断章 或いは 序章

 春の危機により、放浪し続ける西の具眼者がついに棲雲山に戻ってきたと聞いてすぐ侵入した具眼者の館エ・ウ・ニルは、外れだった。


(ここも違う)


 桑茶色の髪を背に流しながら、まがきは突然の侵入者に俄かに混乱する館から抜け出すと、一目散に棲雲山を駆け下りた。

 花圃に囲まれた棲雲山は、平民には許可なく立ち入れない聖域だが、物理的な障害や術などが阻んでいるわけではない。ただの忌避と禁忌だ。

 棲雲山の山腰にこそ具眼者が集めた騎獣が徘徊しているが、仙術の潜行能力さえあれば、館まで辿り着くのも戻るのもそこまで難しくない。

 加えて、春を解放しに行った仙からの報告により、多少の影響が出始めていた。春に迫る危機への対処と、神魔の偏った活発化、そして新たな懸念材料の発生。

 お陰で、想定以上に追手の数が少ない。逃げ切るのは容易だった。


「……で、どうしてまた私の横を歩いているのかしら?」


 とはいえ命からがらに戻ってきたというのに、やっと追い付いた旅の同行者は開口一番、凍りそうな瞳で実につれないことを言った。

 籬はへらへらと笑いながら、久しぶりに胸襟を開いた。


「それは勿論、君と一緒にいたいからさ。シャル」

「私と一緒にいたいのなら、まずその軽薄な二枚舌を引っこ抜くことから始めるのね」


 折角満面の笑みを向けたのに、美しい同行者は辛辣な回答をする前から既に前しか見ていなかった。辛うじて見える左目の泣き黒子も、どこか籬を小馬鹿にしているように見える。

 相変わらず、他者に容赦がない。完全に人嫌いを拗らせているのに、籬が隣を歩くことを拒絶はしない。

 それが大して良いことでないと知りながら、籬はなお軽薄に返した。


「でもこの軽快な舌がないと、困った時に日銭を稼ぐのが大変になると思うんだけど?」


 言いながら、背中に負った一弦胡弓を指差す。それに一瞥だけ寄越すと、少女は呆れたような嘆息とともに不平を零した。


「……だったら、何をしていたかくらい説明したらどう? いつもいつも、新しいさとに入る度にふらりといなくなって」

「えっ、心配してくれたの?」

「迷惑よ。安易に荷物持ちをさせられないじゃない」

「ひどいっ」


 珍しく優しい言葉でも続くのかと期待したのに、相変わらずの痛烈な道具扱いで、籬はおどけながらも内心で笑ってしまった。

 彼女がいつまでたってもこうだから、安心して傍にいられるのだ。


(また一からやり直しか)


 今回橋渡しをした春の暗殺については、結果として上手くいったと言えるだろう。神魔に動かされたのは気に喰わないが、紹介された散ばら髪の男が相当の実力者であることは疑いがなかった。

 実際に春の殺害まで踏み切れる人物かどうかは判断材料が足りなかったが、今回は春の生死は重要ではない。

 籬の目的は、常に居場所不明の西の具眼者の顔を確認すること。

 それは今回やっと達成された。


「さて、魔女マクシェファの次の獲物は決まったのかな?」


 思考を切り替えるために、籬は何気なく話題を変えてみた。

 が。


「……殺されたいの?」


 感情の籠っていない声で静かに左手の指先を向けられてしまった。

 相変わらず、その通り名は心底嫌いらしい。


「そういう使い方は良くないと思うな。ね、首飾りの乙女シャルシャルト・アルマー?」

「……私の邪魔をする奴なんか、全員死ぬほど苦しめばいいのよ」


 にこやかに躱すと、少女は怒りも露わに踵を返してしまった。随分お怒りだったようで、襟の下に隠していた灰玉髄の首飾りが弾みで飛び出してかちゃりと鳴る。

 それを見つめる蘇芳色の瞳が一瞬だけ籬の視界に映って、艶やかな撫子色の長い髪に隠され消える。

 後には気の強そうな足音が、高らかに籬を置いていく。

 いつも通りだ。

 いつも通り、また当てもない長い旅が始まる。

 出会う誰かを、片端から不幸に巻き込んで。




       ◆



 薄雪が榮と共に旅立ち、籬がシャルの元に戻ったのと、同じ頃。

 波夷はい州は州都小槐花しょうかいかにある華族の屋敷、波華殿はかでんの上空に築かれた御花大宮おはなのおおみや――俗にいう移動宮廷ミシュカーンの最奥では、この大陸で最も高貴な御方が、幾度目とも知れぬ溜息を漏らしていた。


「今回も、見付からなかったか」

「はい、真達しんだ州での再調査もこれで全て終了しましたが、それらしい人物はいなかったとのことです」

「そうか……」

「念のため東花王とうかおうにも協力を要請し、東大陸も捜索しますが、あまりご期待はなされない方がよろしいかと」

「あぁ。分かっているよ……」


 王花がとこの上で小さく息を吐く。

 不在になっている三の王花の捜索は、八十年前から細々と続けられていた。それが今になって今上である一の王花が気にかけるには、理由がある。

 二の王花の開花期が近いのだ。

 それはつまり、今上の落花期が近いということでもある。


(王花は短命とは言うが)


 侍中じちゅうとして王花の傍近くに侍る珊底さんて華族の今君いまぎみ燕子つばくらは、困ったものだと眉間に皺を刻んだ。

 王花は大陸の要石として存在するためか、その体調は大陸の治乱に大きく影響された。三の王花が不在で神魔デュビィが蔓延るこの時代は、今上には常に消せない心労がのしかかり続けているようなものらしい。

 そのため御殿医にできることはなく、気休めに香を焚き、薄暗い部屋でただ安静にしているしか術がない。


降居宮おりいのみやとなってすぐにでも崩御しようものなら、治安は益々悪化するな)


 王花は必ず王花の死後にしか生まれない。当代に王花は三人以下。これはどんな時も覆らない。

 問題は、降居宮の崩御から新たな三の王花の誕生までにどれほど期間が空くかということだ。

 俗に言われるのは、やはり治安が悪ければ悪い程、降居宮の崩御は早まるというものだ。今世はまさにその典型だろう。


(そのうち二の王花が挨拶に来れば、いよいよ代替わりが始まる)


 三の王花がいないまま譲位が行われ、降居宮が崩御すれば、西大陸の王花は今上の一人のみ。そうなった時、他の十一華族が取る選択肢は二つ。

 王花の不在を埋めるための仮の措置である封王ふうおうの座を得るために支持を集めるか、新たな三の王花を得る――つまり我が家のまだ見ぬ赤子の花生華たんじょうを望むか。

 三の王花が行方不明となって、既に八十年近い歳月が過ぎている。そろそろ花廟かびょうを建てれば、次の王花の生華たんじょうが我が家に巡ってくるかもしれない。


(天意は相も変わらず意地が悪い)


 王花が常に同じ華族に生まれれば、御所を移す必要もなければ、王花がいないと騒ぐこともないのに。他の大陸では、王統を血で繋ぐ所もあると聞く。その方がよっぽど面倒が少なく、無駄な権力闘争もなかったろう。

 そもそも世の理法ことわりに反した時に天人マルアハが遣わされるというのなら、王花が消えた時にこそ現れてその場所を示してくれれば良かったものを。


宮毘くびはいまだに探し続けているのかな)


 華族同士を娶合わせる裏で、その時代に生まれた者の中から王花を見極める花栄会で、久しぶりに生死不明者が出た。それが宮毘州の第一子だった。

 その会ではついに王花が誰か分からず、宮毘の子が王花そうなのだろうと誰もが考えた。だが大規模な捜索でも宮毘の子は見つからなかった。華族であれば、生まれながらに体のどこかに花紋(かもん)があるにも関わらず、だ。

 誰もが死亡したのだと考えた。しかしそれから何年経とうとも新たな王花は生まれなかった。


(封王の時代が来る)


 それまでに必要なものを一刻も早く揃えなければならない。

 末爾まに州に嫁いだ娘は、既に次の王花を生華させるべく準備に入っている。問題は、跡継ぎとして家に残した息子の方だ。

 十年程前に平民の女に入れ込み、半花まで拵えたせいで、婚約者である因陀いんだ州の姫君との仲は絶望的だ。州司同士で裏から手を回し、婚約を清算しても、王花の生華に間に合うかどうか。


(まったく、頭が痛い)


 だが、最悪の状況下でも救いはある。


「燕子は、封王になりたいか?」


 まるで思考を見透かしたような問いに、燕子は僅かに現れた緊張を瞬時に圧し殺した。意識的に一呼吸を置き、それからわざとらしくならないように苦笑してみせる。


「今上のお姿を拝見し続けている身としては、なんとも」

「……ふふ。情けない話だが、他の者たちもそう思ってくれると、憂いが一つ、取れるのだがな」


 今上は呼気だけで儚く微笑むと、首を動かして格子が蔓花模様で装飾された丸窓を見上げた。

 王花の寝室がある寧心宮ねいしんきゅうは、州都を見渡せる表側に向かって、周囲が吹放ちになった釣殿つりどのがある。だが床に横たわったままでは、青いだけの空と雲と、沖島ひーるとうくらいしか見えはしまい。

 その横顔は、青年時代に御所で教導してくれた時の若々しさはすっかり消え、今やその重圧と暗澹たる未来に、同年代のはずの父よりも老け込んで見えた。


(気付かれたか?)


 無言で窓外を見詰め続ける今上に、内心でひやりとする。だがすぐに、無意味な心配だと切り捨てた。


(今上に出来ることなど、最早何もない)


 その時、背後で控えめな叩扉が上がった。

 控えの間に下がっていた女官が入ってきて、燕子に目で確認する。それに頷けば、宮女が音もなく扉を開けて燕子に耳打ちした。


不凋花アマラントスですが、取り逃がしたようです」

「!」


 床から身を起こすことも辛い王花に関することかと思いきや、待っていた朗報とは真逆の報せに、燕子は思わず舌打ちしそうになった。

 今では病床に臥している当主そふは当時、燕子の息子が平民に半花を生ませたと聞き、激昂した。かつて平民と密通したことで妻の気が触れ、自死した宮毘州の例もある。母子共々の抹殺命令も当然だ。

 だがその半花が不凋花だと聞いた時、これは珊底州に王位が回ってくる天啓だと確信した。その数年後に融通の効かない当主も病床に倒れたことも、追い風となった。

 父が州司として采配を振るい始め、命令は抹殺から捕獲に変わった。不調花を手に入れることも、難しくない話になったはずだったのに。


「何としても探し出せ」


 小声で命じて、宮女を追い出す。

 次の遷都は安底あんて州だ。御所の移築が完了するまでに、全てを終わらせなければならない。


(まったく、何故この私が、小娘ばかりを探し回らねばならぬのか)


 消えた三の王花もまた女児だったと聞く。嫌な因縁に、燕子の口からもまた嘆息が零れそうで、慌てて口を引き結んだ。




       ◆




 淡い夜空の真ん中で、今宵も孤独な冴月媛命さつきひめのみことが、天日邇岐志神あめひのにきしのかみの右目を恨めしそうに監視している。

 それでも、枝葉を縫って地上に届く月光の清けさは変わらない。

 春に殺されたあの日から森の奥から動けないでいる狗尾にも、その光は平等に降り注ぐ。その冴えた月光を浴び続けた狗尾は、やっと髭の一本を動かせるまでに意識を取り戻した。


「…………――」


 景気づけに笑ってみる。声は掠れて、音にすらならなかった。

 だが十分だ。

 春に殺された日は妻月が消える新月だった。これが弓月まで消える真新月であれ助からなかったが、三日妻月みかめづきももう随分太り始めた。もう暫くここで死体の顔をして転がっていれば、大穴の開いた腹も幾分マシになるだろう。


(あー。痛くないって最高ー)


 死花屍マヴェットしかばね鬼魄ルアハを入れ込んでいるだけだから、神魔は余程の阿呆か酔狂でなければほとんどの者は余計な感覚を遮断している。

 生命活動が終わっているから失血死もない。肉体が機能不全に陥っても、本体である狗尾の魄が無事ならば消滅することもない。

 それでも肉体を動かしていたのは狗尾の魄が溜め込んできた魔力であり、それを削がれた影響は狗尾自身に直接現れる。腹に大穴を開けたまま平気で歩き出すことは、流石に無理があった。

 その点で言えば、大仙ムニが狗尾を捨て置いたのは僥倖と言えた。春の巡行が遅れていたことと、薄雪と離れること、そして狗尾の小物らしい振る舞いが効いたのだろう。

 いま悩むべきは、この屍を使い続けるか、新しい屍を調達するか、その程度だ。魄に関して言えば、今は死体を気取って、地上から湧き上がる魔力を余念なく取り込むだけでいい。

 妻月が満ちれば、魔力は最も力を増す。そうなればこの獣族の体を捨てて、新しい屍に乗り換えても、知恵無しの鬼魄に戻らずに済むだろう。

 ここが花守の森に近くなければ、人里に近ければ、もっと早く回復できただろうが、こればかりは致し方ない。

 だが、焦ることはない。


(まったく、思い通りにいかなくて笑えるな)


 春絶期が来れば狗尾の目的も半分は達成したも同然と思ったが、まさか春があそこまで入れ込むとは予想外だった。

 できれば女神には、すべからく絶望してほしかったのだが。


(まぁ、贅沢は言わないさ。あとの二人は、ちゃんとおいたし)


 あとは待つだけだ。

 三人の女神が同じ時代に揃うという、この三千年で一度も起こらなかった奇跡に立ち会えたのだ。

 天人マルアハに手を出される前に、全ての女神の目を覚まさせないといけない。

 そのために必要な駒は、既に手中にある。


(果報は寝て待てってね)


 楽しくて楽しくて仕方がない。狗尾は月光を弾く髭をぴくぴくと揺らしながら、声もなく嗤い続けた。くひひ、くひひと。


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