第二十話 信誓は旦旦として、其の反するを思わず

 前合わせの懐には魔獣除けの香包かおりぶくろ。左手には森闇にぼんやり光る炎虫ホノオムシ筒灯つつあかり。首からは黄鉄鉱バイライト頸飾くびかざりを下げ、小さな肩にかかる真新しい麻の鞄には、不死蠑アンピビアの治癒薬と、柔らかくなった鷹鳴枕も体を半分沈めている。利き手は空けておけと、楸が言っていたからだ。


(これで、大丈夫)


 言い聞かせるように、胸中で呟く。それから薄雪は、落ちた枝葉を踏まないよう慎重に歩を進めた。

 背後では、春と楸がそれぞれ寝にくそうな姿勢で眠っている。けれど彼らはすぐに目を覚ますから、筒灯の明かりもなるべく遮られるようにと、幹の影を選んで進んだ。

 本当は保存食などもあれば良かったが、楸の管理なので持ち出せなかった。だが路銀はまだ残りがあるし、里もそれほど遠くはないはずだ。

 もう一度心の中で大丈夫と繰り返してから、薄雪は一つ忘れていたことを思い出した。

 母が教えてくれたおまじないだ。


(忘れたこと、なかったのに)


 何故と自問せずとも、答えはすぐに出た。春と楸がいたからだ。二人がいたから、薄雪の不安は薄れ、呪いがなくても一歩を踏み出せていた。

 しかしこれからは違う。また、呪いに縋るしかない。


「……天に五光あり、地に五花あり。外出に吉日、死の気配なし。道に穢れなく、また遮る者なし。路傍の花が、私を辿り着くべき場所へ……」


 導く、と続けるべき声はけれど、言い切ることができなかった。ぐっと喉に何かが詰まって、声が出ない。

 それもそのはずだった。今の薄雪に、辿り着くべき場所などないのだから。

 けれど、歩かなければならない。


「どこへ行くのですか?」

「っ」


 俯いていた顔を改めて上げた先に春がいて、薄雪は心底驚いた。思わず春が寝ていたはずの場所を振り返る。勿論そこに春はいない。楸が枝の上で腕を組んで、二人を眺めているだけだ。

 薄雪は気まずい思いで前に向き直ったが、言葉は中々出てこなかった。


「夜の森を一人で歩くのは危険ですよ」

「……でも、筒灯がある、から」

「それにこの辺は、花守の森の中心付近と違って魔獣も出ます」

「それは、魔獣除けの香包で」

「薄雪」

「……っ」


 どこか咎めるような厳しい声に、薄雪はついに言い訳の言葉を失った。

 風に吹かれてふらふらと強まったり弱まったりする筒灯のように、言おうか言うまいかの気持ちが揺れる。けれど結局、春を前に黙り続けるなどできるはずもなく、薄雪は観念したように口を開いた。


「離れようと、思って」

「どうしてですか?」

「……春が、春だから」


 なんと愚かな答えだろうと、薄雪は我ながら自分の語彙の無さが嫌になった。

 だが何故と問われれば、理由は一つしかない。春が四季だからだ。

 春が春だから傍にいるだけで精霊には疎まれ、人間からも悪意を向けられる。傍にいるだけで薄雪を悪とみなし、排除しようとする。薄雪には身を守る術もなければ、言い返すだけの度胸も矜持もない。

 だって、四季に道連れはいてはいけないのだから。

 けれど。


(ばか、わたしのばか……!)


 言ってすぐ、後悔した。それは決して向けてはいけない言葉だったのに。

 春が春であることなど、春が誰より身に染みて理解している。そして春であることの辛苦に何より藻掻いているのもまた、春自身なのに。


「ご、ごめ……」

「季節とともに移動する者など、幾らでもいます」


 咄嗟に謝ろうとした薄雪を遮って、春が存外に優しくそう言った。

 だが薄雪は、すぐには意味が分からなかった。顔が見られないから、それが本当になんてことはないのか、無理をしているのかも判断ができない。

 春が続ける。


「遊牧などはいつも季節に従って草原を移動しますし、採蜜も蜂を追いかけますから、いつも僕の近くにいます」

「え……?」

「冬には氷連ひむらじが氷を求めて集まりますし、秋には収穫など人手のいる仕事を目当てにした人々が多くなります。季節とともに生きるのは、普通のことです」


 知らない職業が世の中にはいっぱいあると説明され、薄雪はぽかんと春の胸元を見つめてしまった。春が薄雪の心の余燼よじんを掻き出そうと、穏やかに話してくれるのが分かる。

 だがだからこそ余計に、薄雪が囚われている不安がそれではないことが浮き彫りになってしまった。

 そうじゃないと、震えるように首を横に振る。


「……わたし、怖いの」

「薄雪、それは……」

「わたしもいつか、あんな大人になる」


 そう、怖いのだ。

 春が拒まなかったのも、楸が許してくれたのも、薄雪がまだ子供だからだ。けれど大人になれば、きっと何もかも変わってしまう。

 博栢はくはく郷の郷司や、今日の彼らのように、大切なもののために春を閉じ込めたり、傷つけたりする日が来てしまう。その時、薄雪は自分を止められる気がしなかった。

 十一歳の今でさえ、母のためにと春を勝手に連れだした。楸は駄目だと言ったのに。

 もし薄雪がこのまま春の傍で大人になり、そして拒まれたら、今度は薄雪が彼らのように力尽くで春を捕まえるかもしれない。そうなったら。


(いや……!)


 それは、想像もできないほどの恐怖だった。

 だから、そうなる前に消えたかった。春を傷付ける前に。拒まれる前に。

 だというのに。


「薄雪は大丈夫ですよ」


 春はそんなことかとでも言うように、気安く笑った。


「薄雪が誰かを傷付けるはずがありません」

「そ、そんなことない。わたし、視ちゃったもの。郷都で、何人も、兵士の人を。あの人たち、苦しそうだった……ッ」

「でも、それは」

「それに」


 と、薄雪にしては珍しく、春の言葉を遮って続ける。


「お、お母さんだって、昔は優しかったの。でも変わっちゃった。わたしのせいで……! 今度は、わたしが変わるかもしれない。今みたいに、春を傷付けて、それで……そうなったら、わたし――」

「それならなおさら、薄雪を独りになんてできません」


 薄雪の頬にまたぷつりと花が芽を出す前に、春は薄雪を抱き締めた。それ以上、薄雪が自分の言葉で傷付かないように。


「でも……」


 それでも抗う薄雪の後頭部にそっと触れ、己の胸に押し当てる。


「悪い方に変わってしまいそうなら、僕が薄雪を引き留めます。それでも駄目なら……僕がちゃんと離れます。だから、薄雪がそんなことを考える必要はないんです」


 それは、立場上薄雪を引き留めることを良しとしないながらも、邪魔せず耳をそばだてているであろう楸に向けられた牽制ではあったが、薄雪が察することのできるはずもなかった。

 薄雪はただ、額に、肩に、手の平に、春の体温を感じながら、その優しい嘘を含んだ未来を何度も何度も自分の身に置き換えて考えた。

 薄雪には、何の力もなければ、死ぬまで正しくいられる自信も勇気もない。春が引き留めてくれても、薄雪は弱いから、きっと誘惑や欲望に負けてしまうだろう。

 そうなれば、春は言葉通り、離れてしまう。


(それはいや……っ)


 そうならないために、薄雪にできるのは。


「――わたし、大人にならない」

「え……」


 答えに辿り着くよりも前に出てきた言葉に、薄雪は自分で驚いた。春もまた瞠目する。

 だがその理由はとっくに知っていると、薄雪は思った。


『大人になってもか』


 双月も清かな森の夜、眠る薄雪の傍らで鋭く質した楸の声が心の片隅でずっと響いていた。

 大人になって、知恵をつけて、我欲のままに生きる。自分もそんな大人になるのだと言われ、怖かった。否定できない自分が怖かった。

 大人にならないなど、できるはずがないと分かっている。きちんとした勉強も受けず世間を知らなくとも、時が誰もに平等に訪れることくらいは知っている。

 浅はかな企みだ。


(それ、でも)


 春と少しでも長くともにいるために、その言葉を真実にしたいと、それしか術はないと、薄雪は悟った。


「わたし、ずっと大人にならないから、だから」


 だから、お願い。拒まないで。


「そばにいて、いい?」


 ぎゅぅと、春の衣を恐々と握り返す。

 それは問いというよりも、願いに近かった。

 そんなことは不可能だとどちらも分かっているけれど、たとえ仮初めでも、許しが欲しかった。

 果たして。


「……えぇ、勿論です」


 薄雪の矮躯を抱き潰してしまいそうなほど、春の腕に力がこもる。

 まるで薄雪を離したくないと叫ぶように強いこの腕の温かさを感じられるのなら、たとえその目を一生見ることができなくても、嘘つきでも、大罪人でも構わないと、薄雪は思った。




       ◆




 あまりに愚かで幼稚だと、二人に出会う前の楸なら一笑に付していただろう。

 大人にならないなど、不可能だ。入山して仙となれば不老長寿になるが、それでも肉体は最も完成された時までは成長し続ける。

 精霊には幼体の姿で生まれたり、時辰ときの里の具眼者や、変天魔王は幼い外見を持つと聞くが、それでも精神は育つ。培ってしまう。

 薄雪や春が望むような、純真無垢な子供の心は擦り切れて、やがて消える。それでは意味がない。

 だがそこで、わざわざ口を挟んで否定するほど、楸は無粋でもない。

 だから今は、ただ胸の内で嘆いた。

 なんと幼稚で愚かな願いだろうか、と。


(行かせてやりゃあ良かったものを)


 薄雪の背を押して戻ってくる春を見て、無用な憐憫が疼く。それに気付くのが嫌で、楸は下草の上に座る二人に声をかけた。


「ひとつ、分かったことがある」


 薄雪が、抱きしめた鷹鳴枕越しに楸を見る。その隣から春が咎めるような目線を寄越したが、これは本人が知るべきことだ。楸は構わず続けた。


「お前の花だが、どうやら不凋花アマラントスの可能性が高い」

「あまら……?」

「凋まない花、ひいては繁栄を約束する花と云われている」


 簡単に説明するが、薄雪は困惑するばかりで全くピンと来ていないようだ。


「つまり、お前を狙っているのは、不凋花を捕えている間は没落しないという伝説を信じた阿呆どもだということだ」

「……そう、なん、ですか?」


 抱き締めた鷹鳴枕と一緒に、薄雪が首を傾げる。その声には、我が家は繁栄していたのかな……という疑問がありありと溢れていたが、そもそも野心がなければ意味がない代物だ。


(ということは、やはり母親は花の正体を知っていて、尚且つ野心がなかったということの証左にもなると言えるが)


 いま重要なのは、理解ではなく選択だ。


「問題は、お前が具眼者の館エ・ウ・ニルに来るかどうかだ」

「……わたしが? どうして?」


 まるで話の繋がりが分からないという風に薄雪が戸惑う。無理はない。

 具眼者の館に入れるのは、仙の資格がある者だけだ。誰の身にも選ばれ得る九つある魔王の座と違い、仙は血筋や四操術などの突出した力が必要となる。

 華族でもない、精霊術さえ扱えない薄雪を勧誘するなど、普通はあり得ない。


「お前に自分を守る力があるなら他に取る道もあるが、恐らく今のままではどれも無理だろう」

「あ……」


 薄雪が申し訳なさそうに肩を落とす。隣から更に殺意の籠った視線が向けられた。というわけでもないが、楸は理由を付け足した。


「これは俺の勝手な推測だが、薄雪がどんな術も使えないのは、その目のせいじゃないかと思う」

「……目?」

「仮説だがな。目を閉じれば使えるものもあると思う。まぁ、結局視認してなければ大抵の術は用を成さないから、試しはしないがな」


 楸の言葉に一時可能性を見出していた薄雪が、結びの言葉に悄然と項垂れる。一々春の視線が痛い。

 実際、目を閉じることで力が使えるのならば、やってみる価値はある。だがそれは、棲雲山に入ってからだ。

 それよりも、今は。


「ともかく、お前は今後も狙われる可能性が出てきた。一刻も早く入山した方がいい」

「え……」


 楸の言葉に、薄雪がやっとその選択の意味に気付いたように春の方を向く。二度、三度と視線を彷徨わせ、それから少しずつ増えてきた意思表示を言葉にした。


「で、でも、わたし、春のそばにいたい、から……」


 申し訳ないような、けれどどこか嬉しそうな声だった。

 それが、楸の心を凍てつかせるとも知らずに。


「そうか。なら――」


 楸が決意の声を上げる。それに被せて、


「僕も、気付いたことがあるのです」


 春が、わざとらしく大きな声を出した。

 楸の炯眼を意にも介さず、きょとんとする薄雪へ笑みを深めて語り掛ける。


「薄雪は御母堂から、怒ったり笑ったりしてはいけないと言われていた、と言っていたでしょう?」

「うん……」

「あれは、目の力ではなく、花の方ではないかと思ったのです」

「花?」

「花が咲くのは痛くないようですけれど、花を摘むのには痛みが出るでしょう? 鋏があれば良いですけれど、自分では死角が多いし、御母堂は傍にいてあげられない……だから、苦肉の策としてそう言い聞かせたのではないかと思ったのです」


 言いながら、春が先程僅かに出芽した頬を愛おしそうに撫ぜる。薄雪は、それが甘えて良い合図だということも分からず、ただ鷹鳴枕の目を見つめていた。


「お母さん、が……?」

「えぇ。だから、薄雪はもう我慢しなくて良いのですよ」

「?」


 そこに辿り着いた文脈が、薄雪には本当に分からなかったのだろう。目をぱちくりと瞬いて春を見上げようとして、その胸元で思いとどまる。

 その頭を、春が肯定するように優しく撫でた。


「もし花が咲いても、これからはいつでも僕がそっと手折ってあげます」

「――……」

「だから、楽しかったら笑っていいし、嫌なことがあったら怒ってもいい。泣くのだって、声を押し殺して泣かなくたって良いのです」

「『笑って、いい』……」


 春がそう薄雪に諭すのは、これで二度目だ。一度目は、薄雪はその先の結果を恐れて拒んだ。

 だが今は、母の隠された想いに希望を見いだしたことで、その言葉はただの慰めではなくなった。

 『いつでも』が『永遠に』と同義でないことには、どちらも気付かぬふりで目を背けて。


 一方、それを見守る楸は、ただ静かに苛立ちを呑み込むしかなかった。


(春め)


 仙は弱者の味方ではないと何度も言い聞かせたというのに。


(先を越された)


 悪態をつかず、強行にも出ないことが既に良心を担保に取られていると承知しながら、楸もまた気付かないをした。




       ◆




 椋広りょうこうの里付近で春を確認できたことで、糸繰しそうを含む軍尉たちは、森宜しんぎ梓旦したん郷は郷都蔡甸さいでんの里に駐留していた珊底州軍の引き上げを決定した。

 今回の行軍の目的は、あくまで因陀州からの春の解放であり、春が正常な動きを取り戻したのならひとまず作戦は終了となり、これ以上の行動は必要ないというのが建前だ。

 だが引き続き因陀州との睨み合いは続くため、予定通り半数を州境に残した郡軍に預け、残る半数で一路州都は雨久花うきゅうかの里へと退軍を始めた。

 だが何も起きないはずの帰路、州同士を繋ぐ大街道へと出て、楪豊ちょうほう郡から州都である鳳苔ほうたい郡に入る寸前で、異変は起きた。

 最初は、ただの世間話程度だった。隊のどこかで、こんな話が上がった。


桐楽とうらく郷に春が現れた」


 桐楽郷は楪豊の郡都であり、大陸最南端からやってくる四季が毎年通ると言われている行路からもさほど離れていない。真偽を問う必要もない話だった。

 だがその話題は少しずつ、妙な方に筋を違えていった。


「今年の春は、どうも様子がおかしい」

「春が共連れをつけている」

「その人間が春を唆している」

「珊底州を出たら、また春を独り占めするつもりだ」


 確証など一つもない話。だが春の傍に人間がいたのは事実。そんな風にして、根拠のない推測と恐れとが入り混じって、いつの間にか隊全体に広がっていた。

 そうして。


(なんだ? 何かが、おかしい……)


 指揮官たる糸繰の下に噂が届く頃には、俄かに統制が取れないほどに不気味な熱を帯びて、兵士たちは進路を変え始めていた。

 西へ。

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