第二十二話 人々迷いて悟らず

 首筋に当てられた飾り紐に本能で怯える薄雪の耳に、楸は低い声で恫喝するように命じた。


「視ろ」

「っ」


 薄雪の体が、意味を理解したように強張る。だがその黒瞳は、男の手が春に届く前にしっかりと男を捉えていた。小刻みに震えながら。


「ぃ……ぁ……」


 薄雪は他者からの強い命令を拒絶できない。それは、今までの言動の端々から明らかだった。

 命の恐怖よりも母に拒絶されたくないという積念せきねんが、薄雪にそれ以上の思考を停止させるのだろう。その思考停止に、楸は付け込んだ。


「……どうしても、小娘を人殺しにしたいようだな」


 男が、脂汗を浮かべながらも春へと向かうのを止めぬまま、楸を睨む。その淡紫色の双眸には、今までにない感情が幽かながら明らかに現れていた。

 楸は自分の選択が間違いでないことを知る。そして同時に、楸の感情を益々逆立てた。


(どいつもこいつも……仙は正義の使者じゃねぇっつったろ)


 まるでどちらが悪役か分からないなと自嘲しながら、楸は吐き捨てる。


「小娘一人の幸不幸よりも、春絶期を招く方が仙には痛恨事なんだよ」

「……」


 その刹那、男の覇気のない目が仄昏い色を宿すのを、楸は確かに見た。


「楸、いけません……!」

「お前はとっとと逃げろ!」


 この期に及んでなお薄雪を守ろうとする春に、楸はついに我慢ならず声を荒らげた。下げ角髪の木香薔薇は枯れ始め、意識すら朦朧とし始めているくせに、袖を振り合わせただけの他人など構っている場合ではない。


「……逃げても、必ず殺しに行く」


 男が、いよいよ足を止めながら凄む。やはり効いている。


「その前にお前の息の根が止まる」


 楸は飾り紐を薄雪から男に据え直した。男を確実に仕留められる瞬間を狙う。

 だがその機が来る前に、不穏な音が聞こえてきた。


「はぁ……はぁ……は……ッ」


 薄雪だ。呼吸が、浅く早くなっている。


(使い過ぎた反動か)


 目の力を使う時はいつも喘いでいたから気付かなかったが、やはり術の一つも使えない子供には荷が勝ちすぎる能力らしい。


(或いは、無意識の自制心のせいか)


 今まで、殺す気で誰かを視たことなどないのだろう。その先にある恐怖と罪悪が瞭然として、本能的に自分自身への制御をかけている可能性はある。

 加えて先程まで泣きじゃくっていたせいで、花も咲いている。養分を奪われ、二重に生気を奪われるのだ。


「薄雪……っ、目を逸らして……息をしてください……!」


 男の力が弱まったからか、春が芋虫のように身をくねって緩んだ鎖から這い出す。その無防備な背に、男が優秀なゆえにほんの刹那意識を向ける。

 その一瞬を、楸は逃さなかった。


「はっ……はっ……」

「目を離すな」


 呼吸すら儘ならなくなってきた薄雪の耳元に囁いてすぐ、風気を纏って駆け出す。


「!」


 男が即座に反応する。が遅い。

 楸が薄雪の視界に入るぎりぎり手前、通力で長大化した飾り紐が男の頸動脈を捉える。

 今度こそ入った、と確信した時。


 ザザッザザザッ!


「「「!?」」」


 矢の雨が、頭上の青葉を貫いて全員に降り注いだ。

 楸と眼前の男は無数の風切り音に本能的に顔を庇う。それでも、あまりの密度に楸は左脹脛を、男も右脇腹を矢に削り取られた。

 だが、そんなことはどうでもいい。


「「薄雪!」」


 着地で均衡を崩した楸の体は確実に薄雪の視界に入ったはずなのに、風気が霧散していない。それはつまり、薄雪が視線を外した――見ていられなくなったということ。

 楸は肉薄した敵に止めを刺す絶好の機会を捨てて踵を返していた。

 這いずっていた春を一足飛びに追い越し、蹲っている薄雪を背中から抱き込みつつ抱き上げる。


「馬鹿野郎! 何ぐずぐずして……ッ」

「っぅぁ……!」


 だが薄雪の押し殺した苦鳴に動きを止める。地面についていた薄雪の左手が、貫通した矢によって地面に縫い付けられていた。

 楸の命を忠実に守り、朦朧とする意識と体を支えるためについていた手に。


「うす、ゆき……!」


 春の掠れた声がすぐ近くで聞こえて、楸はハッと傍らを視た。

 春が、服も髪も泥だらけにして薄雪の足元に這いずってきていた。朝露に濡れたせいだけでなく重い広袖を持ち上げ、爪の中まで泥の詰まった小さな手の甲から屹立する矢柄をそっと握り締める。

 途端、矢竹がみるみる枯れ細った。そのせいで生まれた隙間から赤黒い血が流れだし、その下の地面をじわりと染める。このまま矢を抜いたら、今の薄雪では失血死する可能性もあるが。


「自分で押さえてろ」

「ぃっ」


 楸は矢を節から手折ると、迷わず引き抜いた。どのみち矢ではもう傷口は塞げていなかった。その傷口と、ついでに自分の左足の矢傷にも水気を通して、気休めの止血を図る。

 その間に土気色の顔で左手をうわぎの裾でくるむ薄雪を、無事な右肩に担ぐ。次は春だ。

 左手を伸ばす――そこに再び無数の矢がヒュオーと風音を立てて殺到した。


「ッそ!」


 春へ向けていた手を矢へと向き直しつつ、広域に風気を広げて巨大な盾を展開する。ほとんどの矢は逆巻く風に流され周囲に逸れたが、数本が楸のすぐ傍らに着弾する。

 その矢羽根を見て、楸は最悪の事態になったことを確信した。


(犬鷲の尾羽……やはり軍か)


 桐楽とうらく郷の連中が懲りずに仲間を引き連れてきた可能性もあったが、良質な矢にここまで統率の取れた矢筋。寄せ集めの素人ではない。

 春から手を引いたかと思ったが、どうやら諦めてはいなかったようだ。

 或いは。


彼奴あいつは)


 同じく負傷したはずの兇手を探すが、姿がない。どさくさで攻撃されては避け切れないが、考えている余地はなかった。


「いたぞ、春だ!」

「春を殺せ!」


 無数の怒号と足音と甲衣ぼうぐが擦れる音が、厚い木々の向こうから加速度的に近付いてくる。軍隊の動きにしては荒すぎるが。


「人間もいるぞ!」

「春を独占する人間は悪だ! 殺せ!」


 果たして枝葉を散らして現れた兵士たちの顔を見て、憶測は確信に変わった。


「やはり神魔デュビィに唆されたか」


 春と薄雪を見る兵士たちの目は、異様なほどに血走っていた。装備から見て、州境から州都に戻る軍の一部だろうか。


(くそ、また飛んで逃げるか)


 左脹脛を抉られたのは痛恨だが、今はそれしかない。

 手に刀や槍を構えて突進してくる兵士たちとの間合いを図りながら、風の盾を解除して足元に力を注ぐ。

 その一瞬の切れ間に、



「待ってました」



「なッ!?」


 何者かに右腕を斬りつけられた。誰何する間もなく肩に乗せていた薄雪がずるりと落ちる。

 そこに兵士が群がった。


「薄雪ッ」


 楸と春の意識が奪われる。そこを今度は、残りの兵士が反対側の春に一斉に飛びかかる。


「――くそ!」


 楸は刹那よりも短い時間で春を守ることを――薄雪を見捨てることを選択した。

 右足に全体重をかけて群がる兵士を風気で蹴散らし、現れた春を拾って大きく樹上へと跳躍する。その腕の中で、ぼろ雑巾のようにぐったりした春がそれでも叫んだ。


「楸、僕に構わず、薄雪を……っ」

「馬鹿も大概にしろ!」


 春が万全であればこんな連中、春の嵐か、一斉に成長促進した春の木々により簡単に一掃できただろう。だが今はほとんどの霊力を奪われ、植物に力を与えるどころか、自力で逃げることすら儘ならない。

 そうでなければ、楸も口で何と言おうと無力な小娘を独り見捨てるような胸糞悪いことはしない。

 だが金で雇われた兇手と違い、神魔に唆された人間に説得は無意味だ。


「仙だ!」

「仙が春を奪った!」

「俺たちの春を!」


 術を使えない兵士たちが、足元で口々に勝手なことを叫ぶ。

 それを見たのがいけなかった。


「薄雪が……!」


 楸に腹を捕まれたまま、春が力なく足下へと手を伸ばす。そこでは、四、五人の兵士に手足を押さえつけられた薄雪が、血塗れでぐったりしていた。


(まさか……!)


 最悪の創造に息を呑む楸の耳に、彼らの異常に興奮した声が届く。


「これが不凋花アマラントス……!」

「これで春絶期が来ても俺たちは……!」


 そう言いながら手に手に握り締めているのは、赤紫とも青紫ともつかない色をした、雪の結晶のように鋭角な花弁の花。

 血の理由が知れても、安堵を感じる余裕もなかった。


(そういうことか!)


 奴らが何故躊躇いなく春を殺そうという思考に至ったのか疑問だったが、氷解した。薄雪の不凋花があれば、長い春絶期が来ても自分たちだけは厄災から逃れられるとでも考えたらしい。

 ひとまず、道理は通る。現実にどうかは知らないが。

 だが。


(神魔が、そんなことまで吹き込むか?)


 神魔が付け込むのはその悪心だけだ。その先の保身には、逆に目を向けさせないようにして両者が破滅するように仕向ける傾向が多い。

 不凋花の存在を報せることで、春絶期への最後の忌避感を失くさせたとも考えられるが。


(何故薄雪のことまで知っている?)


 しかしその疑問が解ける前に、気力だけを先に取り戻した春が暴れ出した。


「放してください、薄雪が……っ」

「花を毟られてるだけだ」

「あの出血を見て何故そんなことが言えるのです!」

「事実だ!」

「っ」


 抑えられぬ怒りのまま吠え返す楸に、春が悲壮に押し黙る。唇を噛んだのは一瞬、春は今度は底の知れた力でじたばたと楸の拘束を振りほどき始めた。


(……殺すか)


 楸は、微風そよかぜにも劣る春の抵抗を無視して、足元の兵士たちを静かに睥睨する。三十人近いだろうか。うち数人は既に二人のいる木の枝に手をかけ、登り始めている。

 なるべく人死には出さずに済ませたかったが、こうなれば殲滅も止む無しだろう。その後に両州の戦乱が悪化しようが、知ったことか。

 手近な蔓を毟って春を枝に括り付けようと考えた時、


「さぁ」


 薄雪に群がる兵士の中にいた頭巾の男が、呼びかけるように呟いた。


「裁きの時間だ」


 その笑みすら滲むような声音に、楸の背筋がぞくりと粟立った。

 それまで不気味な熱を帯びて薄雪を取り囲んでいた兵士たちが、握りしめた不凋花を懐に仕舞い、血塗れで横たわる薄雪を見下す。

 冷たく、虚ろに。


(まずい)


 刹那、楸は春を捨てて枝を蹴ろうと力を込める。

 その横を、影が疾風のように駆け抜けた。


「な!?」

「ギャッ」

「誰だ!?」


 突如背後から一気に二人を倒された兵士たちが、慌てて周囲を警戒する。その時には既に反対側へと回り、更に二人を纏めて地面に沈める。

 その背に斬りかかった反応の良かった兵士もまた、男が振り返る前に火達磨に変えていた。


「ぅわぁぁああっ!?」


 叫びながら走り回る兵士に、他の兵士たちも流石に恐れ戦いて後ずさる。だというのに、例の頭巾の兵士だけは恬然と薄雪の傍らから動かない。

 彼我の間に一瞬の緊張が走る。が、男が薄雪に手を伸ばしたことでそれは膠着に変わった。

 それに男は一切の反応を示さず、薄雪を存外丁寧に横抱きに掬い上げる。


「……ぅ……」


 薄雪の掠れた声が微かに届く。

 折れそうなほど細い矮躯は土と自分の血に塗れ、あちこちに青痣と裂傷が走り、目を背けたくなるほどに痛々しかった。顔中に鮮血が張り付き、ろくに目も開けられないようだ。

 全く抵抗しないのは、兵士に花とともに骨の一本でも折られたか。


「おかしいなぁ」


 頭巾の兵士が、耳障りになよなよとした声で呟いた。


「何故助けるんだ?」


 それが男への問いだと、楸はすぐには気付けなかった。ただその声に、既視感を覚える。


(この声、確か……)


 聞き覚えがある。と楸が記憶を手繰る横で、男が吐き捨てた。


「……貴様が、依頼主の神魔か」

「神魔だと?」


 成程、道理で見ているだけで胸糞悪くなるわけだ。

 しかしここは花守の森に程近い。ネオン神族の命と本能のままに動く神魔が、理由もなくパリョ神族の気配色濃い花守の森に近付くなど異常だ。

 だがそれよりも、楸は先程の疑問に答えを得た思いだった。


『待ってました』


 楸の腕に斬りつけたあの声は、この神魔のものだったのだ。そしてその言葉の意味は、兇手に追い詰められ、兵士が踏み込んだ混乱の中で楸に圧倒的な隙が生まれる瞬間を『待って』いたということ。


(しかも神魔が人間に殺しを依頼しただと?)


 ただの神魔ならば、人を騙し殺し合わせるその過程こそを極上の美酒佳肴と動く。邪魔と見れば同じ神魔同士でも利用し陥れるというのに。


「報酬は十分払ったはずだけどなぁ」


 頭巾の兵士――神魔が、尖った爪を薄雪に据えて、言う。


「それ、頂戴?」


 その言葉に、聞き耳を立てていた楸の方が、ぞわりと悪寒を感じてしまった。その感覚にもまた覚えがある。

 因陀州は博栢はくはく郷から春を連れ出す時、郷司殺害の濡れ衣をかけられる羽目になった時に感じた視線。


(まさか、そんな前から?)


 あり得ない、と理性が真っ先に否定する。

 薄雪は春に会いに来るまで、自宅で幽閉されていたようなものだ。母の言いつけを守り、感情を揺らさず、花を咲かせることも、その目で命を奪うこともなかったはずだ。

 たとえ神魔に目を付けられたことがあっても、あの目とは相性が悪い。唆す相手も持たない薄雪など、神魔は寄り付かないように思えるが。


(目的は何だ?)


 身柄か、命か、花か、目か。

 判断材料がなくて推測もできない。

 だがこの際、目的も、どこで薄雪の存在を知ったかもどうでもいい。


「……依頼は春の抹殺だけだ」

「あぁ、同行者は含まないってこと? 普通、殺すなら春じゃなく欲深な人間の方だろうに」


 男の回答に、神魔が饒舌に返す。くひひ、と笑いを噛み殺した声は、明らかに馬鹿にしていた。

 だが、これで立ち位置は決まった。


「薄雪……」


 枝に掴まるだけで必死そうな春に「絶対に動くなよ」と念押しして、楸は男の左後方に着地した。


「一時休戦だ」


 男の背に囁く。当然、是と返るつもりで神魔との間合いを図っていた楸は、次の言葉に目を剥いた。


おれはここに留まる理由はない」

「はあ!?」


 思わず神魔から男へと睨み変える。

 薄雪を助けたくらいだから、兵士を唆しただろうこの神魔も当然追い返すつもりと判じたのに。


「だったら薄雪そいつを返せ!」


 思わず男に掴みかかる――その視界の端で、神魔の鋭い爪が楸の焦眉に迫っていた。


「ッ」


 飾り紐を盾にしてぎりぎりで受ける。反動で神魔の頭巾が捲れ、頭部が露わになった。


「犬か」


 それは人の姿と犬の顔が半々に混ざった、獣族の死花屍マヴェットだった。ピンと立った三角耳や長い鼻面、硬そうな髭からは、愛嬌ではなく腐臭がする。


「……いやだな。それがし跳黒狗スキロスです、よ!」

「ッ」


 笑うように牙を剥いた神魔が一足飛びで楸に迫る。その右髭を、炎を纏った鎖が強烈に殴り飛ばした。

 神魔の体が二度三度と地面を跳ねる。

 それを見送りながら、楸は理解した。


「てめぇ、俺を撒き餌にしたな!」

「……」


 細かな火の粉をまき散らしながら鎖を引き戻した男を、半眼で睨む。否定はない。その澄ました沈黙が妙に癇に障る。


「この……!」

「ハッ……ハハハッ!」


 転がされたままの神魔の高らかな笑声に、楸の怒りは邪魔された。


「結局これだよ! 話し合いなんて無意味なんだ! 春を独占したいがために次々に暴力が連鎖する……だからこそ春も春に群がる欲深な連中も殺さなきゃならない! これは崇高な使命なんだ!」

「何を図々しく――」


 まるで正義の先導者のような言い草だ。聞いているだけで不愉快になる。

 楸は苛立ちのまま神魔へ止めを刺そうと風気を呼ぶ。

 その背後で、気配が変わった。


「!」


 男の圧倒的な強さに尻込みしていた兵士だけでなく、春に向かっていたはずの兵士たちまでもが、楸たちを取り囲むように間合いを詰めていた。


「春を独占するなど……」

「間違っている……」

「仙でも許せない……」

「そうだ。俺たちから奪う者は、全員、殺してしまえ」


 神魔のもとは、ネオン神族に利用された未練持つ鬼魄ルアハだ。域外へ行くことを阻むほどの怨みを糧に人々の心に付け込み、誰もが耐え隠している不満や嫉妬に歪な正当性を与え、普段ならば決してしない暴動へと駆り立てる。

 困惑には煽惑を、正気には狂気を、恐怖にはそれ以上の恐怖を見せつけて。

 隠されていた心の声に、苦悩の風を起こし、緩火ぬるびを劫火に変える。

 扇動者。

 それこそが神魔の本質であり、本懐。


(これが狙いか!)


 どうも無防備に突進してきたと思ったら、兵士なかまが説得も受け付けてもらえず嬲り殺される姿を他の連中に見せつけたかったようだ。

 そしてそれは、十分に効果を発揮したと言わざるを得まい。


「「「……殺せ」」」


 兵士たちが、ゾッとするほど昏い目をして異口同音に呟いた。


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