第二十三話 君を思えども見えず

「くそっ」


 神魔デュビィの仕掛けた茶番に乗せられ、三十人近い兵士が一斉に襲いかかってくる。

 そこからは泥仕合の乱戦だった。

 楸はすかさず土の壁を練り上げて呑み込み、十人近くを捻り潰す。だが郷都の時と違い、今の兵士たちは理性という歯止めがない。その半数以上が、死活骸カファラのように土を掻き分け這い出てきた。

 術士も数人いるから厄介だ。近付く者を片端から飾り紐と風気で死なない程度に昏倒させる横で、男も薄雪を肩に担いだまま鎖を振り回す。

 楸にとってこの状況は厄介ではあるが、男を警戒する必要がない分消化試合とも言えた。全て薙ぎ倒せば話は終わりだ。

 その驕りが、神魔の一瞬の接近を許してしまった。


「っ」


 後ろ回し蹴りでいなした兵士の影に紛れていた神魔が、姿勢を立て直す前の楸の手首に牙を剥く。そこから覗いた真っ赤な長い舌に、悪寒が走った。

 無理やり首と腰を捻り、反対の手で水気を呼ぶとともにその鼻面に氷の刃を打ち込む。


「ギャッ」


 神魔が鼻を押さえて身悶えた。そこに更に氷の雨を降らせるが、転がって逃げられる。が、その先にはあの男がいる。


「逃がすな!」

「……」


 楸の発破に、男が無言で鎖を振り上げる。

 その時、


甘藍かんらん!」


 神魔が誰かの名を叫んだ。途端、一人の兵士が尋常でない動きで二人の間に割り込んできた。まるで自ら受けに行ったように鎖にぶつかる。

 理解不能の行動に楸たちが俄かに警戒を強める。その一瞬の隙を狙って、神魔がまさしく獣さながら四つ足で駆けて男の首に噛みついた。


「くっ!」


 鎖を邪魔する兵士諸共、神魔を蹴り飛ばす。男の首筋には確かに血が浮いていたが、浅い。致命傷ではない。

 だがだからこそ、最悪の予想が過った。


「まさか……」


 ぺろり、と嘲笑うような舌なめずりが肯定のように鳴る。鼻面を血で染め、あばらの骨を折られながら、神魔がにぃと嗤った。


「みぃちゃったぁー」


 途端、男が焦ったように薄雪を楸へと放り投げた。


「!」

「えっ?」


 全く状況が呑み込めない薄雪をすかさず受け止める。それを横目で一瞥しながら、神魔は悦しげに続けた。


全椒花ぜんしょうか村主すぐり梧桐あおぎりの子、交名あざなさかえ


 滔々と読み上げられるそれは、男の姓であり名であった。

 姓は生まれた者と土地とを結び付け、名は肉体と魂とを結びつける。そして名は、呼ばれた分だけ魂との結び付きを強める。

 だが、強くなりすぎた名には力が宿る。そのため父母以外に名を明かすのは、結婚を誓った二人が結納を交わす「忌名いみなげ」の時だけであり、普段には交名を用いて真実の名を隠すのだが。


「忌名は、桐醒きりさめ、かぁ」


 くひひ、と神魔が軽やかに明かす。

 その瞬間、男――榮の動きが明らかに強張った。


(やはり、忌名を知るためか……!)


 神魔は血から名を識る。

 手駒へいしがいるというのに神魔自ら飛びかかってきたのは、楸や榮の血を舐めるためだったのだ。そして先程榮の鎖に突っ込んだ兵士も、大方忌名により操られていたのだろう。


(まずいな)


 兵士は大方戦闘不能に追い込んだが、榮が再び敵に回るのであれば戦況は悪化したとしか言えない。しかも今は薄雪が手元にある。捨て置くこともできない。


「薄雪、目は開くか?」

「ひ、楸、さん? どうなって……」


 腕の中で身じろぐ薄雪が、困惑しながらも目を覆う鮮血を拭って薄眼を開ける。

 その前に、


「さぁ、桐醒。殺そうか」


 神魔がズタボロの体を引きずりながら、指揮司のように桐醒を促した。

 榮の淡紫色の瞳が、静かに自我を手放していくのが嫌でも分かる。その無骨な両手が鎖を左右に引くと、ボボッと火が走り鎖を赤く染めた。先端が蛇のようにくねり、火の粉を飛ばす。


(来るか)


 常に楸の思考と行動の一瞬先を行っていた榮の動きが、僅かに鈍い。その一瞬の間に、楸は様々に思考を巡らせた。

 土を隆起させて足止めすることは無意味だと、既に証明されている。それを凍らせても、得手が火なら間合いから離れる時間くらいしか稼げまい。

 神魔を一瞥すれば、血だらけの鼻面と折れたあばらもそのままに、にやにやと笑って動く気配すらない。明らかにこの状況を愉しんでいた。


(八方塞がりだな)


 薄雪は今花と目の力で気力を消耗しきり、負傷も酷い。これ以上その目を酷使させても、意識が持たないだろう。樹上にいる春も、木に触れて少しは回復するかとも思うが、期待薄だ。

 そして肝心の楸は、片足を負傷している。通力にはまだ余裕があるが、二人を抱えて榮から逃げるのは難事だ。今からカヌヌを呼んでも間に合わない。

 だが、やるしかない。と意を決した時、


「薄雪、を……」

「ッ!?」


 掠れた小声と春特有の重く湿った風が、ごうっと吹き荒れた。

 周囲の木々が一斉に同じ向きに揺れ、緑の葉が千切れ飛び、枝は折れ、傷だらけの兵士をも吹き飛ばす。

 極限まで圧縮された春の嵐が、その場にいる何もかもを蹂躙していた。

 薄雪を抱えていなければ、左足に踏ん張りがきかない今の楸もまとめて吹き飛ばされていたかもしれない。


「ぐっ……やめろ春!」


 霊力の殆どを奪われて動けなかったはずなのに、樹木に触れていただけで僅かにでも回復したのだろうか。見上げた枝の上では、落ちないように必死にしがみついている春の荒れ狂う緑金髪と褙子はおりしか見えない。

 だが、嵐を制御できていないのは瞭然だった。今も折れた枝や小石が礫となって楸たちに襲い掛かり、ろくに目も開けていられない。

 これでは辛うじて残っていた霊力もすぐ底をつく。そうなれば、春は終わりだ。


「落ち着け、春! 薄雪は無事だ! だから、」


 嵐を止めろと続けようとした時、ぶぉんっとふっ飛んできた枝が楸の頬を掠めた。


「ッ」


 瞬間的に春への殺意が湧く、その向こうで、


「ぐぁふ……!?」


 グサッと何かが刺さる鈍い音が上がった。くぐもった苦鳴が続く。

 振り返れば、立ち上がれないままでいた神魔の背に、剣山のように裂けた、腕よりも太い枝が深々と突き刺さっていた。凝視する間にも神魔の昏い目から力が抜け、尖っていた耳がゆっくりとへたる。

 それと同時に、鎖を構えていた榮もまた力尽きるように膝から頽れた。

 それを待っていたように、嵐が嘘のように止み、春の体がぐらりと均衡を失う。


「ッあぁくそ!」


 楸は薄雪をできる限り迅速かつ丁寧に放り捨てると、足と手に風気を呼び寄せて枝から落花した春をどうにか受け止める。が、左肩に激痛が走り、支えきれずにべしゃっと押し潰された。

 もうどこもかしこも痛くて力が入らない。


「……おい」


 とりあえず、辛うじて腕の中にいる春に呼びかける。


「ん……」


 ぺしぺしと頬を叩けば、反応もあるし温もりもある。楸はただちに春を下草の上にぽいっと放り出すという応急処置を施した。

 草木や地面など、精霊が生まれる可能性のある自然物にさえ触れていれば、霊力は自然と補完される。理に適った正しい判断だ。

 だが悠長にしている時間はない。榮が意識を取り戻し、どのような行動を取るかは未知数だ。

 神魔が倒れたことで、残った兵士たちも夢から覚めたように呆けたり、気を失ったりしている。春と薄雪を連れて行くならば、今しかない。

 楸は疲労困憊の体をどうにか持ち上げて、再び薄雪の下へと戻った。


「薄雪、歩けるか」

「え? ぁの、……はい」


 楸に捨てられた時にでも打ったのか、薄雪が小さな鼻を擦りながら答える。あちこち傷だらけなのは変わらないが、ひとまず体を起こせたし、良しとする。


「今の内に逃げるぞ」

「で、でも、春が……」

「勿論あいつも連れてく」


 引きずりながらな、とは、心の中だけで補足する。

 左手で薄雪の腕を取って起こし、次に春を捨てた――もとい安置した場所へと向かう。


「おっと、その前に」


 大事な用を忘れていた。薄雪を春の下で待たせながら、楸は先程まで薄雪が花を毟られていた辺りへまで戻る。それから、地面に両手をついて花の気配を探った。

 華族は自分の花しか操ることができないが、枯らすことなら大抵はできる。だが対象が不凋花アマラントスともなれば、同じ要領で枯らして万が一残っていた場合に厄介だ。

 楸は大変面倒ながら、兵士が毟り取った花を一々探しては掘り返し、火気で燃やすという手段を取ることにした。


「それがこの娘に固執する理由か」


 最後の一つを灰にしたところで聞きたくない声が聞こえ、楸はげんなりした。


「早ぇんだよ」


 振り返れば、音もなく復活していた榮が今度は薄雪を拘束してそこに立っていた。

 固執してるのはお前だろと思いながら、随分満身創痍になった男に向き直る。


「さっきから、何が目的なんだよ」

「この娘を渡せ。そうすれば、春は見逃す」

「……てめぇも不凋花が目当てか」

「そんなものに用はない」

「なら」

「いけません……っ」


 榮よりも満身創痍で消えかけていた春が、使わなくていい力を振り絞って身を起こした。少し元気になっていた花がまたひらひらと落ちる。


「薄雪を助けてくれたことには、感謝しています」

「春、動いちゃ……」

「けれど薄雪を、兇手などに渡すわけにはいきません」


 体を震わせながらも、春は薄雪を取り返そうと立ち上がる。だがそれを、榮は春にはあまりにも痛恨の一言で押し返した。


「春ならば良いのか」

「……!」


 春が一転、泣きそうな顔で押し黙る。

 それを聞いていた薄雪もまた、言葉が出ずに項垂れた。


「……それでも」


 ざわり、と木々が再び不穏に揺れ出す。


「あなたに薄雪を預けるなど」

「わ、わたしはっ」


 薄雪は、精一杯の虚勢で叫んだ。

 誰も見ないように気を付けながら、どうにか笑う。


「平気、だから」

「平気などであるものですか!」


 春に初めて向けられた怒声に、薄雪は思わず春を見返してしまった。慌てて逸らしたが、その一瞬に見えた春の、憎しみさえ籠ったような苦しげな顔は、とても無視できるものではなかった。

 だって、あれは。


(おかあ、さん……)


 かつて見た母のそれと、とてもよく似ていたから。


「これ以上、自分を犠牲にしてはいけません」


 視界の隅で、春の金と緑の混ざった長く美しい髪がふるふると揺れる。


「あなたは、まだ守られるべき子供です。子供は、誰もが幸せにならなければいけないのです」

「……っ」


 それは、春が出会ってからずっと言い続けている、一つの信念にも似た言葉だった。

 春は誰ともともに過ごすことができない。歩みを止めることができない。寒さと飢えと孤独で啜り泣く子供がいても、手を差し伸べることも、導くことも、抱きしめることすら儘ならない。

 ただ遠くから見つめ、彼らにも春の温もりが届くことを祈るしかできない。

 春は、歩き続けることでしか、見捨て続けることでしか、彼らを守ることができないから。

 そしてそれは、何人なんぴとの例外もあってはならない。


「でも」


 薄雪はまた涙が零れそうになって、必死に堪えた。

 ぷつり、ぷつりと花が咲く。半花が厭われる理由が分かった気がした。

 平気なふりをしないといけないのに、嘲笑うように花が暴く。


「わたしが一緒にいるせいで、春が苦しむ」

「違います!」


 春の否定に、薄雪は榮の腕の中で力なく首を横に振った。

 春が庇ってくれることに甘えて、本当はずっと目を逸らしていたかった。けれどそれでは、今までと何も変わらない。


(……あぁ、そうか)


 母はずっと、薄雪を恐れて閉じ込めていたと思っていた。それが実際にどんな思惑や事情であったかは、最早確かめようもない。だがこの半花と目の力が齎す嫌な事全てを、薄雪が今まで知らないでこられたことだけは事実だ。

 けれど今、薄雪は外に出て、知らない世界に揉まれ、悪意に遭い、善意に触れた。

 薄雪は何を選んでも良いのだと、春こそが教えてくれた。

 だから薄雪は、善いと思えるものを選びたい。


「知らないままで誰かを傷付け続けるのは、もう、嫌なの」


 薄雪は、やっと少しだけ、心から笑うことができた。


「春は、わたしと一緒にいる必要、ないの、ちゃんと分かってる。だから」

「違いますっ」


 春が、地面を這いながら薄雪に手を伸ばす。榮は、逃げようとはしなかった。だから薄雪は、精一杯両手を伸ばした。


「君を引き留めていたのは僕です。君が居場所を欲しがっているのを分かっていながら、僕が君の居場所を、奪って……!」


 まるで懺悔のようだと、薄雪は思った。

 春は、何も悪くないのに。


(顔が、見たいなぁ)


 今まで一番、春の顔をまっすぐに見たいと思った。

 自分の安心のためではなく、春を安心させるために。春の目を見て、大丈夫だと言いたかった。

 それが出来ないこの目が、本当に嫌だなと思ったけれど。


「わたし、春の膝で寝るの、好きだった」


 どうにか視界に入った泥だらけの指先を、一生懸命に掬い上げる。宝物のように両手で抱きとめて、この温もりを忘れないようにと、自分の頬にそっと押し付ける。


「本当に、好きだったの」


 笑う。目を細めたせいで、堪えていた涙が目尻から零れてしまったけれど。

 春はきっと、薄雪の顔を見ているだろうから。

 笑っていいと言ってくれた春に覚えていてほしいのは、泣き顔じゃないから。


「……っ、薄雪……!」


 ぎゅぅっと、半ば押し倒されるように春に抱きしめられた。榮の手は、最早捕らえているというよりも支えてくれているようだった。


(暖かい)


 春の細い首筋に、そっと鼻先を埋める。

 目を閉じていても感じられる、春の温かさが好きだった。木漏れ日の日差しのような、くすぐったい春の髪が好きだった。遠慮がちに握っても決して外れることのない、春の大きな手が好きだった。

 あの家の小さなへやで何度も見てきた春とは違う、もどかしいような嬉しいような、自然と両手を広げたくなる春が、薄雪はすっかり好きになっていた。

 だから、言わなければならない。


「今まで、ありがとう。……さようなら、ね」

「っ」


 ぐっと、薄雪を抱きしめる春の両腕に力が籠る。けれど、それだけだった。

 春はそっと手を放すと、よろつきながらも立ち上がった。


「薄雪は……子供は、みんな幸せになるべきなのです」


 それは独り言のようだったけれど、何故か榮はしかと答えた。


「殺しはしない」


 それは、春の期待した答えではなかったろう。けれどどこまでも真っ直ぐな声だった。

 春が曖昧に笑う。


「できれば、幸せにしてあげてください。僕では、傍にいても、泣かせてしまうから」


 これには、答えはなかった。

 薄雪だけが、顔を手で覆ったまま小さく首を振っている。


 結局、楸には榮の目的が読み切れなかった。

 神魔の依頼さえも受ける無節操な腕利きの兇手が、走るのも鈍臭い少女こどもを旅の道連れにするなど、何の利があるのか一切思い付かない。殺しはしないと誓うくらいならば、適当なところで売り払うとも思えない。

 利があるのは、逆に楸の方だ。春は独りに戻り、四季の巡りは正常化される。お陰で楸は珊底州を出さえすれば具眼者の館エ・ウ・ニルに帰れそうだ。


(万々歳、なわけあるか)


 仙としては、春と薄雪が離れることは歓迎できる。だが薄雪が特定の誰かの手元にいることは、憂慮すべき事態だ。

 不凋花が目的ではないとしても、目の力のこともある。

 だが今のこの状態では、楸が薄雪を奪い返すことはまず難しい。真似梟ククヴァイアの伝言を使っても、仙の応援は恐らく間に合わない。


『抹殺しろ』


 絶えず聞こえていた声が、また薄雪の存在をぼやかす。

 だが事ここに至れば、楸の中でその命令への答えは疾うに出ていた。


(殺せるかよ)


 棲雲山に帰ってから、様々に叱責され追窮されるだろう。考えるだけで今から面倒臭いが、全ては後回しだ。

 そう決めて、楸は最後の悪足掻きと承知の上で釘を刺した。


「薄雪をどうするつもりかは知らんが、覚えておけよ。具眼者は常に見ている。薄雪の力で誰かの命を奪ったり、世の理法ことわりを乱すようなら、仙が動くぞ」

「っ」


 この警告に反応したのはしかし、案の定、薄雪だけだった。

 明らかに顔を蒼くし、楸と榮の足元で視線をうろうろと彷徨わせる。

 本当は、困ったり逃げたくなったら棲雲山に来いと直截に言えたら良かったが、てきの前で最後の逃げ場を明かすのは愚策だ。

 不幸中の幸いというか、殺しはしないというのなら、考える時間はあるはずだ。薄雪がいつか、この時の言葉を思い出せればいい。


「行くぞ」


 楸は、気力だけで立ったもののもう動けそうにない春を右肩に担ぎ、とっとと歩き出す。榮もまた、棒のように固まったままの薄雪を促して踵を返す。

 厄介な荷物を捨てることができた上、やっと任務を果たす目処も立ったというのに、想像した晴れがましさは微塵もなかった。

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