第二十六話 世よふとも われ忘れめや
ずっと、何かを探している。
それは、ある日突然何者かに書き足されるように蘇る記憶であり、何度生と死を繰り返しても飢えた猟犬のように追いかけてこの身を苛んだ。
みんなの中でも最弱の力しか持たない自分。大切な人を守ることもできず、呆気なく殺され、あまつさえ彼女の目の前で無様に事切れる。
最期に見えたのは、涙でぐしゃぐしゃに歪んでなお美しい彼女の
意識は途切れ、力は暴走し、何もかもが呑み込まれて消えていく。
矮躯を貫かれた激痛と、彼女の慟哭だけが、生を繰り返すたびに薄れていく記憶の中で鮮明だった。
だがそれも、最早遠い。
どんな場所の、どんな父母のもとに生れ落ちても、蘇った記憶はその身を当てもない旅に駆り立てた。大切なはずのものを全て捨て、得られるはずもないものを求めて世界中を彷徨う。
最初の数十回は、後悔も迷いもなかった。必ず求める結果を得られると信じて疑わなかった。ある時はそれを手にできたような気もするし、ある時は手にできる寸前で逃げ出したような気もする。
だが記憶が薄れるにつれ、蓄積された挫折と葛藤がその足を鈍らせた。此度もまた志半ばで死ぬのかと、二度目以降の記憶に恐怖を覚えた。
旅に出ないことも何度もあった。記憶に逆らい、覚醒に抗い、殻に閉じ籠った。そこには、絶望も失望もない代わりに、希望も渇望もなかった。
だから榮は、結局旅に出た。最早記憶は曖昧で、過去の自分たちが何を欲していたのかも分からなくなっていた。
それでも、何かを求めている。
狂おしいほどに。
最早それは、呪いでしかなかった。ふとした弾みに蘇る記憶が自分のものかそうでないのか、時折榮にも判別がつかなくなる。
自分が何者なのか、何故そんな行動をするのかさえ、もう分からない。
今もそうだ。
榮の記憶が書き足されたのは、父が殺された時だった。混乱していた榮は、逃げるように炎天魔王セジェムの元に入った。
炎天魔王は秩序を重んじ、華族間で蔓延する不正を憎み、平等な安寧を望んでいたから。正しい行いの中でなら、榮もまた正しくなれると勘違いしてしまった。
魔従士として長命を授かり、百五十年近くも手足となって誅殺し続けてきたが、望んだ安寧などどこにもなかった。
殺せば殺しただけ、壊しているだけだった。
結局、耐え切れずに炎天魔王の元を辞し、再び彷徨い始めた。兇手の仕事を請け負ったのは、何かを探す以外、それしかできることがなかったからだ。
そして、あの男が現れた。
『春を殺してほしいんだ』
前置きもなくそう言ったのは、人間ならば二十代前半くらいに見える優男だった。背に使い込まれた一弦胡弓をかけ、風体もまるで流しの吟遊詩人のようだ。
胡弓がなければ、まるでどこぞの情夫か色事師か蕩児か。笑い続ける鳶色の瞳も相まって、最初の一言がなければ榮が足を止める必要もない凡夫と見ただろう。
『……戯れ言に付き合う気はない』
無視しても良かったが、榮は間合いをはかりながらそう返した。
春を殺すなどと、世迷言が過ぎる。春絶期が来て得をする者など、欲に塗れた者だけだ。
しかし男は、にこやかな表情を変えぬまま、悠々と榮の間合いに入った。
『そうかい? 現実になれば、かなり面白いことになるのに』
『……』
愚かなことだと、榮は聞き捨てた。
そんなことを考えるのは、乱世を望み、弱者から搾取することを当然と考える薄汚い連中だけだ。
最早理由を聞くのも耳障りと踵を返すが、男は無言の榮をいいことに勝手に横に並んで語り続けた。
『春を殺すのは大罪、それは勿論承知の上だ。でも、既に王花が一人欠け、世は乱れ始めている。春絶期が来ても、大した差ではないよ。少し飢えと寒さが酷くなって、心が荒むだけだ』
『……その「少し」で、人は最後の箍を外し、奪い合い、殺し合う』
『それが必要なんだよ。そうなることで出来ることもある』
苛立ちが抑えられず反駁するが、やはり意味はなかった。理解できない言い分を掲げる者に、言葉の届くはずもない。
『壊したいのなら、勝手にやれ』
『そうしたいのは山々なんだけど、僕にもやることがあってね』
男が実に残念そうに肩を竦める。これ以上の会話は無駄だと、榮はとっとと姿を晦まそうと足に力を入れる。その寸前、
『春を殺すことで、あんたが探しているモノが何なのか、分かるとしたら?』
瞬間、榮は腰の鎖を男めがけて振り抜いていた。優男はそれに驚いたようにおっとっととよろめきながら、しかし危なげなく身を躱す。その身のこなしに、榮は益々不信感を強くした。
カマをかけられたのだとは分かっていた。だがその試すような興味本位の声に、己の葛藤を土足で踏みにじられた怒りと、それまで溜まっていた怒りとが重なり、敵意に変わっていた。
『……どうやって調べた』
殺意さえ滲ませて問う。だが男は、敵意はないと示すように両手を振ってみせた。
『
成る程、やはり神魔と関わる者などろくでもない。必ず平穏を壊し、人心を乱し、やがて擾乱を招く。
(殺すべきだ)
理性が結論を出す。だというのに、
『……分かっても、すぐ殺されては意味がない』
口が勝手に動いていた。まるで話を聞くつもりがあるように。
(馬鹿な)
榮の理性が必死に追いかける。だが榮の中の積念の亡者たちはそれよりも圧倒的な速さで、榮の思考を侵食していく。
今世ならば、辿り着けるかもしれない、と。
(やめろ)
何度も何度でも諦めず諦めて、探しても手が届かず、希望を持つことさえ辛かったが、手掛かりがそこにあるのなら、春を殺すくらい。
(やめろ!)
暴走し始める思考を眉根を寄せて食いしばって止める。榮以外の記憶に揺さぶられる度にそうしてきたせいで、榮の眉間には消えない皺が刻み込まれていた。
だがそこまでしても、榮の脳は春を殺した後のことを考え始めていた。
春を殺した時に一番問題なのは
天人は世の理法を乱す者を赦さない。四季を殺す者がいれば、どこにでも現れ徹底的に排除する。そのために無辜の民が何百、何千死のうと頓着しない。
探しているモノが何か分かっても、すぐに殺されたのでは得ることはできない。
その思考を見越したように、男はまた笑った。
『天人からは逃げられるさ。神体具さえあれば』
『――――』
それは、榮がこの世で最も嫌う物の名だった。
戦いに敗れ、この世とは別の空間である
そして榮の人生を狂わせた、憎むべき呪物。
『……神体具は、破滅の道具だ』
『かもね。でもそれこそが、あんたの望みなんじゃないのか?』
有り得ない、と言下に切り捨てるべきだった。だというのに、反論は声にはならなかった。
その隙を見越したように、男が畳みかける。
『想像してみなよ。春絶期になれば春の花は咲かない。花がなければ華族は生まれることすらできない。全ての季節を殺して回れば、華族を滅ぼすことも可能かもしれないぜ?』
それは、実に愚かな提案だった。
華族が憎いからと根絶やしにすれば、王花もまた消すことになる。王花が一人欠けただけで神魔が跋扈しだすというのに、三王花が揃って消えれば大陸はどうなるか。
少なくとも、そこに榮が求め続けた平穏はないだろう。
『……四季は、いずれ蘇る』
『世の理法が、それを望むならね』
まるで望まぬ可能性があるとでもいうように、男が笑う。だが榮の心を乱したのは、そのあとに続い問いだった。
『あんたの望みは、この世の平和なのかい?』
『……』
榮は今度こそ、反応することができなかった。
心の中では、とっくの昔に答えが出ていたからだ。
(大切なものを守らぬ世の治乱など、知ったことではない)
反射的に後悔と恩讐の混じった情念が榮を呑み込む。
(違う。それは己ではない)
ぐっと眉間に皺を寄せ、意識的に自分を客観視する。男の声など聞くべきでないと、冷静に思考する。
だが一方で、死してなお自分を苛む姿も見えない記憶を暴き、終わらせ、金輪際決別したいという願いが再燃する欲求を止められなかった。
もう目的も分からず彷徨い続けるのは嫌だと、疲れ果てた魂が訴える。目を閉じる度に浮かぶのが泣き顔なら、せめて名も顔も思い出せない過去の遺物ではなく、榮が捨ててきた、榮自身の罪により苛まれたかった。
『……貴様の目的は何だ』
気付けば、そう問い返していた。
『神魔に与するなど、狂痴のすることだ』
誤魔化すように言葉を継ぎ足してはみたものの、恐らく効果はなかったろう。
男は笑みを変えぬまま、初めて榮を見据えた。
『まぁ、あながち否定はできないかもな。僕も……目的のためなら、世の秩序が壊れるくらい些末だからね』
その声には、気負わず返したように見せかけながら、静かな熱を隠しきれていなかった。本心を隠し続けてきた男の、一瞬の懊悩。
だが、榮には追窮する好奇心も理由もない。男が手早く報酬の前金を出しながら春の位置を口早に告げて踵を返すまでを、無言で受けた。
『あぁ、そうだ』
やっと去ったと内心で安堵した時、男が肩越しに振り返って補足した。
『目に気をつけろ、だそうだ』
『目?』
『見られただけで殺されるそうだよ』
何だその出鱈目な力は、とまた眉間に皺が寄る。だが男はそれには何も触れず、「成功したら、神体具を持ってくるよ」と笑ってふらふらと陰に消えた。
どうやら、重要なことは殆ど伝えられていないと考えた方が良さそうだなと、榮は覚悟を決める。
それから、冬の曇り空で灰色に染まった空を見上げる。主のいない寂れた沖島が、厳しい冬風に吹かれて当てもなく流れていく。
(もう少しで、辿り着けるのだろうか。……あなたに)
声もなく呟く。白い息だけが、瞬く間に
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