第二十五話 春に知られぬ花ぞ咲きける
薄雪が目を開けても、視界は暗いままだった。
何故と視線を彷徨わせて、視界の端に朱色の明るみを感じてほっと息をつく。焚火だ。いつの間かに疲れて眠ってしまった間に、楸が火を起こしてくれたのだ。
薄雪が起きたと知れたら、きっとまた怠けたと怒られるだろう。でも、一刻も早く声を聞きたかった。
「は……」
あちこち痛む体を押して上半身を起こす。
いつものように
榮が、楸のように木の根方に腰かけて、静かに薄雪を注視していた。
「あ……」
知らず声が漏れる。
そうだ。春と楸とは、もう別れたのだ。
まだ二人に未練があると知られるのはよくない気がして、薄雪はわざとらしく居住まいを正した。それに薄雪自身、親離れできない幼子のようで恥ずかしくもあった。
(だめだなぁ)
離れてすぐこれでは先が思いやられる。と恥じ入れば、指先に何かが当たった。
(これ……)
買ってもらったばかりの鞄が、すぐ傍にあった。そこから鷹鳴枕が半分顔を出し、鼈甲の目が薄雪を見上げている。
位置からして、薄雪の枕にしてくれたようだ。いつも、春がそうしてくれたように。
(あの人が……?)
春とは全然違うのに、春と同じ気遣いをくれる。それが嬉しいようなもどかしいような感じがして、薄雪はころんと転がった鷹鳴枕を、そっと抱きしめた。
(……匂い、が)
春の優しい匂いが、そこにはまだ残っていた。目が覚めてすぐ春と楸を探してしまったのは、きっとこのためだ。
「新しい鞄と外套が必要だな」
榮が、焚火を調整しながら告げる。
そっと伺えば、右脇腹には包帯が巻かれ、腕や頬の傷にも薬を塗った形跡が見える。使ってくれたようだ。
見れば薄雪の左手にも、丁寧に包帯が巻かれている。その手当てぶりや今の言葉からも、やはり榮が無骨で無感情なだけの恐ろしい人物ではないように、薄雪は感じ始めていた。
何より、玄天魔王ウアティからも真っ先に守ろうとしてくれた。
だからこそ、薄雪は首を横に振ることができた。
「これは、春と、楸さんが、買ってくれたもの、だから」
言いながらも、鞄や
「あの、だから、出世払い、しないと、なので……」
「お前がいいなら、良い」
反応のない榮に思わず言い募る薄雪に、榮が見かねたように言葉を止める。その声はやはりぶっきらぼうではあったが怖くはなく、薄雪はそっと息をついた。
「あの、あり……」
そう口を開いた時。
「ふぁあぁぁ~……」
子供の欠伸のような、気の抜けた声がした。
「……え?」
思わず辺りを見回すが、やはり誰もいない。それもそうだ。辺りは夜の闇に沈んでいるがまだ森の中で、恐らく花守の森の際辺りではないだろうか。
焚火の明かりにぼんやりと浮かび上がるのは花木が多く、魔獣の気配もない。葉擦れに混じって夜鳥の羽ばたきが聞こえるくらいで、風の音さえ清かだ。
となると。
「……えっと」
薄雪は、懐疑の念を抱きながらも、最初に声のした方――抱きしめていた鷹鳴枕に顔を戻す。そして困惑した。
ふわふわに広がった髪は、今や色褪せた鷹鳴枕のかつての姿を思わせる花萌葱色で、長い睫毛に縁どられた円らな鼈甲色の瞳は、まるで長い眠りから目覚めたように眠たげだ。
「あなた、だあれ?」
薄雪は、困惑が晴れないまま問いかけた。
この鷹鳴枕で心のまま寛いでいる手の平大の存在は、本当に存在しているのだろうか。薄雪だけが見える幻だろうか。
自信がなくて榮と鷹鳴枕とを交互に窺うが、榮は相変わらず反応がない。
だが先程声を上げていたようだし、もし言語を解するのであれば、魔獣や幽魄の類よりも精霊に近いはずだ。
だが薄雪は、精霊にことごとく嫌われている。それとも、春と別れた後だからもう関係ないのだろうか。
それでも、精霊は通力の高い者や霊力の強い場所を好むという。特に花守の森には、人好きな精霊は滅多にいないと、春も言っていた。
「らん!」
「え?」
ぱちくりと目が開いたかと思うと喜色満面で呼びかけられ、薄雪は一瞬どきりとした。それから、そんなわけがないと辺りを見回す。
まるで会いたかった者に念願叶って再会したような喜びようだが、夜の森を見回してもやはり人影らしきものは見当たらない。
薄雪は戸惑いながら訂正した。
「あの、わたし、『らん』じゃないよ」
「えー? じゃあ何だ?」
そんなはずはないと言いたげに何と聞かれ、薄雪はそういえば確かに名乗っていないと気付く。
「わたし、は、薄雪……」
そう素直に答えようとして、薄雪は慌てて目を伏せた。
(わたし、目を……!)
幻か現実か分からなかったとはいえ、信じられない程長くその目を見つめてしまった。
相手が本当に精霊ならば、薄雪の目は存在を消してしまう。やっと敵意を向けてこない精霊と会えたのに、自分の不注意で苦しめてしまうなどあってはならない。
折角嫌われなくなったのにと自戒する薄雪の、深く下げたその頭に、ぴとっと何かが張り付いた。
「ユキだな!」
自分の頭頂部から聞こえる、それはとてもとても元気な声だった。春や楸のように苦しそうな様子は、少しもない。
薄雪は益々困惑した。
「ユキ! おれはね、おれはね!」
くしゃくしゃの頭の上で楽しそうにぴょんぴょん跳ねる精霊は実に楽しそうだが、薄雪は何と答えて良いか分からなかった。
「平気、なの?」
「ん?」
「っ」
くるんっと逆さになった精霊が、薄雪の視界に現れる。薄雪は驚きすぎてお尻で後ろに飛びのいたが、やはりそれだけだった。
精霊は、きょとんとした無垢な顔で薄雪を見ている。薄雪の、真っ黒な瞳を。
「な、なんで……」
「恐らく、お前が見つめたことで生まれた精霊だから、平気なのではないか」
ずっと無言でいた榮が、困惑する薄雪を宥めるように声をかける。どうやら、ずっと二人を観察していたらしい。
確かに、精霊は自然物のあらゆるものに宿るとされ、命あるものに長く見つめられたり、強く願われることでこの世に形を得ると云われてはいるが。
「わたしが、見つめたから……?」
確かに、薄雪は鷹鳴枕を見つめてきた。春の目を直視できない代わりに。父母から愛されていた過去を確かにする証に。
そこに、明確な願いがあったわけではない。
あったのは、孤独と、寂寞と、不安と、結末の見えている希望と。
「ユキ!」
「!」
思わず物思いに沈んでいた薄雪の頬に、小さな精霊がぴたっと張り付く。
まるで子猫のようにすりすりと頬を合わせるその仕草に、薄雪は驚き、そして理由も分からないうちにただただ胸が満たされた。鼻がつんと熱くなり、目頭が潤む。
「ユキ?」
両手を伸ばしても薄雪の鼻から耳までしか届かない小さな精霊が、心配そうに薄雪を覗き込む。その顔がどこか春に似て見えて、薄雪は泣きながら笑っていた。
(失くしたと、思ったのに)
両手に収まるこの小さな精霊が、薄雪が諦めた全てを持って此処に現れたような気がして、堪らなくなった。
出会って間もないのに、愛しいという言葉が、初めて胸の中に灯る。
「大切なら、名前を付けろ」
「名前?」
榮の提案に、薄雪は目をぱちくりと瞬かせた。
精霊は生まれた土地や物の名前で呼びならわすのが一般的であり、上位精霊である春でさえ、忌名はあっても交名はない。だがこの精霊が鷹鳴枕から生まれたのであれば、そう呼びかけるにも違和感がある。
(名前……)
そう言われて、薄雪が最初に思いついたのは春だった。けれど春と呼ぶことはできない。
次に想起したのは、あの夜の春の言葉。
『薄雪は、冬芽のようです』
「ふゆめ……」
「フユ?」
精霊が小首を傾げる。その響きに、少し違う、と感じる。
それよりも、この元気が溢れている小さな精霊に相応しいのは。
「……しゅが」
春を待ち耐え続ける冬芽ではなく、養分を蓄えて育ち、いずれは離れて自らの根を張る
「シュガ? シュガ!」
精霊が、気に入った玩具に出会った子供のように何度も繰り返す。
自分の本体のはずの鷹鳴枕の上でくるくると跳ね回る姿は、いつまでも見ていられるくらい微笑ましい。
「シュガは、シュガ!」
「……うん。あなたは、珠芽」
「むっふー」
薄雪の肯定に、珠芽が満足そうに一回転した。
それから、今度は榮の顔面目掛けて飛んでいき、
「おれ、シュガ!」
意気揚々と挨拶した。
感情などないような榮が、微かに怒ったような気配を沈黙に滲ませるが、
「……榮だ」
意外にもきちんと名乗り返すものだから、薄雪は思わずふふと笑みを零していた。殺伐としていた空間が、一気に和やかになる。
気付けば、春たちと別れた時の心細さが嘘のように、気持ちが軽くなっていた。
だからこそ、思い至ることができた。
「榮、さんは、あの……」
「榮でいい。敬語も要らない」
榮の鋭い眼光が、薄雪を射抜く。けれど怖くはなかった。促されているとさえ感じる。
(不思議な人)
目的も素性もまるで分からず、躊躇なく春を殺そうとした冷徹さや、自分の処遇の未知を考えても、傍にいることの安心材料など一つもないはずなのに。
殺さないという言葉も、何の強制力もないただの口約束で。
その時が来れば、やはり躊躇なく薄雪を殺してくれるだろうひと、なのに。
「これから、どこに行くの、ですか?」
舞い戻ってきた珠芽を両手で抱き留めながら、薄雪は聞いた。
榮は薄雪の意図を確かめるように一拍を置いてから、逆にこう尋ねた。
「行きたい所があるのか?」
それは、たった一言で薄雪の浅はかな思惑など全て見透かしたように、的を射た問いだった。楸のように明確な目的があると思っていたのに、そう聞き返すということは、違うのだろうか。
(少しだけ、叶うなら、寄り道してもらえたらと、思ったのに)
薄雪はまるで自分がそう聞いてもらうように仕向けたようで申し訳なく思ったが、今を逃せばきっと後悔する。意を決して口を開いた。
「……お母さんに、聞いてみたいことが、あって」
こんな理由でいいのだろうかと、口にしてからまた迷う。けれど薄雪は、今更ながらに、知りたいと思い始めていた。母が、本当は薄雪のことをどう思っていたかを。
薄雪に、春を連れてこいと言ったのは何故か。
それとも。
(あの『分かった』は、本当は……)
春と楸が気付かせてくれた、あったかもしれない、薄雪が気付けなかった母の愛を、知りたい。
それがたとえ、薄雪の最後の希望を粉々に打ち砕く決定打になったとしても。
榮の思案は、一時。
「お前の生家でいいのか」
答えは、問いの形でもたらされた。
「え」
薄雪はすぐには理解できず榮を見ようとして、それから手許の珠芽を見る。
「いい、の?」
「いいよ!」
「あ、えっと……」
見つめられた珠芽が、満面の笑みで許諾を言い渡す。勘違いさせてしまったと、薄雪は困ったように訂正する。榮を見てはいけないから、いつもの癖で手許を見ただけだったのだが。
しかし珠芽は、薄雪の訂正を聞く前にぴゅんと榮の方に跳んで行ってしまった。
「ユキ! ユキはユキだよ、サカエ!」
「……」
そして抗議するように榮の顔面にぺたっと張り付いた。どうやら、榮が薄雪を「お前」と呼ぶのは間違っていると言いたいらしい。
だが薄雪は、そんな風に呼ばれる方こそ困ってしまう。
「珠芽、あの、いいから……」
「……ユキ、の、家に向かう」
「……え」
なし崩しのようにそう言われ、薄雪はきょとんとしてしまった。
「サカエ、赤い?」
珠芽が俯いた榮の顔を覗き込み、無邪気に問う。それは薄雪には確かめることのできない表情で、奇しくも薄雪の中に残っている榮の無表情を見事に塗り替えてくれた。
(あんなに、怖そうだったひとが……)
思わず想像してしまえば、問うような沈黙と、不貞腐れたような沈黙が重なった。
「
続けられたのは、どこか言い訳のような言葉だった。それが建前なのか、榮の根底を形作るものなのか、薄雪にはまだ分からない。
だから代わりに、精一杯の真心を込めて頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます