちらほら聞こえて来てしまえば、気になるのが人の性だ。

 たまに上空を通る沖島ひーるとうには人が住むというし、時折竜の巣があるという竜炎涯りゅうえんがいから飛来する竜は騎獣にできるとも聞く。

 だが槿花のいる地上には、そんなわくわくするようなことは一つもない。


「…………。行こ!」


 槿花は視線を空から野原の花々に戻すと、蛇行する柵を自宅とは反対側へと駆け出した。

 雲にも届く山は棲雲山だけだが、島には他にも小高い丘はちらほらある。その中でも一番南に位置する見晴らしの良い森深い丘に向かった。

 行動可能範囲を示す柵は、その麓で横に曲がっている。この山も、時の流れが違う危険地帯ということだ。


「ん、だいじょーぶ」


 槿花は時針儀の時告花を見ながら、綿毛のようにひょいっと柵を飛び越えた。

 この丘は草花よりも木々が多く、恐らく花圃の影響が弱い。それでも立ち入り禁止になっているのは採取によく入ることと、墓地に近いからだと、槿花は知っている。


 墓地とは、この島の中でも時の流れが完全に停止した特殊な場所で、だからこそ死者の埋葬地に選ばれた。桐の棺の中に丁寧に収められ、蓋は高価な硝子を贅沢に使い、朽ちない遺体の顔を見つめることができる。

 墓地には、槿花の父も眠っている。

 その墓地が、この丘からはよく見えた。数年前に崖崩れが起きて森の一部が開け、墓地や里全体がある程度見渡せるのだ。


「お父さんは、今日も元気かな」


 大人たちが採集に使う道を軽やかに登りながら、あっという間に山頂近くに辿り着く。そこは倒木が重なり、その間からまた新しい木が伸び、天然の東屋のようになっている場所だった。

 本当はお気に入りの木の実や花や大きな葉っぱを持ち込んでお洒落に飾り付けたいが、大人に見付かったら大事だ。二度と外遊びが出来なくなっては生きていけなくなるので、槿花はその時その時だけで楽しむと決めていた。


「おーい、おとーさーんっ」


 足元に広がる永遠の花園に向けて、全身を使って手を振る。

 昨日のうちに近くで降った雨粒が風に運ばれ、墓地の上空に七色に輝く小さな水滴が無数に浮かんでいる。太陽に焼かれて蒸発するまでの短い間に見られる、槿花の好きな景色の一つだ。

 高い場所からだと、父の顔は見えない。だが、嵐に遭っても踏まれても倒れないし枯れない花園はいつ見ても百花斉放に咲き乱れ、それを包むように水滴や棺の蓋が陽光を反射してきらきらと輝いている光景は、あまりに美しい。

 眺めているだけで、十分槿花の心を慰めた。


 心ゆくまで島の景色を眺めたあと、槿花は長椅子のように横たわる倒木に腰かけた。天井代わりの枝葉の向こうを、数羽の鳥がゆったりと滑空していく。

 この島にいるのは、家畜として飼われている羊と鶏以外は、ほぼ魔獣だ。島全体が高濃度の魔力に汚染され、魔化しているのだから当然だ。とは言っても、狂暴な肉食獣は昔の人たちがとうに狩り尽くしたらしく、残っているのはほとんどが穏和な草食獣だ。

 頭上を飛翔する有翼類の中には魔獣でないものもいるかもしれないが、時辰の島の東に広がる海峡は炎竜の巣だ。そこを通り抜けるのがただの渡り鳥とも思えない。

 それでも、彼らが舞い降りることはほとんどない。何せ降り立てば死ぬかもしれない島だ。餌場は他にもある。

 だから、近くで下草がガサッと鳴っても、身の危険を感じることはない。


「あ」


 槿花はゆっくり身を起こすと、皐月さつきの花の間から顔を出した青羅猫ティグラキを見つけて笑みかけた。


「お前、怪我は治ったの?」


 黒と青の虎縞柄を持つ仔羊ほどの大きさの青羅猫は、槿花が人差し指を出して招くと、警戒しながらもゆっくりと近付いてきた。冷たい鼻先が触れ、そのまま喉元をくすぐってやる。

 青羅猫は大人になれば羊の二倍ほども大きくなる魔獣で、この個体はまだまだ子供だ。前回槿花が遊びに来た時には、岩にでも挟んだのか後ろ脚を怪我して歩けないでいたのだ。

 槿花は可哀想になって、そっと左手でその傷を撫でてやった。その時のことを覚えているのだろう。賢い子だ。


「今日は薬も持ってきたの。山鶴やまたづの樹液で、ゆっくりだけど時間を進めるんだって」


 言いながら膏薬の入った貝殻を懐から取り出す。青羅猫は二度三度と槿花の周りを歩いてから、静かに傍らに腰を下ろした。まだ瘡蓋が乾いただけで毛のない部分に、そっと塗ってやる。

 その後は、お昼に出た野菜を反対側に並べて、またぼうっと時間を過ごした。

 棲雲山の影が庚柱ななほんめにかかるまでにはまだ時間がある。

 その間に、名前を知らない魔獣が何匹か現れては消えていった。お陰で槿花の嫌いな野菜は、綺麗さっぱり消えてくれた。

 大人たちが言うには、時辰の島にいる魔獣は固有の進化を遂げたらしく、普通の兎にしか見えないものが花を食べて時間を跳んだり、怪我をした狸が自身の時間を戻して怪我を治したりもする。手の平大の蛙は土に潜って体を癒すし、瞬間移動する亀も見たと聞く。

 母の専門は植物だが、動物を専門にする者もいる。槿花が魔獣とここで日常的に触れ合ってると知れたら、槿花は魔獣かれらとは二度と遊んでもらえなくなるだろう。


「そろそろ帰ろっかな!」


 島をはみ出す程に長い棲雲山の影が、既に庚柱に迫っている。早く帰らなければまた母に怒られる要件を増やしてしまう。


「またね!」


 槿花は、倒木の周りにまだ気配のある魔獣たちにも大きく手を振った。

 その無邪気でありふれた言葉がもう叶うことはないなどとは、この時の槿花はまるで思いもしなかった。

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