第四章 菜虫蝶と化す

第二十一話 飄風は発発たり

「結局また森か……」


 放縦に伸びる木々の根を跨ぎ越しながら、楸はぶつくさと文句を放った。

 一夜明けて、一行は再び花守の森の際を進む道中を再開していた。折角珊底州に追われる可能性が低くなったというのに、春が神魔デュビィに狙われているとなれば楸は帰るに帰れない。

 神魔の目的が何であれ、春が里を通るたびに人々を唆されては、四季の巡りが元に戻ったとしても再び治安が悪化してしまう。しかも悪質な神魔は具眼者(の使いっ走りにされる仙)の管轄だ。

 内心では、春と神魔では担当が違うんだし帰ってもいいんじゃないか、とは思った。だがどうせついでだからと追い返されるのは目に見えている。報告して仕事が増えるなど論外である。


(黙っとくか)


 楸は独り英断を下した。

 神魔は悪知恵の塊だが、感情を向ける対象が近くにいなければ唆すのも難しい。そして神魔は人のいない所には出没しない。森の中ならば色々な意味で安全という選択をしたのは楸自身だ。

 が、いささかうんざりしているのが本音ではあった。

 東西の大陸は、世界十二大陸の中でも人の居住可能地域で言えば最大のはずなのに、行けども行けども木、木、木。会うのは文明人ではなく野放図なちんまい精霊ばかり。

 それもこれも、神魔の妙な動きと薄雪の能天気な返答のせいだ。すぐに帰れるはずの任務がどんどん引き延ばされて、楸の元々少ないやる気はすっかり底をついていた。


(やってられん)


 しかも前を行く二人は、この鬱蒼とした緑の中だというのにどこまでも和やかに会話を楽しんでいるときている。


「ずっと森の中で、大丈夫?」


 今日も今日とて「色々」で纏められる春の雑な講義を聞きながら、薄雪が心配そうに問い返す。

 最近は薄雪の疑問に答えることも多く、どうして神魔は悪さをするのとか、王花は生まれた時から王花なのとか、ずっと何かしらを聞いていたが、花圃と四季の関係に話題が及んで、ふと気になったのだろう。


「今までいつも同じ道を通っていたのは、それがあまりに人に会わず、災難にも遭わず、無難だったからに過ぎません。違っても平気ですよ」

「季節、遅れちゃわない?」

「季節は毎年多少は前後しますからね。何の問題もありませんよ」


 言いながら、所々花の蕾が膨らみ始めている木々の枝先を指差しては、あれは春告花でとか、冬芽が開いたら鶯や目白が来てなどとまた別の説明を始める。

 鷹鳴枕を通して春を見ていた薄雪の黒瞳が、きらきらと輝きながらあちこち目移りする。その頬は熟れ始めの桃のように血色が良くなり、たまに見える横顔はすっかり子供らしい生気を取り戻して楽しそうだ。

 楸の胸中では、たったひとつの単語がぐるぐると堂々巡りしているというのに。


『抹殺しろ』


(面倒くせぇなぁ)


 春に聞かれたのは失敗だった。

 昨日の質問以来、春が穏やかな微笑の下で常に殺気立っている。楸が薄雪に接近しようとするだけで周囲の木々がざわめく。食事を差し出すだけで春嵐が顔を出す。なんなら立ち止まっただけで地面がぼこりと鳴る。


(めんっっっどくせぇっ)


 こういった板挟みや忖度や配慮が嫌で華族の身分を捨てたというのに、こんな形で面倒の極みと直面する羽目になるとは。

 だが何より厄介なのは、殺そうと思えば殺せることだ。

 自分の花しか操れない操花術や精霊術では上位精霊である春に競り負けるが、楸には四操術がある。戦闘に特化していない春の隙をつくなど容易だ。

 春が本気を出せば辺り一面の森を薙ぎ倒し、里を丸ごと未開の地に変えられるとしても、薄雪を人質に取ればすぐに終わる。

 春を殺せないという制約は面倒だが、半殺し程度ならば何ら問題はない。


(全く、優秀で困るぜ、俺よ)


 はぁぁと、憂いを含んだ溜息を空に零す。

 急ぎ足の強行軍をやめたお陰か、冬の残り香のような肌寒さは随分和らいでいる。時折小糠雨に降られたりもするし湿度も高いが、雪解けの泥濘に足を取られたりするほどではない。

 晴れれば陽気も良く、枝葉の隙間からは青空を横切る白雲や沖島ひーるとうが小さく見える。真似梟ククヴァイアのカヌヌも近くにいるはずだが、昼間はいつも隠れていて姿を見つけられない。呼び笛を使えば来るだろうが、伝えるべき言葉がないのだから、意味はない。


『抹殺しろ』


 思考が堂々巡りをしている。その度に、聖仙リシの声がしつこく脳裏で鳴る。


(分かってる)


 意識と無意識の狭間で、また利き手が飾り紐を弄ぶ。春の空気がぴり、と固くなる。うるせぇな、とまた苛立ちとともに考えた時、


 ヒュン、と何かが彼我の間を切り裂いた。


「!?」


 春がすかさず薄雪を抱きしめて楸から距離を取った。楸もまた反射的に飾り紐を引き抜き、春に向けて臨戦態勢を取る――その背後に細長い影が見えて、楸は瞬間的に飛び出していた。


「っ、楸、あなたという人は――」

「馬鹿動くな!」


 咄嗟に反撃しようとする春を怒鳴りつけ、春のすぐ背後に迫ったものを飾り紐で弾き返す。

 ギィンッという、刀とは明らかに異なる重音の手応えが森に響く。

 が、それだけだ。次撃もなければ、殺気もない。


「て、敵襲、ですか?」


 理解の追い付かない薄雪を抱きしめながら、春も周囲を警戒しつつ問う。どうやら、春も殺気を感じなかったらしい。相当な手練れか。

 楸は二人を背に庇いながら、飛来物の来た方を鋭く睨め付けた。静寂は一時。

 果たして、少し離れた位置で枝葉が揺れて、その下に一人の男が降り立った。


 外見は、人間で言えば二十代後半くらいだろうか。

 背は楸と同じか、僅かに高い筋肉質で、立領たちえりの内衣に翻領はんえりさんを着付け、袖を雑に捲り上げている。下衣は足首を絞った野袴を履き、腰から足首までの長い行縢むかばきを巻く姿には、戦い慣れた者特有の気配がある。

 特に目を惹くのは、親不孝とも罪人ともみなされる短い散ばら髪と、腰に帯代わりに巻かれた鎖。鎖の先は、男の緩く曲げられた右手首に巻き付けられている。


(さっきの攻撃は、あれか)


 先程の手応えから、武器破壊は通用しそうにない。十中八九、魔具の類だろう。

 男は桐の花のような淡紫色の三白眼に順に三人を捉えてから、おもむろに春に視線を戻した。


「悪いな。怨みはない」


 感情のない声でそう断る。刹那、男がゆらりと踏み出した。かと見た次には、瞬きの間に楸に肉薄していた。


「!」


 防御のために風気を集める、その正面に男が無表情で突っ込んでくる。その手元が仄赤く光る。


(火か!)


 風と火では相性が悪い。一瞬で風の壁から風刃へと切り替えると同時に男の脇腹を捉える。その視界の端を、ヒュッと光るものが通過した。


「! しま――」

「っ!?」


 意図を理解した時には、背後で守っていたはずの春の体に鎖が巻き付いていた。楸を嘲笑うように、春の痩躯が頭上を舞う。


「春!」


 寸前で放られたらしい薄雪が咄嗟に春を目で追う。だがその時には、春は驚くほどあっさりと男の手に落ちていた。


「く、ぅ……っ」


 両腕ごと鎖に巻き取られたまま男の足元に放り出された春が、薄雪に応えることもできず苦痛に顔を歪ませる。鎖が食い込んでいるからではない。恐らくあの鎖に霊力を奪われているのだ。


(そう来たか!)


 精霊には、実体を持つ者とそうでない者とがいる。見つめられることで生まれる者はそれが実体となり、願われることで生まれた者には実体の代わりに核のようなものが生まれる。この核がどこにあるかは精霊により異なるが、これを壊さない限り消滅しない。

 精霊を確実に消滅させるにはこのどちらかを破壊するか、精霊の存在を上回る力で消し去るかだが、最も手っ取り早いのは、その霊力を根こそぎ奪うことだ。


(ずっと殺気がないから別の目的があるのかと思ったが)


 偵察や拉致でも、同行者うすゆきの排除でもなく、目的は春の抹殺――その先にある春絶期ということか。


「させるかよ!」


 楸は両手に呼び寄せた水気を無数の水弾にして男に打ち込んだ。それを追うように楸自身も駆け出す。

 最初に使うものには得手が出る。案の定、男は先着した水弾を空手を振って蒸発させた。

 その頭上に、一瞬で出現させた巨大な氷を容赦なく叩き落す。


「!」


 男の視線が初めて逸れる。その隙を逃さず、春を拘束する鎖に手を伸ばした。

 武器破壊ができずとも、奪うくらいは容易だ。


「春!」


 呼びかけた大声に、ピシィッという甲高い亀裂音が重なる。男が氷塊を破壊したのだ。氷片がどしゃどしゃっと降ってくる。

 が、想定内だ。

 鎖に伸ばしたと見せかけた手を地面につき、氷片の影から楸の背後を取った男の鳩尾を反動を使って蹴り飛ばす。


「ッ」


 男の体が吹っ飛ぶ。手応えはあった。今度こそ春の鎖を外そうと左手を伸ばす――その左肩に、トスッと短刀が突き立った。


(ぶっ飛んだ体勢のまま短刀投擲するとか、糞かよッ)


 痛みが痺れとなって指先を鈍らせる。その横腹を容赦なく蹴り飛ばされた。


「がッ」

「ひ、楸さん!?」


 ずざざっと地面を転がる楸の耳に、薄雪のひび割れた悲鳴が届く。

 春が狙いなら薄雪は逃がすべきだ。だが今はその余裕もない。


大仙ムニと聞いたが、この程度か」


 服についた土を払いながら立ち上がった男が、挑発でも落胆でもなくそう呟きながら、春を巻いた鎖の端を拾う。

 それが楸の癇に障った。肩に刺さった短刀を、苛立ちを込めて抜き捨てる。


「薄雪、視ろ」

「……っ」


 春と楸の手元を交互に見るばかりだった薄雪が、びくりと体を揺らす。

 楸は、使える物はなんでも使う。春のような良心も、英雄のような矜持も糞食らえだ。

 だが当の薄雪は、顔がはみ出した鷹鳴枕を鞄ごと抱きしめたまま、固まっていた。蒼白な顔をして、カサカサの唇を噛みしめる。


(駄目か)


 身を守るためだけでなく、敵を仕留めるために視ることも教えておくべきだったと、今更悔やむ。

 舌打ちが出かけた、その前に。


「…………」


 薄雪が、ゆっくりと顔を上げた。


「何だ……?」


 一拍遅れて、男がぴくりと眉を動かす。視線が奥にいる薄雪を捉える。


(まさか、気付いた?)


 薄雪の名を呼んだことに気付かれるのはいい。気になるのは、その視線だ。訝るというよりも、どこか観察している風に見える。

 そしてそれは、間違いではなかった。


「なるほど。目に気を付けろとは、そういうことか」


 そう独り言ちると、おもむろに足元で苦しむ春の鎖を持ち上げた。弱々しく抗う春を自分の体の前に掲げ、盾のように翳す。


「……っ」


 薄雪が慌てて下を向く。

 だが。


「仙を見ろ」

「え……」


 続いた男の声に、今度こそ薄雪は俯いたまま硬直した。

 殺気や恩讐がないことからも金で雇われた兇手しかくなのは明白だったが、どうやら客は随分と詳細な入れ知恵をしてくれたようだ。

 薄雪はそんなことはできるわけがないのにと困惑し、それからやっと目的に気付いたようにハッと顔を押し留める。


「で、できません」

「できないのなら、今すぐ春を殺す」

「だっ……だめ……!」


 恐ろしい言葉に、薄雪が反射的に顔を上げる。が、その視線の先に苦しむ春がいて、薄雪はまた顔を下げるしかない。

 何の力もない、知恵もない薄雪に、その場で選べる最良などあるはずもなかった。


「……ひ、楸、さん」


 ぽたり、と。蹲る薄雪の膝元に、雫が落ちる。鷹鳴枕を抱きしめる手の甲が静かに裂け、緑の小さな芽がむくりと顔を出す。


「ごめん、なさい」


 薄雪が、泣きながら顔を上げた。

 縋るように、楸を見て。


(くそ……っ)


 薄雪の、底が見えないと思っていた黒瞳は、今はただの憐れな少女こどもだった。それでも、視線が交わった途端、楸をくらりと眩暈が襲う。


「ごめんなさい……ごめんなさ……」


 ぽろぽろと、薄雪の両目から涙が次々に溢れる。


「ごめ……だめって、何度も、言われたのに」


 ひっく、ひっくとしゃくり上げるたびに、薄雪の頬に、腕に花が咲く。息は苦しいが以前ほどの急激な脱力感がないのは、薄雪の視界が涙で淀んでいるからだろうか。


「わたしが、我が儘を言ったから」


 顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも薄雪は泣き声も上げずに謝り続ける。


「誰の傍にもいちゃいけないって、お母さんに、言われてたのに……っ」


 馬鹿が、と酸素の足りない頭で楸は毒づいた。

 戦闘経験もない十一歳の小娘がいま気にすべきは、そんなことではないのに。母親にかけられ続けた呪いが、孤独が、薄雪をまた硬い冬芽の中に閉じ込めようとしている。

 それを、掠れた声が息苦しそうに否定した。


「ちがう……」


 楸、ではない。春だ。


「薄雪は、何も悪くありません……」


 男に霊力を奪われ続けてなお、春が足掻きもできない体で薄雪のもとへ行こうと指を伸ばす。


「傍にいるだけのことが、我が儘などであるはずがない……」

「上位精霊の動きを止めるには、まだ甘かったか」


 鎖の先を軽く引きながら、男が呟く。その弱い反動にも、春の下げ角髪で咲いていた淡黄色の木香薔薇の花弁が一片、また一片と散っていく。

 それでも、春は続けた。優しく笑いながら。


「逃げて、ください。薄雪はこんなこと、しなくていいのです。お願いですから、逃げて」


 春の美しい貌に、朝露のごとき涙が一雫、はらりと伝う。それを最も見るべき少女はけれど、楸から目を逸らさぬまま弱々しく拒絶した。


「そんなこと、で、できない……」


 追い詰められたその顔は行くも退くもできぬ懊悩にぐちゃぐちゃに乱れ、矮躯が今にも捩じ切れそうだった。

 お陰で薄雪の視線は濁り、楸の体の感覚が僅かながら戻ってくる。だが指先が自由になる喜びよりも、どうしようもない苛立ちが楸の頭を占拠していた。

 今まで独りで生きてきた薄雪が初めて縋れると思えた相手を、見捨てて逃げるだけの強さも薄情さも持ち合わせていないことなど、分かり切ったことだ。

 そして今、楸があの夜に懸念した事態が虚しく現実となった。

 春の優しさが、薄雪の生き残る道を、幸せになるための未来を奪う。

 それを、春自身が今まさに思い知ったろう。


「薄雪……」


 春が、取り繕った笑みを歪めて男を振り返った。


「僕を消したいのなら、従います。だから、薄雪を、逃がしてください」

「その後で陰から見られたら同じことだ」

「薄雪はそんなことはしません……!」


 がしゃり、と鎖を鳴らして、春が精一杯に叫ぶ。

 本当に、そんな狡賢く器用なことができれば、どれほど生き易かったか。


「薄雪は……ただの女の子です」


 睨むことさえ続けられず、春がはらはらと涙を零す。

 幾千歳の記憶を持ち、人々を遠くに眺め、関わらず、願望などとは無縁だったはずの四季が、最後の箍を外して懇願する。


「戦う術など何も知らない、甘え方すら教えてもらえなかった、ただの女の子です。これから……これから幸せになる、はずだったのに……」

「……」


 端麗な容貌をくしゃくしゃにして泣く春を、男が無表情に見下す。懇願など無意味だとでも言うように。

 だが楸は、そこに生じた微かな揺らぎを見逃さなかった。そこに重なった薄雪の瞬きの一瞬に、楸は風気を纏って男へと突進した。


「!」


 駆け出すと同時に放った風の刃がまず男に着弾する。先程よりも一瞬反応が遅い。が、やはり空手に弾かれる。だがその一瞬の空気の歪みが楸の体を霞ませた。

 その一瞬に、最大通力を込めて射程を伸ばした飾り紐を男の首元へと振り下ろした。


「ッ!」


 ザクッという布と肉を断つ手応えが手の平に伝う。腕で防がれたか。だが鎖はまだ手放していない。

 楸は男の足元から土気を練り上げ、大量の土砂を持ち上げて男を呑み込んだ。

 この程度の土の拘束など長くは持たないだろう。だが春を奪還するだけならば十分だ。


「春!」


 楸はすぐさま踵を返すと、鎖に巻かれたままの春を拾って走り出す。

 その左肩に、斧でも食らったような衝撃が走った。


「っ!?」


 楸の長躯が真横に吹っ飛び、受け身も取れず地面に叩きつけられる。


「楸……!」


 ひとの心配をする前に鎖を自力で解け、と言い返す気力もなくすくらい、左肩が熱かった。短刀にやられた傷口を火掻き棒で広げられている気分だ。水気を纏った右手で押さえるが、じゅわりと水蒸気が上がって余計に痛みが増しただけだった。

 肩越しに睨めば、釣鐘型に閉じ込めた土の壁に拳大ほどの穴が開いていた。そこから、急激に熱された土が出す蒸気が細く棚引いている。


(狙いが俺でも春でも構わないってのは、厄介すぎるな)


 戦い慣れている上、通力も尋常でなく強い。

 土の中では身動きも取れなければ呼吸すら儘ならないはずなのに、覆われた端から切り崩してきた上、楸の動きを予測して火弾を貫通させてきた。

 その穴を殴って、崩れた土を踏みしだいて男が姿を現す。さすがに通力を立て続けに使用したことで、多少は息が乱れているのが救いだ。でなければ、とっとと尻尾を巻いて逃げ出している。


(どこのどいつだよ)


 ここまでの強者がどこにも所属していないとは考えにくい。

 神魔デュビィ精霊ネティン以外で、地上に干渉でき、かつ仙と同格以上に渡り合える者となると、仙以外では九魔王か、その配下である魔従士か。だが魔王の行動理由は神魔からその身と神具を守ることのはずであり、世の理法とは無縁だ。

 魔従士は、魔王に仕える以外は制約はそれぞれと聞く。武を極めることに生涯をかけている頭のおかしい変天魔王の門下か、理想社会のためなら華族殺しも厭わない炎天魔王の信者なら、可能性がなくもないが。

 だが素性も目的も、聞いて答える類でないことは明らかだ。


(どうする)


 土塊を跨ぎ越して近寄る男を睨みつつ自問する。

 こんな時だというのに、またあの声が脳裏に再生された。


『抹殺しろ』


 煩い黙れと、言い返せなかった。

 仙が優先すべきは人命ではない。それは、楸自身が何度も口にしてきたことだ。そう割り切らなければ、何度でもこんな葛藤に出くわす羽目になる。

 その先に待つ結末は、いつだって『何も守れない』だ。


(……くそ!)


 嫌な記憶を怒りで振り払う。だがその視界の片隅では、薄雪が両手で頭を抱えながら声を殺して泣き続けていた。

 春を守るため、自分を孤独にしないため、楸を視たことへの後悔に苛まれながら。


(くそが! 仕方ねぇだろ!)


 数歩先には、霊力を奪われて鎖も解けない春。それに慎重に手を伸ばす男の手には、いつでも発動できる火の気配。

 決断は一瞬。楸は一足で薄雪の背後を取ると同時に、無理やり体を起こして飾り紐を首筋に押し当てた。


「……え?」


 一瞬で命を握られた当の薄雪が、状況がまるで理解できないという風に目をしばたたかせる。

 楸は胸の内だけで、悪いなと詫びた。


(この状況で脅威を排除する最適解は、これしかないんだよ)


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