第三章 風戯れて、花は春を知る

第十五話 下萌ゆる雪間の草の

 東西の大陸に広がる森は、州境から人里まで広がる穏堵おんとの森と、棲雲山を中心にして広がる花圃の外周を囲む花守かじゅの森との二種類がある。

 というよりは、かつては大陸全土にあった森が長い歳月をかけて切り開かれ、最終的に不可侵である花守の森と州境に広がる森が残り、かきねとなって州を隔てたと言った方が正しいだろう。


 楸が地上に降り立ったのは、その花守の森と穏堵の森とが接する辺りだった。

 位置としては珊底州と因陀州の州境であることに変わりはないが、花圃に入れるのは華族と、華族に直接任命された花衛士はなえじのみだ。確証がなければ、たかだか郷都の兵士程度が勝手に踏み入れるような場所ではない。


「ったく、もう少しでどこからも追われなくなるはずだったのに」


 脇に抱えた春と肩に担いだ薄雪をぽいっと下草の上に放り捨てながら、楸は双月の浮かぶ東の空をあーあと振り仰いだ。

 森の上から見た赤褐色の半妻月はんめづきは、今度は何種類もの花芽がついた枝葉の覆いに隠され、足元にぼんやりと淡い光を届けるばかりだ。

 風気を操って上空を駆ければ距離は稼げるが、通力を大きく必要とする分消耗も激しい。しかも毎回二人分のお荷物を抱えねばならない。常に楽をしたいと考えている楸にとって、この移動法は最も避けたいものの一つだった。

 それに春がいる以上、先を急げばいいというものでもない。

 春は多少の差こそあれ、毎年同じ時期に訪れ、同じ花々を咲かせるべき存在だ。それは同時に、夏の前髪が見える頃までは留まるべきという意味でもある。


「ぐぁあーっ、やっぱ思った以上に面倒臭ぇな!」


 誰が下界に行くかとなった時、勿論楸は徹底的に存在感を消した。だが同隷の大仙ムニに潜行能力が効くはずもなく、具眼者に隠れて仕事を怠けていたことや、遠古の文献を漁っていたことから始まる様々な貸しを今こそ返せと、ここぞとばかりに吊るし上げられた。でなければこんな面倒な仕事、絶対に引き受けたりなぞしなかった。

 鬱憤をぶちまける先がなくて、ぐしゃりと前髪を掻き上げる。ぐしゃぐしゃにすると飾り紐で結ぶ時に酷い有り様になるのだが、こればっかりは許してほしい気分だった。

 なにせ息切れするほど運んでやった当の二人のうち、一人は勝手に気絶し、一人は状況を理解しているくせに礼を言うどころか文句を言う始末なのだから。


「楸! 薄雪は気を失っているのに、なんて扱いをするのですかっ」


 小姑か。


「薄雪、しっかりしてください。僕が分かりますか?」


 しかし文句を言う前に、春が横たわる薄雪を抱き上げて優しく頬を叩いた。


「ん……」


 凌霄もきつく気道を圧迫したわけではないようで、薄雪はすぐに目を覚ました。虚ろな眼差しを一、二度泳がせて、春に気付いてすぐ目を伏せる。


「ぁ、の、ごめ――」

「良かった……! 目を覚まさなければどうしようかと……っ」

「……え?」


 声を聞くや否やぎゅうぎゅうに抱き着いてきた春に、薄雪は状況が呑み込めないというように目を白黒させた。辺りを見回し、夜の森がすっかり静寂を取り戻していることを見留めてから、そうっと、春の褙子を遠慮がちに押し返す。


「ごめんなさい……。兵士が来たら、逃げるって、約束したのに」

「そんなことはどうでもいいのです。それよりも、傷は大丈夫ですか? 血があちこちに……」

「これは、あの、花のせいだから」


 言いながら、薄雪が頬や首に残ったままの血をごしごしと拭う。

 所々皮膚が裂けているところを見ると、強引に引き抜いたのだろう。夜にあの花は確かに目立つ。


(それに……)


 薄雪の体には、再び咲き乱れた花がまだ残っていた。これは好機だ。勘だが、あの花については一度持ち帰って確認しておきたい。

 と考えていたら、足元の会話が妙な方向に流れていた。


「薄雪、まだ立ち上がってはいけません」

「でも、じっとしてたら、また……」

「平気です。兵士も花守の森までは入ってこられませんから。薄雪が歩けるようになってからで構いません」

「おいこら待て待て」


 やっと普段の穏和な表情に戻った春の発言に、楸は聞き捨てならないと割り込んだ。


「何だその言い方は。まるでこれからも一緒に行動するみたいに聞こえるんだが」

「…………」


 背後の鬱蒼とした森を揺らしながら睨まれた。これが礼の代わりならば今度こそ容赦しないと睨み返せば、もう一人が申し訳ないくらいの動揺を見せた。


「……あの、わたし、は」


 春の腕の影から、薄雪が消え入りそうな声で主張する。だというのに、春がその先をわざとらしく遮った。


「薄雪はどうしたいですか?」

「え?」

「薄雪が嫌ではないなら、もう少し、僕と一緒に旅を続けてくれませんか?」

「え……」


 それは、既に春との決別を覚悟していた薄雪にとっては、青天の霹靂にも似た申し出だったろう。薄雪が下を向いたまま瞠目する。

 しかしそれはそれは楸も同様だった。


「おま……!」


 思わぬ先手にすかさず制止の声を上げる。しかしそれも、春の更なる言葉に掻き消された。


「四季の旅は、楽しいとはとても言えませんから、どうしてもとは言えません。どんなに歩いても辿り着く先などはないし、誰かに感謝されることもありません。長く留まれば、白い目を向けられることさえある……。僕といるというだけで、薄雪が嫌な思いをしたり、理不尽な目に遭うかもしれません。だから……」


 滑り出しには勢いのあった声は次第に尻すぼみに小さくなり、最後には聞こえなくなった。

 春の説得を止めようとしていた楸はというと、結局毒気を抜かれた気分で呆れてしまった。薄雪の同行を疎ましく思っている楸にとっては、好都合なのだが。


「誘ってんのか脅してんのか、どっちだよ」


 結局、促すように口を挟んでいた。

 春が言い淀むのも分からない話ではない。

 四季は永遠に孤独で、報われない。四季は毎年同じ時期に来るのが当たり前で、来ても感謝はされず、来なければ恨み言を吐かれる。

 長い春を望むのは今のような王花不在などの異常時だけで、平時であれば正しき四季の巡りこそが豊穣をもたらすと、農夫や漁師や、自然を相手にする者ならばみな知っている。四季など、一度見かければ手を振って見送るだけで十分な、袖も振り合わない風のようなものなのだ。

 そこに薄雪のような人間がいれば、どんな欲があるのかと事あるごとに勘繰られ、四季を惑わすと石を投げられる可能性さえある。道理を知る者であれば、長く共にいたいなどとは決して望まない。

 それを承知しているからこそ、春は最後まで強気では言えないのだ。


「えぇっと、だから何が言いたいかというと……」


 今更後悔が鎌首をもたげたように、春が視線を彷徨わせる。だが薄雪の黒瞳は長い前髪に隠されながらも、儚い期待を封じ込めたように、じっとその言葉の先を待っていた。


(そうやって、今までも待ち続けてきたんだろうな)


 薄雪は恐らく今まで、与えられ、命じられ、求められるように動くことしかしてこなかった。だから自分から発信することができない。許可がなければ何もできない。

 待つことが当たり前の、待つことしか許されなかった子供に意見を求めるなど、酷なことだ。


「……嫌、ですよね」


 春が、自嘲とともに逃げた。薄雪から。歴代の過去の記憶から。

 やはり因果からは逃げられないかと、楸が小さく嘆息した時。


「……慣れてる、から……平気」


 雪が積もるような声で、薄雪がそう言った。

 孤独も、報われないのも、嫌な思いをするのも、理不尽な目に遭うのも、平気だと。たかだか十余年しか生きていない世間知らずの少女こどもが、下手くそに笑いながら、優しくて意気地なしな春の言葉を導く。

 春は、ハッと息を呑んだ。

 それから、意を決した。この憐れな少女に、同じ苦しみを背負わせることを。


「僕には、君が必要です」

「……うん」


 決して交じり合わない緑と黒の瞳で、苦しいばかりの道行きを誓う。

 その下で、なよなよしい二つの手が今度はしっかりと重ね合わされた。


(一人ぼっちと一人ぼっちが出会って、二人ぼっち、てか)


 命の長さも生きる理も違う二人の行き着く先などろくなものにならないと、楸には最初から分かり切っていた。だから余計、情が移るようなことはしたくなかったのに。


「チッ」


 楸はこれ見よがしに舌打ちすると、ずっと懐に隠し持っていたものを薄雪の顔面に忌々しく投げつけた。


「わぷっ」

「薄雪!?」


 下ばかり見ていた薄雪がにわかにのけ反り、春が目を白黒させる。そこから再び小姑になられる前に、楸は早口で言い捨てた。


「二度と拾わないからな」


 それは、凌霄たちに追いついたところで地面に落ちていた鷹鳴枕だった。泥が付いていないのは、自分の懐が汚れるのが嫌だっただけだ。


「楸、さんも、ありがとう」


 薄雪が、少し複雑な顔をしながらも鷹鳴枕を抱きしめる。楸はふん、と鼻を鳴らすと、大きく空を振り仰いだ。夜明けはまだ遠い。




       ◆




 先程まで仮眠を取っていたこともあり、三人は月光の木漏れ日を頼りに北上を再開した。

 花守の森がすぐ近いこともあり、辺りは人の手が入っておらず鬱蒼として闇が深い。だが穏堵の森と違って花木が多く、山桃や藪椿、木茘枝もくれいしの花芽が所々綻び始めており、幾らか気が紛れるものがあった。

 花守の森付近は人手が入らないことで、逆に草食の魔獣には棲みやすい環境なのだが、春と仙がいるお陰か、索敵できる範囲に魔獣の気配はない。ついでに言えば人がいないために神魔デュビィもおらず、夜が明けて再び仮眠を取って以降も、道中は至って静かなものだった。


 州軍が春を求めたのは、そもそも因陀州に囚われたことで戦況が悪化したからだ。春が珊底州に入ったことが確認できたのなら、深追いする理由は半分以上無くなったと言っていい。

 薄雪を狙っていた二人組についてはどこまでの重要度か不明だが、ひとまず上に指示を仰ぐだろう。次の指令が出るまでは殺気立たなくとも良いはずだ。


(ま、そんな事情が頭にあるのは俺だけみたいだがな)


 春は何事もなければただひたすら愚直に歩くだけだし、それに付いていくと決めた薄雪にも焦る理由はない。お陰で、逃避行中のはずの二人の雰囲気は随分和らぎ、会話も弾んでいるようだった。

 その根底には、今までの静かな期待と幽かに孕んでいた恐れとが、良くも悪くも消えたことが理由にはあるだろう。それにより最後に残っていた心の壁を取り払うことのできた薄雪は、少しずつ自分からも口を開くようになっていた。

 春は普段どのように暮らしているのかとか、他の四季と会ったことはあるのかとか、春絶期とは何なのかとか。拙いながらも疑問をそのまま口にする姿からは、最初の頃の翳りが随分消えている。

 春の方もまた、薄雪の表情を見ながら話す内容を厳選しているようだった。まずもって薄雪の不足している常識や知識を補ってやりたいようで、里の子供たちが里塾りじゅくで学ぶようなことを教えてやっていた。


「薄雪は、この世がどのように始まったか知っていますか?」

「えっと、今が神々の去った水の時代だというのは、本で少し、読んだ」

「その前から、世界は幾度も滅んでは生まれを繰り返しているのですよ」

「そう、なの?」

 

 薄雪が想像できないというように自分の足元を見る。

 地面の下には古い時代の怨念が溜まっているというのは、ふらふら遊びに行く子供や夜寝ない子供を脅かしつける常套句だが、どうやらそれすらも知らないらしい。


「何も無いところに最初に現れたのは、無を司る久久無中倍神くくむのなかべのかみだったと云われていますね。けれど何も無い世界だったからすぐに瓦解して、世界は再び闇に包まれた。これを『無の時代』と呼び、その後にも『こんの時代』『らんの時代』『灰の時代』と世界は滅びと創造を繰り返して、今の時代は大洪水の末に残った世界だから『水の時代』と、そう呼ばれていますね」

「じゃあ、今の時代も、いつか滅んじゃうの?」

「そう、ですねぇ。そう考える人もいれば、神々が去ったことで滅びも去ったと考える人もいるようですね」


 不安そうに問う薄雪に、春はのほほんと返す。

 一々矛盾や疑問点を差し挟む楸と違って薄雪は何から何まで素直で、即席の里塾は実に健やかだ。


「神様は、どうしていなくなっちゃったの?」

「どうしてと言われると……主神は時代の終焉とともに姿を消し、新しい時代には新しい主神が生まれてくるのを繰り返してきましたから。いや、主神が去ることで時代も新しくなると言った方が正しいのでしょうか? 灰の時代だと、最後の大洪水で神々――人々はパリョ神族と呼んでいますね――は殆ど死んでしまい、生き残った幸運の女神ラナ・ラウレア・エア・ヒアが次の時代の主神になりましたけど」

「ラナ、ラ……?」

「幸運を司る女神のことですよ。彼女は一人となった新世界で、自らの力を分けて新しい神々――ネオン神族を生み出したのです」

「女神さまも、ネオン神族、なの?」

「え? あぁ、名前ですね?」


 薄雪の疑問に、春がそういえばと破顔した。

 言語や文字は複数存在するが、パリョ神族が用いたという言語は基本的に漢字のみで構成された神言だ。それは天人(マルアハ)から授けられた力持つ言葉であり、華族やその係累に漢字が用いられるのはそれにあやかって始まったと云われている。

 だが一方で、ネオン神族は天人から名を授からなかったと考えられている。神言の名が記録にないからだ。


「彼女がパリョ神族であることは間違いないと思うのですが、時代が新しくなった時に女神も古い名を捨て、新しい名前を自ら付けたと言われていますね。ですがそのうち色々あって最後にはネオン神族と女神は対立し、女神は九魔王を配下に闘ったのですが、最後には肉体と魂と魄を全て三つに裂かれ、非業の死を遂げた遂げたと云われていますね。それ以来、幸運は願って得られるものではなくなり、神々もこの世界から消えたと云われています」


 長ったらしい神話を色々の一言で纏めた春に、楸は内心で呆れかえった。その色々の究明が、仙には大変重要で覚えることも多い面倒な部分だというのに。

 女神がネオン神族を生み出した理由、名前を変えた理由、女神が魔王を従えられた要因、肉体と魂魄、そして神具の行方……神話の謎は他にもある。即席の教師とは気楽なものだ。

 だがまだ学び始めたばかりの薄雪には、それよりも気になることがあったようだ。


「春は、神様とは違う、よね?」


 滅ぶの去るのと不吉な話ばかりが続くものだから、神に近しい春のことが心配になったらしい。春は安心させるように、にこりと笑って授業を続けた。


「僕は精霊ですね。でも僕が生まれるきっかけとなったのは、春分産霊命はるわけのむすびのみことという神様ですよ」

「はるわけ……?」

「今でいう春分の神様ですね。最初、天日あめひの……光と闇の神様の逢瀬が日に日に長引くせいで人々が困っていたから、主神である天宇玉貴大神あめのうたまむちのおおかみが夏至と冬至の神様を生んだのですけど。色々あってその二柱も仕事をしなくなって、喧嘩になって、その橋渡しに生み出されたのが春分と秋分の神々なんです。四季の始まりですね」

「すごい……! 春はそんなに昔から生きているの?」

「その時の春は、厳密には僕ではありませんけどね。記憶は引き継がれますから、この辺りからは知識というよりはやはり思い出という感じでしょうか」

「思い出……つらい?」


 春が一瞬言葉尻を揺らしたのを、薄雪は聞き逃さなかった。抱きしめた鷹鳴枕越しに、春の様子を窺う。

 春は少し考えたあと、


「少しだけ」


 と苦笑しながら答えた。それから、でも、と続ける。


「薄雪ほどではありません。僕のは、もう随分昔のことですから」


 それは、何より春が気にしていたことだった。いつ切り出そうかと悩んでいたのが楸にさえ分かるほどだから、察しの良い薄雪もそれとなくは気付いていただろう。

 薄雪は授業の時よりも僅かに声調を落としながらも、母親との関係や、春を求めた理由、父親のことなどを話した。そして、その目についても。


「目を、見ちゃいけないの」


 薄雪は、相変わらず自分の爪先を見つめながらそう言った。


「わたしと目が合うと、だめなの。見続けると、多分、最後は……」


 薄雪は言霊を恐れるように語尾を濁したが、つまりはその目は息の根も止められるということだろう。

 実際、その目を向けられた楸も、力を奪われるような嫌な感覚があった。あの時は薄雪の視線の一瞬の揺らぎに逃げられたが、あの力に冷徹な暗殺者の思考が加われば楸でも対抗できるかは分からない。

 その目が何を対象としているのかは不明だが、力そのものである春や鬼魄ルアハであれば、完全消滅させることも可能かもしれない。


「目が合いさえしなければ良いのですか?」


 春の重ねての問いに、薄雪は少しの間を開けてから力なく首を横に振った。


「わたしが思うと、多分、だめ……」


 その言葉に、楸は背中で聞きながらぴくりと片眉を跳ね上げた。


(つまり、殺そうと思えば視界に入れただけでも力が影響するってことか?)


 それは、四操術の他に仙術や操花術も扱う楸には随分奇天烈な力に聞こえた。見るだけで殺せるなら、視認可能距離に入った途端相手を無力化できるということだ。


(そりゃちぃと強すぎるだろ)


 使い手が薄雪のような戦闘経験もない鈍臭い小娘でなければ、敵にするには厄介な相手だ。対抗策を考えるにも、そもそも見るだけで発動する通力というものが初耳だ。万物に存在するといわれる精霊でも、そのような特異な力を持つものはすぐには思いつかない。


(いや、確か神話の中にそんなのが出てきたような……?)


 仙となってから具眼者の館エウ・ニ・ルでそれなりに専門的な知識も詰め込んできたが、多すぎてその大半が右から左に流れていった。回収する気は毛頭ない。

 まぁ自分の仕事ではないなと、少しずつ明度を上げる森の木々を見上げていたら、


「だから」


 と薄雪が続けた。


「怒ったり、笑ったりしたら、だめなの」


 それを聞いて、楸は薄雪が泣くにも笑うにも下手くそな理由を知ってしまった。


(また母親からの言いつけか)


 怒りを抱くだけで視界の端に過った相手を殺せるのならば、確かに力を持たない者には恐ろしいだろう。そう言いたくなる気持ちも分かる。

 だが、それで笑うことも禁止するのは不自然だ。恐らく、と思案していたところ、春が異常に奮起して薄雪の手を握りしめた。


「ダメじゃありません!」

「え……?」

「怒るのも笑うのも、薄雪の好きにしていいんです」

「……でも」

「僕は春ですから、平気ですよ」


 困惑する薄雪に、春が勇気づけるように笑う。

 だがそれは逆効果だったようだ。


「……っ」


 ふるふると、薄雪は頑なに首を横に振って拒絶した。それもそうだろう。

 今や春は、薄雪にとって唯一寄る辺となった存在だ。それが消えるかもしれないことなど、試しといえどできるものではない。

 浅慮だったと気付いた春は、押し黙って完全に俯いてしまった薄雪の旋毛を、しゅんと実に悲愴な顔で見つめた。

 だがそれも束の間、やおら薄雪の手から鷹鳴枕を取り上げた。


「ならば、こうしましょう」

「?」

「この鷹鳴枕の目を、僕だと思ってください」


 首を傾げる薄雪に、春が得意顔で鷹鳴枕の顔につけられた鼈甲の目を薄雪の顔にぐいっと近付けた。


「そうすれば、薄雪はもう顔を俯けないでもよいでしょう?」

「……!」

「それに、ほら」


 言いながら、春が薄雪の背に回り、鷹鳴枕ごと薄雪を後ろから抱きしめた。


「!」

「こうすれば、僕と薄雪は同じものを見ています。それに、薄雪は鷹鳴枕の目を見ながら、僕は薄雪の顔を見ることができる。良い案だと思いませんか?」


 それは、他者との接し方を知らず距離が近すぎることを除けば、確かに良い折衷案に思えた。

 男性らしさこそないものの無駄に顔が良いせいで、傍から見れば見境のない好色漢が少女に魔手を伸ばしているように見えなくもないが、まだ年頃ではない薄雪は頬を染めることはなかった。


「見て、いい……」


 今まで言われたことのない言葉を必死に理解しようとするように、薄雪が小さく繰り返す。


「見て……、っ」


 だが声はそこで途切れ、代わりに僅かに項垂れた薄雪の首筋から小さな花の芽がぷつりと顔を出した。


「あっ、えっ、あぁっ、薄雪、あの……っ」


 春が情けなく慌て始め、薄雪は違うというように首を横に振る。

 楸は、付き合ってられないとばかりにとっとと歩みを再開した。



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