第二部 無窮の独楽(つむくり)

第一章 蟄虫、戸をふさぐ

第二十八話 すべて夢に似たり

 燃えている。

 狂い咲きの花々が。

 里と外を区切るぼろぼろの柵が。

 よく忍び込んで遊んだ薬材庫が。

 まるで天の怒りを一身に受けたかのように、赤々と燃えている。

 常に芳しい花の香に包まれていた時辰ときの里は、今や蜜が燃える異臭と木造建築が焼ける焦げ臭さに満ち満ち、鼻が曲がりそうなほどだった。


 槿花きんかは、炎の熱と光で顔を真っ赤にしながら、その光景を凝視していた。

 熱い。眩しい。息苦しい。そうは感じるのに、まるで現実味がない。

 ここは確かに十一年暮らした自分の生まれ里のはずなのに。見慣れたはずの景色は全て炎の赤に塗り替えられ、そこにあったはずの親しみは一つもない。


「……お母さん」


 親しみ、という単語に、自然と母の顔が想起される。母とは、今日もまた叱られて家を飛び出して、それきりだった。

 母は島の研究者の一人だ。連日、庚柱ななほんめに棲雲山の影がかかるぎりぎりまで研究棟に籠っている。

 だがその研究棟区域にも、禍々しい炎が迫ろうとしていた。

 逃げるべきだ。

 大人ならば、そう判断する。

 けれど年端もいかぬ少女は、母を求めて走り出した。


「お母さん! お母さん、どこ!?」


 友達と喧嘩ばかりするなら、今日は帰ってこなくていいと怒った母。朝食の席では疲れたような顔をしていたのを見ていたのに。

 結局、ろくに話もせず飛び出してしまった。

 それが最後だなんて嫌だ。


「お母さん……!」


 母がいる研究棟を探して、年季の入った建物の間を走る。

 瓦屋根に朱塗りの柱という、似たような建物ばかりが並んでいる。

 普段は子供は入ってはいけない場所だが、いつもこっそりと忍び込んでいるから、迷いはない。

 だが進めば進むほど、棟のほとんどがすっかりうねり狂う炎に呑まれたあとだというのが分かった。


 ただの火事にしては勢いが強すぎる。

 魔石実験の失敗で発生した火災事故は槿花も野次馬をして見たことがあるが、どこかあれに似ている。通常であれば段階を経て燃え広がるはずの炎が、一気に火勢をつけて広がっていくのだ。

 そう考えた時、ふとどこか遠くで響く声を拾った。


「女神を殺せ……!」


 そう、誰かがそう叫んでいる。だが槿花には、何のことかさっぱり分からなかった。

 最後の神々であるネオン神族が世界の外側である高裏原ドゥアトに追いやられたのは、もう千年も昔のことだ。神々の手足である神魔デュビィはともかく、そんな存在がこの小さな島にいるはずがない。

 ドォン、とまた遠くで爆発音に似た鈍い音が上がる。攻撃でも受けたか、あるいは建物が焼け落ちたか。

 嫌な想像ばかりが脳裏に渦巻き、槿花は蒼褪めながら先を急いだ。


「お母さん、いるの!? ねぇ、お母さん!」


 辿り着いた研究棟の扉を乱暴に引き開ける。ここはまだ辛うじて燃えていない。

 だがすぐ隣の棟は、既に真っ赤な炎が魔獣の舌のようにその壁を舐め始めている。ここも時間の問題だろう。


(早く、早く見つけなきゃ……っ)


 槿花は焦る気持ちに押されるまま、古びた板敷の廊下をひた走った。見つけた板戸を手当たり次第に開けていく。

 火の手はまだのようだが、空気が熱い。煙も充満し始めている。息を吸うだけで喉が焼けて咳が出る。

 それでも、槿花は母を呼び続けた。


「お母さん! お母さん!」


 声が聞こえたのは、赤い闇で右も左も分からなくなりそうな時だった。


「――……槿花!」

「!」


 母だ。玄関の方から確かに声がした。聞き間違えるはずがない。

 槿花は変だと思う余裕もなく来た廊下を引き返した。何度も廊下を曲がり、器具が転がる部屋を横切って最初の場所に戻る。

 果たして、一部が黒く煤けた玄関の内側に、ずっと探していた母がいた。


「お母さん!」

「槿花!」


 槿花は迷わずその胸に飛び込もうとした。

 だが、


「帰ってきてはならないと言ったのに……!」

「……っ」


 辿り着くよりも先に聞こえてきた言葉に、槿花の足はぴたりと止まってしまった。

 見れば、炎に照らされた母の顔は、愕然と槿花を凝視し、まるで怒りに打ち震えているようにも見える。

 その姿を見せ付けられて、槿花は忘れていたことを嫌でも思い出した。

 母はまだ怒っているのだ。槿花がまた母の言いつけを破ったことを。

 あまつさえ今は、子供たちが勝手に入ってはならない研究棟にも入って来ている。

 父の分も頑張っている母に、無用な苦労はかけたくなかったのに。

 槿花は、一刻も早くこの場から逃げなければならないことも忘れて、必死に免罪符を探した。


「あの……お母さん、わたし……っ」

「――まだよ。まだ、あと一度だけ……!」


 だが槿花がまごつく間に、母の方が槿花めがけて飛び出してきた。


(叩かれる!)


 思わず目を瞑る。

 だが訪れたのは頬への衝撃ではなく、小さな体を包み込むような、思いがけないほどに強い抱擁だった。


「え? お母さ……」


 朝のおはようとは全然違う、痛いほどの抱擁に、槿花はただただ困惑した。

 だが、何故と問うことはできなかった。続ける前に、二人に暗い影がかかったのだ。

 母の背後――槿花の正面に、誰かが立っている。

 扉の外は既に黄昏が満地に広がり、炎の赤だけが周囲を照らしている。それが逆光になって、顔が判然としないのだ。

 だが島に人の住む里は一つしかなく、顔を知らぬ者などいない。槿花は、誰かが助けに来てくれたのだと疑いもしなかった。

 だから、続いた母の言葉の意味が、すぐには分からなかった。


「槿花、逃げ――!」


 て、という声は、ずぶり、という布と皮膚を裂く音に混ざって聞こえなかった。


「……え?」


 いつの間にか、母の背から細長い鋼の棒が生えていた。遅れて、じぃんとした痛みが槿花の胸にも届く。

 訳も分からないまま、鈍い恐怖が全身を呑み込み始めた。


 怖い。

 怖い。何これ。何この人。怖い。

 何でまたこんなことが。


 思考が纏まらない。喉に、呑み込めない何かが引っかかっている気がする。

 炎が建物を舐める声と、木々が焼け落ちる音の合間に、遠くで何かが鳴っている。


 ゴーン、ゴーン、ゴーン……。


 あぁ、鐘だ。中央広場にある時計塔の鐘楼が鳴っている。

 島で最大の砂時計と、最大の日時計である棲雲山と方尖柱メンヒルを基準に、毎日定刻に鳴らされる鐘の音。時辰の里の生活の基盤であり、そこに鐘打ちの時計番がいるという証。


(なぁんだ……やっぱり、こんなの、変だよね)


 鈍く低く、意識の薄れかけた槿花の目覚めを促す。いつもと変わらぬ始まりの音。

 ゆっくりと意識が途切れ、散り散りになり、そしてまた、構築される。

 そして。



「……え?」



 槿花は、もう一度そう言っていた。それから、ぱっちりと目を開ける。

 見慣れた天井が、蘇芳色の瞳に映り込む。


「槿花ー。鐘が鳴ってるわよー。もう起きなさーい」


 階下から、いつもの母の呼ぶ声がする。横を向けば、少し歪んだ安い硝子窓から、洗い立てのような真白い朝日が零れている。

 窓外に見えるのは、春の君懸草と秋の薄雪草。季節の違う花が、今日も仲良く並んで咲いている。

 いつもと変わらない、朝の始まりだ。

 化け物のように荒れ狂っていた火はどこにもなく、喉の痛みもない。まるで、全ては幻であったかのように。


「……夢?」


 そう、まるで夢から覚めたように、何もない。呟いた途端に記憶は薄れ始め、何が現実で何が偽りだったのかさえ分からなくなる。

 ただ、一つだけ胸に残るものがあった。

 不安だ。


「お母さん!」


 槿花は、いつもはだらだらと丸くなる布団を蹴飛ばして母の下に走った。

 こんなに必死に起きた朝はないというほど走って既に火の入っている竈に駆け付ければ、母が大きな足音に驚いたように振り返った。


「な、なぁに? そんなにお腹空いたの?」


 たすき掛けの着物に腰巻きをした母が、切れ長の目をぱちくりと見開いて振り返った。槿花が珍しく一度呼んだだけで起きたのが、余程珍事に映ったらしい。

 いつもはそんな態度に抗議の一つもする槿花だが、今は母の顔を見ることに忙しかった。

 槿花と同じ蘇芳色の瞳も、毎日ひっ詰めているせいで結び癖のついた赤褐色の髪も、相変わらず疲れきって艶がない。毎日の研究疲れのせいで頬がこけ、細い顎が益々尖って見えるし、血色も良くない。

 だが、それだけだ。怪我も火傷も、どこにもない。


「なぁにぃ? そんなにじろじろ見て……また悪さでもしたの?」


 いい加減居心地が悪いとでも言うように、母が苦笑しながら竈にかけた鍋に視線を戻るす。そのいつも通りの仕草を見た途端、槿花は何故こんなにも不安だったのかも分からなくなってしまった。

 最後には、自分の体が告げる声だけが頭に残る。


「……お腹、空いた!」


 槿花はパッと花が咲くように笑って、自分の椅子に飛びついた。


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