第二十四話 忘れなば生けらむものかと

 春と楸の姿が森の奥に消えるのを待ってから、薄雪はそっと二人を振り返った。


(季節が、去っていく……)


 この半月余り、春とずっと一緒にいたから、薄雪は知らなかった。春という季節が行ったり来たりを繰り返しながら、それでもじりじりと進んで――過ぎてゆくのだということを。


「殺しはしない」

「っ」


 薄雪の右手を引いていた男が、出し抜けにそう言った。

 名残惜しそうに後ろばかりを振り返っていた薄雪が気に障ったのか、或いは安堵させようとしたのか。

 だが薄雪はその言葉に、ついに独りぼっちになってしまった実感が湧いてきて、素直に受け取ることができなかった。


「……わたしがいると、みんな、不幸にしてしまう」


 ぽつりと、言葉が勝手に零れる。声に出してみて改めて、それが本音であり、逃れようのない現実なのだと身に染みた。


(あぁ、そう、だったんだ……)


 母も、春も、楸も、薄雪が不幸にした。

 母が本当は薄雪を嫌っていたのではないとしても、春がどんなに許してくれようとも、それが結果だ。

 それは変えようのない事実であり、薄雪が半花であり、この目がある限り死ぬまで続く確定した未来だった。


おれは、お前のような小さな存在に影響されたりはしない」


 春よりも質訥しつとつと、楸よりも険しい声で、榮が否定する。

 それは楸が聞けば愚弄かと怒り出しそうな言い方ではあったが、薄雪は少しだけ安心できた。

 道具や鉱物、水や草花などの自然物や無機物は、薄雪が視てもびくともしない。榮もそのようであれば、確かに傍にいるのも気が楽かもしれない。


(この人で、良かった)


 春には大人にならないと誓ったが、そんなことが不可能だということは、薄雪自身が嫌というほど分かっていた。

 かつては優しかった母も、薄雪が長じるにつれて冷たくなった。あの室に閉じ込められる前は何度も呼んでくれた忌名も、二度と口にしなくなった。薄雪にこれ以上の力がつくのを恐れたのだろう。

 時が経てば、嫌でも大人になる。それでも、春が許してくれる限り、春の隣にいたかった。

 悪意をぶつけられるのはやはり怖かったけれど、それでも春がいれば、どんなことでも耐えられると思えた。許される場所を、見つけたと思った。

 それでも大人になれば、薄雪はきっとまた独りに戻る。そんな未来は、容易に想像ができた。

 春と別れたら、薄雪はもう誰ともその歩みを共にしないだろう。

 きっと、二度と。


(そう、思っていたのに)


 半花と目の力を目の当たりにした榮が自分の隣にいることが、薄雪には不思議でならなかった。

 そもそも、榮が何故薄雪を奪うようなことをしたのかも分からない。神魔デュビィの依頼を受けたという点も、その強さも、薄雪を春から引き剥がした理由も、思えば何もかも謎だらけだ。

 榮に拘束された時、榮が逃げ切るまでの人質にされるのかとも思ったが、殺しはしないと二度も断言されてしまった。王花が欠け、治安が乱れると、神魔と共に人買いや人攫いも増えるというからその類かとも考えるが、やはりよく分からない。

 現に二人きりになっても、榮は薄雪との距離を詰めることも、雰囲気を変えることもなかった。静かに、薄雪の次の挙動を待っている気配すらある。


(どうしたい、のかな)


 それは榮への疑問だったが、そのまま薄雪自身への問いとなって戻ってきた。

 薄雪は、最早母と春という二つの目的を失い、何のために生きるのかも分からない。殺しはしないと言われても、安堵よりも寂しさを感じるほどだ。

 けれど薄雪は、生きなければならない。春を悲しませないために。

 そしてそのために、一つ良いことがある。

 榮は元々兇手しかくとして現れた。つまり、春や楸のような善人でないということ。それが、薄雪の気持ちを僅かにも軽くしていた。

 要らない子供と、いてはいけない兇手。

 傍にいるには丁度いい。

 だからこそ、ずっと燻り続けていた不安を吐き出すことができたのかもしれない。


「あの、ひとつ、お願いがあり、ます」


 それは、知り合って間もない榮にも意想外の発言だったようだ。実際、薄雪がその言葉を誰かに使ったのは生まれて初めてだった。

 榮の無言の視線をつむじに感じながら、勇気を振り絞って先を続ける。


「わたしが、あなたを不幸にしそうな時は、その時こそ、殺して、くれますか?」


 それは皮肉にも、榮が現れたことで浮き彫りにされた不安だった。

 春や楸をこの目で殺してしまいそうになった時、あの時ほど自分の存在を呪ったことはなかった。

 誰かを殺すのなら、その前に薄雪をこそ殺してほしかった。

 何の術も使えない、抗う力もない薄雪など、二人を犠牲にする価値もない。誰かの傍にいれば、きっとまた同じような窮地を招く。

 その時が来た時、薄雪が自分で自分の命を絶てるのなら良い。けれどそうでないのなら、誰かに願うしかない。

 誰かの命を奪ったことがあるだろうこの男にならそれを願えると、薄雪は浅はかにも思った。それが無神経で傲慢極まりないことを、心の奥底では十分に承知しながら。


「……約束しよう」


 果たして、榮は抑揚なく頷いた。

 その声に、薄雪はやっと、本当に安心できたように思えた。



「あなこうじた」



「!」


 まるで俄雨が突然頬を打つように、それは目の前に現れた。榮が真っ先に薄雪を背に庇い、腰に巻き戻した鎖に手をかける。

 だが、それだけだった。


(浮いてる?)


 榮の背中越しに膝辺りを見たつもりだったのに、薄雪が目にできたのは、狩袴の裾括りを膝下で結んだ素足だけだった。

 そっと視線を上げれば、腰帯から垂れた狩衣と緩く纏ったあこめえりが見える。随分古めかしい装いだ。


「いづれの世も人は人をあやむ。然れど齢十一とは、あまりに短命いたづらなり」


 男が本当に困ったように、いかにも哀れげに続ける。そこでやっと、薄雪は二つのことに気付いた。

 臨戦態勢を取ったはずの榮が、そのままぴくりとも動かない。まるで男の声を聞いた途端、全身が凍ってしまったかのように固まっている。それが本人の意思でないことは、背に隠れる薄雪にはありありと分かる。

 そしてもう一つ。男が見ているのは、榮ではなく自分だということ。だが、怖や不快感はなかった。ただ、言い知れぬ圧迫感だけがある。


「……だ、だれ」


 薄雪は榮の背後に隠れたまま問いかけた。答えが返るとは思っていなかったが、意外にも拒絶はなかった。


「……なり。女神には名乗る義務のありなむ」

「女神、だと……?」


 何のことか分からずにいる薄雪の代わりに、榮が驚いたような声を上げる。

 薄雪も、女神という単語には聞き覚えがあったが、それが何故今出てくるのかはやはりよく分からなかった。

 男が滔々と続ける。


「女神を手に掛こうとした男よ。うれは万死にる」

「えっ?」


 突然の話題転換に、薄雪は驚いて目を白黒させた。

 女神とか汝とか、何のことかさっぱりだが、男の視線が榮に移ったことだけは理解できた。

 慌てて榮の前に入る。


「お前……!」

「だ、だめです。この人は、あのっ」


 薄雪は目を伏せたまま訴えた。だがどう言葉にすれば伝わるのか、早くも迷ってしまった。

 男が、薄雪を殺そうとした榮に怒っているのなら、いつか薄雪を殺してくれると約束してくれたことで説得するのは、少しも抑止力にならない気がする。

 けれどここで咄嗟に巧みな嘘が言える薄雪でもなかった。


「あの、この人がいないと、わたし、困ります、から」

「……困る、か」


 必死で言い募る薄雪を、男が冷めた双眸で見下ろす。

 男が問う。


「其は本能か? 偽善か?」

「え?」


 薄雪は、問われたことの意味すら分からなかった。言葉のままに受け止めるのならば、本能でもなければ偽善でもない。いつか誰かを傷付ける、自分のためだ。

 その困惑を見透かしたように、男が続ける。


「今までなば、斯様な答えでもそっとしておいてやれたが……生憎、時代が悪い」

「時代……?」


 この男の言うことは何から何まで要領を得ないと、薄雪は首を捻った。

 それでも、時代と言われれば薄雪でも思い当たるものが一つだけある。


「王花が、いないっていう……?」

「あぁ、其もありけり」


 だが男は、まるで大したことではないとでも言うように流した。


「御前、死にたいか」

「…………」


 それは内容は陰惨だというのに、どこか静謐にさえ思える問いだった。

 咄嗟に言葉が出てこない。

 死にたいかと改めて問われて初めて、不意に何かが琴線に引っかかった気がした。


(死にたい……今すぐ?)


 それは違うと、漠然と思った。

 薄雪は生きる理由も失ったと思ってはいるし、榮に殺してほしいとも頼んだが、それは今すぐではない。


(それは、どうして?)


 自問する。その答えが出る前に、男が続けた。


「むざむざ殺されなくたいのなば、得るほかなし」

「……なに、を?」

「いずれ、嫌でも分かる」


 その声にはどこか憐れみにも似た色が含まれていて、薄雪は嫌味とも皮肉とも思わなかった。

 ぼうっと男の不思議な服を見ていた薄雪の後ろで、榮が苦々しげに口を開く。


「貴様は助けないのか、玄天魔王」

「まおう?」


 それは、やはり春の講義で聞いた記憶のある単語だった。

 九人の魔王と、そう、最後に残って、そして殺された女神の話。神話の中の存在だと思っていたが、違ったのだろうか。


炎天魔王あやつなら、然もあらん。しかし愚生わぬは、女神の意思を尊重す」


 男の目が再び自分を射た気がして、薄雪は咄嗟に首を横に振っていた。

 女神という言葉が何を指すのかはいまだに分からないが、それは決して自分ではないことだけは断言できる。

 それに、何だか良くないもののような気がして、怖かった。春から聞いた女神がどこか恐ろしげだったから、だろうか。


「……わたし、女神じゃ、ない」

「……あの御方も、そう言っておられたな」


 ふっと、自嘲気味に男が笑う。どこか寂しそうな、辛そうな声だった。まるで、期待を裏切られたような失望感があって。


「好きに思えばし。……愚生はウアティ。沖島ひーるとうにいる」


 言いながら、男――ウアティが衣の袖を翻す。


「此度の番人もりべよ。烏有うゆうの女神を、精々守るがいい」


 まるで突き放すような、祈るような声を最後に、気配がぐっと一気に遠ざかる。思わず顔を上げれば、既に眼前には何もなかった。森は変わらずそよぎ、春は遠い。

 そのまま目線を上げれば、鬱蒼と繁る枝葉の切れ間に、小さな沖島が見えた。

 春との旅の間も、時折雲の端に現れては風に流れるように漂っていた、かつての楽園の名残。崖の切れ端のような絶壁を有し、今は侵入者を排除する呪いだけが残された廃墟の島。

 だがそれもまた眺める間に雲の端にかかり、すぐに見えなくなった。


(本当に、住んでたんだ)


 沖島には神様や魔王が住むとは本で読んだことがあるが、実際には今の技術では行き来ができないとも書いてあり、世界の中心とされる未晦みかいの地同様、未解明なことばかりとあったが。


「――は……っ」

「!」


 すぐ背後で大きく息を吸う音が聞こえ、薄雪は慌てて振り返った。榮が片膝をついている。余程ウアティの強制力が体力を消耗させたのだろう。

 思えば先程の戦闘でもあちこち負傷していたようだし、移動するだけでも辛いのかもしれない。

 こんな時、楸だったらどうしていたかと考えて、薄雪は自分の荷物のことを思い出した。兵士に踏み荒らされたせいで、新品のはずの鞄はずたぼろで所々穴も開いているが、中身は辛うじて無事だ。

 中から不死蠑アンピビアの膏薬を取り出し、榮を見ないようにして差し出す。


「あ、あの、これ……」

「……まず、自分に塗れ」

「え?」


 言われて初めて、薄雪は自分の掌に穴が開いたままだったことを思い出した。楸が何かしらをしてくれたようで、出血は止まり、痛みも和らいでいたが、思えば応急処置も何もしていない。


「あ……」


 薄雪は、赤黒い血が乾いて小さく向こう側が見える左手を直視して、思い出したように気絶した。


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