第十七話 粥食めば 母を思ほゆ

 翌日からも、春の里塾もどきの雑学と、楸の成果の見えない精霊術指南は続いた。

 既に州境の森は抜けていたが、念のため三人は花守かじゅの森と人里とが接する辺りを選んで進んでいた。

 やはり森から少し離れれば田畑や人里がある分、魔獣の気配は少ない。代わりに鼠や兎、鼬などの小動物はちらほらと姿を見かけた。

 反対に花圃のある中心部へと目を凝らせば、白や黄色の小花や、桃色の花が遠く咲いているのが見える。とは言っても、花木に我が子を望む華族は滅多にいない。我が子のためにふんだんに金をかけて作られた装飾華美な花廟かびょうも、それを守る花衛士はなえじも見る機会はないだろう。

 だが代わりに、別のものが時折春の前に現れるようになった。


《はる! やっときた!》


 最初に春の陽気に小躍りするように現れたのは、手の平ほどの小さな精霊ネティンたちだった。

 たとえばくぬぎの若葉から生まれたばかりの、垂れ下がった雄花を衣服のように纏った可憐な精霊や。去年の秋に落果して新芽を出そうとしている小楢こならの実の精や。釣鐘草つりがねそうに溜まった朝露の精や。

 どれも春と比べれば爪の先ほどの霊力も持たないが、皆誰かに――例えば巣穴から眺めていた仔狐に、地中に潜っていた蚯蚓に、花の蜜を吸いに来た蝶に見られ願われることで生を得て、姿を成し、輝きを放っている。


り出づること、なにもなにもめでたし。末永く春声あれ」


 春は挨拶に来る精霊に一々そう言っては祝福を与えていく。

 その次に顔を見せ始めたのは、慎重に春の動向を窺っていた者――数年の時を経てなお生き残り、人の子や大人に似た姿を獲得した、高い知性を持つ精霊たちだ。


《春の御前に、蕩花川とうかがわがご挨拶申し上げます》


 花圃の中を流れる小川の精霊が、幾種類もの花弁が揺蕩う水流を領巾のように纏いながら、ゆるりと挨拶する。

 薄雪は、直視しないようにしながらも次々に現れる精霊に目を白黒させながら頬を紅潮させていたが、小川の精の美しさには魂を取られたようにぽかんと口を開けていた。目の先でゆらゆらと揺らめく領巾の水流につられるまま視線を動かし、徐々に透ける段になって慌てて俯く。

 それを険しい目で一瞥して、小川の精は麗しい声で続けた。


《冬が去ったというのに一向に現れないから、心配いたしましたわ。……だというのに、なぜいまだ人と共にいるのでしょう》


「っ……、ご、ごめんなさ――」

「この子は僕の娘です。成長するまでともにいるのは当たり前のことです」


 身を竦めて謝罪しようとした薄雪を背に庇って、春が笑顔で押し切る。


《程々になさった方が御身の為と思いますわ》

「えぇ。春声あれ」


 そこまで言うならご自由にとばかりに去る小川の精にも、春は変わらぬ笑顔のまま祝福を与える。そしてそれは、不審を向けるその後の精霊にもぶれることなく同じ言葉を繰り返し続けた。

 元々、精霊は人里や騒がしいのを好む者と、そうでない者とに分かれるのは人と変わらない。そして花守の森に棲む精霊は、特に後者の傾向が強い。春に近付く人間に良い感情を持つはずもない。

 夜、薄雪が眠り込むと、春の目を盗んで悪戯を仕掛ける者も度々あった。まぁその大抵は、髪を引っ張ったり、服に虫をつけたりという、ささやかなものばかりだったが。


「嫌われてる……」


 連日の精霊の悪戯に、薄雪が地味に落ち込みながら呟いた一言を、春は聞き逃さなかった。花こそ咲かせなかったが、挨拶にくる精霊に白い眼を向けられる度に薄雪の繊細な良心は痛むらしい。

 楸はだから何だという程度だったが、春はほいほいと方針転換した。


「では、そろそろ人里に出てみましょうか」

「はあっ?」

「薄雪に合う魔具を探そうにも、花守の森付近にはそもそも霊化や魔化したものはありません。追手の姿もないですし、頃合いでしょう」


 確かに、四操術には可能性が見えないし、精霊に嫌われてしまえば精霊術も望み薄だ。魔具を手に入れるなら早い方がいい。

 だが、珊底州を抜けるまでは人里に出るのは危険の方が大きい。

 楸は親馬鹿もいい加減にしろと待ったをかけた。


「まだ早い。もう十日も歩けば末爾まに州に入れる。それまで我慢」

「さぁ行きましょう、薄雪。市が立っていれば、きっと面白いものが見つかりますよ」

「しろ……」


 楸の忠言を一切無視して、春が薄雪を促す。


「え? でも……」


 薄雪がどう答えたものかと楸の足元をちらちらと見ていたが、楸はすっかり諦めた。




       ◆




 買い物をするなら大きな定市がある郡都がいいだろうという楸の提案は辛うじて受け入れられ、三人は次の郡都である楪豊ちょうほう郡は桐楽とうらくが近くなるまではと、ぎりぎりまで花守の森の際を進んだ。

 だがいざ森の外の景色が見えた途端、薄雪の足は重くなった。


「……」


 薄雪に何の可能性もない上、精霊からもよく思われていないのだから仕方がないが、人の多い所に行くことは、本当は怖かった。

 生い茂る枝葉の向こうに見えるのは、春の陽光に煌めく畦道だ。春のお陰で雪が解けた畑には、例年よりは貧相だが、脛ほどの高さの青い麦が何列も整然と並んでいる。

 望んでいた光景のはずなのに、薄雪がまず想起したのは因陀州に入ってすぐのことだった。威圧的な兵士、荷物を盗った子供。人のよさそうな農夫は、薄雪を騙して兵士に引き渡した。

 郷都で何人もの兵士に追われた時の恐怖は、今でもたまに夢に見る。

 けれど。


「さぁ、行きましょう、薄雪。きっと素敵なものが見つかりますよ」


 春が弾むような声で手を差し伸べる。それは事ある毎にまごついてしまう薄雪への、いつも通りの優しさだった。

 今まで母以外の表情を見たいと思ったことはなかったけれど、この時ばかりは春の顔が見たい、と思った。きっと、臆病な薄雪を心から勇気づけてくれる笑顔を向けてくれている。

 けれど春を見ることは危険だと、楸から口を酸っぱくして言われている。だから、代わりに鷹鳴枕にかつて見た春の顔を思い出して重ねてみる。だがそれだけでも、薄雪の恐れは少しだけ和らいだ。


「うん」


 薄雪は小さく頷くと、褙子はおりの広袖から覗く白い手を握り返した。




「すごい……いっぱい」


 郡都のいちが視界の隅に入った途端、薄雪は感嘆の声を上げた。

 まず何より驚いたのは、とにもかくにも人の多さだ。馬車が何台もすれ違えるほどの大路みちだというのに、薄雪の視界は数えきれないほど色とりどりの裙や褌の裾でいつもいっぱいだった。前に楸、隣に春がくっついていなければ、薄雪はあっさりもみくちゃにされてはぐれていただろう。

 その両端にも、色も形も様々な露店が数えきれないほど並んでいる。

 郷都の大通りで見た列肆みせみせや露店でさえ、薄雪には初めて見るものばかりで物珍しいばかりだったが、こちらは規模や品揃えが比べ物にならない。

 薄雪は、市に向かう道すがら楸や春が教えてくれたことを目の当たりにした思いだった。


 珊底州には他の州とは違う点がある。それは世界十二大陸を横断する大陸列車の乗り口である、艮車站ごんえきがあるということだ。車站えきはそれぞれ大陸に入ってすぐ停車する入口と、大陸を出る前に停車する出口の二か所しかなく、ごんは入口に当たる。

 州都までは大きな街道が通り、列車の乗降客をはじめ様々な物資の流通で賑わう。薄雪のいた里は反対に位置するためその繁栄や恩恵が届くことはなかったが、州都以東は特に活気があり、必然的に武具や魔具を含む物流や人流は増え、国力も高くなる。お陰で王花が玉座に就く際に建造される移動宮廷ミシュカーンがない時でさえ、その地域は比較的豊かだ。

 因陀州も外海に面した大きな港湾を二か所有し、国力ではそこまでの差はないはずだが、やはり大陸列車の威光は大きく、このことでも妬みを買っていた。それが此度の戦争で恒常的な戦力差として現れ、それをひっくり返したいがために春を捕えたのだろう。

 というところまでが、楸からの事前情報だ。だが、溢れ返る視覚情報の多さの前に、聞きかじっただけの知識は呆気なく敗北していた。


 それでも、最初のうちはあまり見てはならないと、薄雪なりに気を張っていた。だが市の入口で、やっと辿り着いた旅人を労うように香ってきた数々の香辛料が嗅覚に届いたところで、もう駄目だった。

 大小様々な露店に置かれたつるつるとした陶磁器の壺に入った、酢に山椒、ひしおや味噌から、量り売りをする度に香りが漏れて薄雪の鼻を刺激するのだ。思わず兎のようにくんくんと鼻が動いてしまった。

 それでも、楸が背中を押してくるのにどうにか逆らわないで進むと、今度は大豆や燕麦、粟などの穀物類が現れた。その次には鴨や兎、魚の干物といった肉類や、葱や韮、枇杷などの野菜や果物類などが整然と並べられた肆が続く。

 それらの前では、様々な年齢の女性たちが輪を作り、買うでもなく談笑に耽っている。楽しそうだ。


「市は、基本は同じ品物の店は同じ区画に集まるようになっているらしいですよ」

「そう、なんだ」


 薄雪が目を止めるたびに、春があれこれと説明してくれる。


「買い物よりも、お喋りを目当てにくる人も多いみたいですね」

「話す、だけ?」

「用事もあるでしょうけれどね。どちらがついでなのかは……」


 ふふ、と春が微笑ましげに笑う。そうしている間に、今度はぴかぴかに磨き上げられた漆器や陶磁器の皿や椀、壺などが現れた。

 黒粉を塗った器に、黄色や緑色の顔料で雲や鳥の姿が美しく描かれている華々しいものもあれば、大きな丸皿にたった一本の牡丹が気品高く描かれているものもある。

 こういった物は見ても平気だから、薄雪はつい何度も立ち止まってはその素晴らしい細工に目を奪われた。


「きれい……」


 思わず口をつく。

 家では、朝晩と母が食事をへやに差し入れてくれたが、皿や椀はいつも木器で、装飾など一つもないどころか、所々欠けたりしていた。豪華な家具や食器など、春が歓待されているのを窓から盗み見た時が初めてだ。

 あの時は、食べるだけなのに何故あんな豪華なものが必要なのかと、少しも良いと思わなかったのに。


「お、お嬢ちゃん、お目が高いね!」

「っ」


 威勢のいい野太い声がして、薄雪はびっくりして春の裾に逃げ込んだ。


「おおっと、怖がらせちゃったか? 悪かったなぁ」


 露台の向こうの男が、困ったような声を上げる。春か楸にでも睨まれたのだろうか。男はそれだけで、もう声をかけてこなかった。

 あるいはこんな都会の市では、銭もなさそうな少女などしつこく相手にしなくても客は沢山いるというだけの話かもしれないが。


 その後も、薄雪が思わず立ち止まるたびに、店主たちはこぞって声をかけた。まずは子供の興味を引いて、その後に大人に買わせるという常套手段にまんまと引っかかっていたのだが、薄雪には勿論自覚などない。

 お陰で、楸には何度となく嫌味を言われた。


「用のない所で立ち止まるな」


 と頭を小突かれ、その度に春は、


「気の済むまで眺めていいですよ」


 と言ってくれた。

 薄雪は散々悩んだ挙句、結局初めて見るものには目も足も惹かれてしまうのだから、今回ばかりは楸が引きずって行くまで思うまま見ようと決めた。

 それは自分の意思で何かを決めたことのない薄雪の、反抗というのもおこがましい初めての意思表示だったが、今の薄雪にはそれに気付く余裕もなかった。

 なにせ、次に現れたのは食べ物屋だったから。


「こ、この匂いはなに?」

「炙った豚の串肉ですね」

「あ、あの湯気は?」

「鴨のしるものみたいですね」

「あれ、粥? でも、見たことない具が……」

「あれは、青菜と茸と筍と鶏と……」


 薄雪が一々尋ねれば、春も一々答えた。他にも、干した果実を一つずつ売っているみせもあれば、新鮮な果物を盛り合わせた籠もあった。お陰で足は勝手に動くし腹は鳴るしで、薄雪の感情は大忙しだった。

 しかもその度に、春は楸をせっついて銭を出させていた。


「……お前、俺を何だと思ってんだ?」


 薄雪が熱々の粥が入った木椀を受け取ってふぅふぅと冷ます後ろで、楸がついに我慢ならんとばかりに愚痴を零した。


「兎や鳥を仕留めるより楽で良いでしょう?」


 苦々しい顔の楸に、春が一切悪びれることなく笑み返す。

 実は春が楸にせびるのは今回だけでなく、郡都に入る際も楸が仙の身分証を見せて通行証の代わりとしていた。具眼者は花王けおう――即位した王花から大陸全土の通行許可を得ており、仙もまたそれに近い特権を有しているのだとか。

 その恩恵を受けているのも、薄雪が今まで食事に困っていないのも、楸がいまだ行動を共にしてくれているお陰だ。

 全ては、薄雪が兵士に襲われたから。そして、春が共にいたことを目撃されてしまったから。


「ごめんなさい……」


 薄雪は、椀に口をつけられないまま悄然と謝罪した。

 本当は、こうやって市に来るのも、度々足を止めることも良くないことだと理解している。これでもなるべく早く見て先を急ごうと思っているのだ。

 食事だって、楸が魚や動物を仕留めて焼いてくれるお陰で、保存食ばかりの往路とは違いずっと食事の質も量も良い。だというのに、成長期の腹は香ばしい匂いに抗えない。

 その頭をよしよしと撫でて、春が優しく匙を薄雪の手に握らせた。


「薄雪は気にしなくて良いのですよ」

「なぜお前が答える」


 すかさず飛び出した楸の小言はしかし、春にしては珍しい言い立てに、にこやかに封殺された。


「だって東西の棲雲山は、華族たちから事あるごとに王花誕生祈願とか豊穣祈願とかよく分からない理由で様々な貢ぎ物を受けているでしょう? 東の具眼者はそれを華族や官吏の監視や街道の管理に使っていると聞きますよ。それを、西では遊興にしか見えない放浪などのために使われるのが妥当なのですか?」

「……」


 どうやら心当たりがあるらしい。楸は無言で財布を仕舞った。

 そのやり取りを、次の椀に粥をよそっていた女店主が豪快に笑い飛ばした。


「子供は遠慮なんかしないもんさ!」


 それは、何の邪気もない開けっ広げな声だった。薄雪は顔を見ないように椀を受け取ったのに、変に思うでも不快に思うでもない。そしてすぐに「さぁ、美味しい粥だよ! 食べてって!」と通りを行く人々に呼び込みを再開する。


「そうですよ。沢山食べてください」


 春もまた、今までで一番柔らかい声で促す。

 しかし薄雪はたっぷりの粥が入った椀を見つめながら、困惑していた。


(誰も、怖くない……)


 郡都に入ってから今まで、誰も薄雪に悪意を向けてこない。

 花を咲かせてはいないから、半花とは分からないはずだ。だがそれを抜きにしても、皆底抜けに明るく親切に思える。見惚れていただけと断っても怒らないし、釣り銭もちゃんとくれる。

 郡都に入るまで恐れていた昏さなど、誰も微塵もない。


(春や、楸さんが、いるから……?)


 あるいは、単に薄雪が考えすぎなだけなのか。ずっと緊張して疑っている自分の方がおかしいような気がしてくる。

 この使い込まれた木椀も、薄雪があまりに痩せているから少し多めによそったよと言われた。両手で包むように持っているから、じんわりと温かい。

 薄雪はいまだ戸惑いを消せないまま、久しぶりの料理をそっと匙で掬った。


「おいしい……」


 春とともに行動するようになってから、寒さに指がかじかむことはなくなった。それでも、丁寧に調理され、味付けされた粥は順に体の内側に染み込み、薄雪をじんわりと温めた。

 ほぅと、息が漏れる。


「またお腹が空いたら遠慮なく言ってくださいね」

「俺、酒が飲みたい」

「さ、そろそろ魔具を探しましょうか」

「お前、ほんとは冬じゃねぇの?」


 最後の汁の一滴まで飲み干す薄雪の上で、二人が楽しそうに言い合っている。


(ご飯って、楽しいな)


 薄雪の食事といえば、朝に晩に戸の前に置かれた盆のことだ。品数も具も少なく、長い厳冬のせいでいつも料理は冷めていた。

 生きるためだけに食べていた食事は静かで、扉の向こうからも団欒というものは聞こえてこなかった。こんなに賑やかな食事は、何年振りだろうか。


(でも……)


 腹も心も満たされたはずなのに、ふといけない気持ちが顔を出す。


(お母さんのご飯の方が、おいしかったな……)


 室に閉じ込められる前まで食べていた、冷めていない、湯気の立つ温かな椀。やはりろくな肉も入っていない貧相な粥だったと記憶しているが、それでも美味しくて、いつも笑って食べていた気がする。

 それとも美味しいと感じたのは、湯気の向こうにいつもあった母の笑顔のせいだろうか。

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