第二十七話 君をのみ頼む旅なる

 明けて翌日から、二人は春との旅路を遡るように南下した。

 目的地である薄雪の生まれさとがある森宜しんぎ郡は、春と別れた楪豊ちょうほう郡とは南北で隣り合っている。二人とも手負いではあったが、再び花守の森の際を休み休み進み、数日後にはすっかり春めいた椋広りょうこうの里に辿り着くことができた。


「ユキ、椋木の芽が開いてるよ! 鶯が鳴いてるっ」


 キキョキキョッと甲高い音が聞こえて薄雪が微かに視線を動かせば、小精霊ネティン珠芽しゅがが声の方に飛び上がって見えたものを薄雪に伝え、仔狐が根の間を駆け抜ければ、追いかけて行ってその毛皮の色を伝える。

 ずっと一人旅だった榮と、まだ榮に怯えて無口な薄雪の二人では、さぞ葬儀までの哭夜こくやがごとき沈鬱な道中になるかと思われたが、珠芽しゅがの無垢な賑やかさは救いだった。

 お陰で梓旦したん郷は椋広の里に着く頃には、途切れ途切れではあったが、二人の間でも会話が交わされた。

 春といたのは、母のために春を連れて来ようとしたからだということや、棲雲山から遣わされた仙がそれを助けてくれたこと、母に春を引き合わせようとしたが、兵士に見つかって叶わなかったことなども聞いた。


「わたしは、ずっと、へやに閉じこもっていた、から」


 薄雪は、頭の上で楽しそうに鼻唄を歌いながら小さな頭を左右に振っている珠芽とは対照的に、ずっと自分の爪先を見るように歩いていた。


「お母さんが、どんな顔をしてわたしを見ていたか、分からなくて」


 そう、どこか恥じ入るように薄雪が続けたのも、榮が理由も問わず、無言でいたからだろう。

 榮は炎天魔王の元にいた間にすっかり無口で不愛想な人間になっていた。小さな子供の扱いなど、最も苦手とするうちの一つだ。

 適当な相槌もなければ、雑談もしない。薄雪が黙れば、珠芽が騒ぐ声しかしない。

 今も薄雪が榮の様子を窺っているのを感じるが、榮には何と答えれば相手が満足するのか分からない。

 それでも、普通の子供ならば親の顔色を窺うなど悪さをした時くらいなものだろうことは、榮でも知っている。だというのに薄雪は、それが分からないことをまるで自分の罪のように言う。

 原因は、不凋花アマラントスか、その目のせいだろうに。


烏有うゆうの女神とは、何のことだ)


 不意に、玄天魔王ウアティの最後の言葉を思い出す。

 女性神はパリョ神族にもネオン神族にも数多登場するが、その名を持つ女神は榮の知識にはない。或いは、烏有という名に別の意味があるのか、薄雪の眼のことを指すのか。

 だが結局、玄天魔王は襲って意味深な言葉を残すだけ残して、何もせず、啓発すら与えず去って行った。


(……何が、こんなにも気にかかるのか)


 ずっとそうだ。答えに辿り着けそうなのに、その前には黒い靄がかかって一向に晴らせない。

 春を殺そうという時もそうだ。春を殺せば、その答えに近付けるかもしれなかったのに、気付けば薄雪を目で追っていた。

 理由は、疾うに自覚している。


『ただの女の子です。これから……これから幸せになる、はずだったのに……』


 殺そうとしていた榮に向けた、春の言葉。

 自分の存在を消される鍔際だというのに、命乞いもせず、一介の少女こどものことばかりを考えていた。袖を振り合っただけの、永遠に共にいることも出来ない少女の、特別でないささやかな幸せを。

 それはかつて、榮自身が願ったはずのことだった。たった一人の妹の幸せを願って、道を踏み外すと知りながらあの家を捨てた。はずだったのに。


『あなた、誰……? お父様に、なに、したの』


 最後の誅殺しごとに赴いた家で、あろうことか標的の娘に現場を見られてしまった。他のどこよりも知っている場所だと、懐かしさに油断が出た。

 愕然と見開かれた双眸、震える指先、色を失くした唇。あの時の妹と瓜二つの顔をしていのに、何もかもが違う。


『この男は、神体具に手を出した。秩序を守るため、炎天魔王セジェムの名の下――』

『お父様は私を守ってくれてた! 私を!』

『!』


 両手両足を突っ張るようにして叫んだ少女の慟哭に、榮は棲雲山が落ちてきたかのように何もできなかった。いつもは川が流れるように勝手に出てくる口上が全て霧散し、ただ少女の叫びを浴びるしかできない。


『出てって! お前はただの人殺しだわ!』


「だから、知りたいんです」

「――ッ」


 ハッと、榮は息を呑んだ。白昼夢から覚めたように眼前の景色を視認し、隣を歩く薄雪の俯きがちな横顔を確認する。


「知らないまま、嫌な思い出に、したくないから」


 薄雪が、小さな声で、強い決意を言葉にする。

 違う、と榮は自分に言い聞かせた。

 この少女の大切なものは、まだ奪っていない。


(違う、そうじゃない)


 声もなく喘ぐ榮に気付いたのは、珠芽だった。


「サカエ、寝てた!」


 薄雪の頭からぴょろりと飛び出し、虚ろに前方を見ていた榮の視界をちょろちょろと飛び回る。


「え?」


 真剣に自分の心情を語っていた薄雪が、何故か慌てて謝罪した。


「あっ、あの、ごめんなさいっ。つ、つまらなかった、ですよね? 退屈な話だし……あの、休憩を……」

「不要だ」


 どうやら、自分の話が詰まらな過ぎて榮が舟を漕いだとでも思ったようだ。そんなことはしない。


「寝ていたわけでもない。お……ユキが、疲れていないなら」

「だ、大丈夫です。それに、あの……」


 薄雪が遠慮がちに道の先を指差す。膝下の青麦が茂る畑と畦道の向こうに、背後に穏堵おんとの森を背負った小さな集落が見えた。道の傍らには、「椋広の里」と刻まれた里標もある。


「ここか」


 どうやら、生まれ里に着いたらしい。

 生涯で四度目となる道行きを、薄雪が明らかに緊張しながら進む。

 里は、静かだった。

 州境ではあるが街道からは離れ、州軍の駐留地も離れている。道中も閑散としているとは感じたが、里はそもそも人が少ないようだった。男手が戦争に取られたまま、まだ帰ってこないのだ。


「ユキ?」


 薄雪は、二、三度迷いながらも、ある小さな四合院造りの民家の門前で立ち止まった。そのまま動かなくなった薄雪の顔を、珠芽がひょいと覗き込む。

 薄雪は無意識のように、鷹鳴枕を抱く腕に力を籠めた。


「きゃはっ、くすぐったいよユキっ」


 珠芽が楽しそうに身を捩る。だがそれから、薄雪はずっと動かなかった。

 確かめたいと言いながらも、やはりその一歩が踏み出せずにいるようだ。顔が青白い。

 そして榮もまた、早くしろとも、自分が確かめるとも言える性分ではなかった。


「ねーねー。次はどこ行くのー?」


 一向に動かない二人に飽きてあちこちふらふらと漂っていた珠芽が、もう飽きたというように門前に舞い戻ってきた。

 確かに、何の変哲もない民家など、精霊には面白味の一つもない場所だろう。


「ご、ごめんね。あの、お話が終わったら……」


 次に行くから、とは言えず、薄雪が口籠る。その様子に、榮は失念していることがあると思い至った。


(薄雪がその母親と和解したら……)


 春の最後の懇願が脳裏を過る。


『できれば、幸せにしてあげてください』


 榮は、殺しはしない、としか言えなかった。必ず幸せにするなど、とてもではないが言えなかった。そんなもの、どうすれば手に入るかも分からない。

 だが薄雪が母親との誤解を解いて、母子仲良く暮らせるとなれば、それが薄雪にとっての最大の幸せとなるのではないか。


(そう、なれば)


 榮は不要だ。

 そう気付いた先の思考はしかし、珠芽の無邪気な疑問に遮られた。


「話す? サカエと?」

「そうじゃなくて……ここの、お家のひとと」

「ひと? いないよ?」

「え?」


 小首を傾げた勢いで逆さまになった珠芽に、薄雪が何のことかと瞠目する。だが榮は、嫌な予感がして飛び出していた。

 閂のかかっていない扉を押し開けて中に入り、院子なかにわを抜けて奥の母屋を叩扉もせず開け放つ。無人だ。

 踵を返して階段室に入ると、死体が一つ転がっていた。壁の隅で逆さまになって体が折れ曲がっており、二階に逃げようとして斬られたのだろうと推察される。頭頂で纏めた白髪が乱れ、べっとりとついた血は赤黒く乾いている。


(押し込みか? にしては、漁られた様子がない)


 老爺の死体を跨ぎ越して二階へと上がり、残る臥室しんしつも全て見て回る。こちらは生者も死者もいない。そもそも、人の気配がない。


「お母さん……お母さんっ」


 薄雪の、大声を出し慣れていない声が下から聞こえてきた。榮は二階の回廊から直接院子へ飛び降りると、薄雪の声が聞こえる方へと向かった。


「ユキ?」


 一階の母屋の奥にある戸の前で、珠芽が困ったように中を覗いている。その視線の先で、薄雪が腰が抜けたようにへたり込んでいた。左右に結んだ髪の間、白いうなじから、青紫とも赤紫ともつかない、光沢のある五弁花が咲いている。


「お母さん……怒って、るの? わたしが、帰ってきたから……春がいない、から……」


 そこは居間に隣接する、小さいながら日当たりの良い小ざっぱりとしたへやだった。端には布団が綺麗に畳まれてあり、反対の壁には平民の家ではあまり見ない子供向けの本がこれでもかと詰まった本棚がある。

 だが、それだけだ。血の匂いもしなければ、大人が隠れられるような場所もない。


「ごめんなさい……わたし、ただ……」

「誰もいない」


 見えない誰かに向かって謝り続ける薄雪の目を、後ろからそっと手で覆う。それから、もう一度ゆっくりと言い聞かせるように繰り返した。


「ユキ。この家には、誰もいない」

「……っ」


 ヒュッと息を呑む音だけが返る。


「ユキ? シュガ、変なこと言った?」


 自分の発言のせいで突然走り出した薄雪に、珠芽が心配そうにその小さな肩に留まる。小さな手で薄雪の血の気の引いた頬に触れ、温もりを分けるように張り付く。

 その仕草に、薄雪が少しだけ正気を取り戻したように首を横に振った。


「……ううん、大丈夫」

「ほんと? 良かった!」


 ぎゅぅぅっと、珠芽が薄雪の頬に全身で張り付いた。薄雪がくすぐったそうに笑う。だがその肩も声も、か細く震えていた。




       ◆




 榮は薄雪を一旦その室に残すと、祖父の遺体を手早く埋葬してから、周囲の民家に簡単に聞き込みをして回った。炎天魔王の魔従士を騙って聞けば、警戒されながらもおおよその情報は取得できた。

 この家の娘が華族に色目を使い、半花を産んだこと。その半花は見たことがないが、以来里人からは遠巻きにされていたこと。数日前には兵士が何人も家に押し込み、娘は連れ去られ、父親もその日以来姿を見ていないということだった。

 ついに州司様がお怒りになったんだ、とは、誰もが口を揃えて零した言葉だった。


(そういうことか)


 華族は決して異類婚を認めない。寿命や術の性質の違いもそうだが、華族の婚姻は十二州全体の立ち位置や力関係にも直結する、ごくごく政治的な問題だ。

 厳しい二子制を敷き、王花に初めて謁見する花栄会までに婚約者を定め、王花から勅許を得る。それから外れるということは、王花の意思に背き、州同士の暗黙の約束を反故にし、戦の火種を作ることに等しい。

 そのせいで、内実は華族の方が一方的に懸想した場合でも、世間からは華族を誑かした悪女と見られることが圧倒的に多い。華族が情報操作をして追い詰め、離れるように仕向けるからだ。

 理性的な者であれば、華族との恋愛など御法度を通り越して死刑宣告だと知っている。それでも華族が諦めなければ、家長いえぎみである州司が戒めにと、その平民を一族郎党皆殺しにしたことさえ過去にはあるのだ。

 それでも貫き通して生まれた半花を、今更憎むとは考えづらいが。


(今はその問題は後回しだ)


 今後の行動に必要なのは、という情報だ。


(狙いは母親か、あるいは)


 あの仙が懸念した通りになったか。

 だが、これについての確証はどちらも得られなかった。

 榮はひとまず薄雪の呼吸が落ち着くのを室外で待ってから、分かっている事実を伝えることにした。


「家族は二人だけか?」

「お母さんと、お祖父さんが……」

「祖父は殺された」

「……え?」

「母親は華族に連行されたようだな」

「れん、こう……」

「目的は不明だが、生きている可能性は高い」

「……いきて、る」


 薄雪が、言葉の意味が分からないとでも言うように鸚鵡返しする。瞳は焦点が合わず、思考しようとするのに思考が追い付かないという風に。


(普通の、人も殺したことのない女子供であれば、これが当たり前か)


 理解できないわけではない。だが、もう忘れてしまった。春のように労わる言葉など出てはこない。

 薄雪のことが大好きらしい珠芽に期待をしてもみたが、当の珠芽は畳んだ布団の上で何故か日向ぼっこをしている。やはり精霊という存在に人の常識や感情の理解を求めるのは無理があるようだ。

 榮は僅かに芽生えた感情には気付かぬふりをして、さっさと次の指標を求めた。


「どうする」

「どう……?」


 まだ理解が追い付いていない薄雪が、それでも問われたことを感じて僅かにおもてを上げる。

 意思がある。それだけで、問うには十分だ。


「これで終わりか? お前の望みは」

「のぞみ……」


 己の感情を探すように、薄雪が繰り返す。視線が布団の上の珠芽を見、それから本棚に整理整頓された本の並びを見る。

 膝の上に力なく乗っていただけの手が、ゆっくりと意思を帯びるように動く。それから、薄雪は何故か床に取りこぼしていた鷹鳴枕を拾い上げた。


「ひゃんっ」


 珠芽がくすぐったそうに背を反らす。それには目を向けず、薄雪は擦り切れて生地が薄くなった後頭部を榮に突き出した。


「?」

「……まだ、お母さんに、聞けてない、から」


 薄雪が、鷹鳴枕の目を見て話しかける。顔は見えない。だが、見られている、と感じた。


「追うか」


 重ねて問う。


「行き着く先に、望む答えだけがあるとは限らないぞ」


 祖父を殺し、母親を連れ去ったというのであれば、生きていられるのは利用価値のある間だけだろう。薄雪をおびき出すためであれば生かされているかもしれないが、父親を諦めさせるためならば、望みは薄い。

 死に物狂いで母の行方を追おうとも、得られるのは絶望だけかもしれない。


(……そう。いつもそうだった)


 望めば叶うなど、叶えた者だけが宣う夢想だ。現実には叶えていない者の方が圧倒的に多い。

 それは何度人生を与えられようと同じ。どんなに焦がれても求めても、想いは伝わらないし、手さえ届かない。

 その艱難を、年端もいかない少女に求めるのか。

 しかし。


「……榮、は、いいの?」


 薄雪が心配したのは、己ではなく榮のことだった。それが無知ゆえか無垢ゆえか、今の榮には測りかねた。

 ただ、知らぬ間に言葉が漏れた。


「――あなたが、良いのなら」


 自分の声が、まるで他人の声のように鼓膜を揺らす。


(『あなた』? なんだそれは)


 感じるべき違和感がないことこそが、榮の胸中を不穏に掻き回す。

 だが薄雪はそれには気付かず、年相応のことを言った。


「わたし、頑張ります」

「……あ、あぁ」

「お母さんに会えるまで、榮、を、不幸にしないように。だから」


 たどたどしく、懸命に、始まりの約束を口にする。

 その意味を、榮は正しく理解してしまったから。


(愚かだな)


 榮は、互いに曲げられない互いをこそ憐れんだ。

 殺してほしいと願ったのは、己の願いがまだ明確になっていなかったから出た言葉のはずだ。願うのならば、母に会えるまで殺さないでくれと、そう頼めば済む話なのに。


「……約束は守る」


 烏有の眼が榮に不幸を齎すなのなら、その時には薄雪をきちんと殺すと。

 そう、榮が改めて請け負うと。


「ありがとう、ございます」


 己の命の期限を請うた少女は、安心したように笑った、気がした。


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