第十四話 露と思ひて消えなましものを

 新たな声が飛び込んできたのは、それからどれくらい経った頃だったか。


「凌霄さん!」


 若い男の声に、薄雪は先程見た州軍かと、咄嗟に顔を上げて辺りを見た。

 暮れ方の残照も届かない森は暗いが、男の背後に州軍が掲げる松明の灯りが広がるせいで、その姿は薄雪にも視認できた。楸よりも若く、二十代半ばくらいのすらっと細身の青年が一人、こちらに向かって走ってきている。


「その子がそうですか?」


 二人の前に着いた途端、男は不躾に薄雪を見下ろしてきた。慌てて視線を足元に落とす。その頭上で、二人が構わず続けた。


「随分血だらけですね」

「花を無理に引き抜いたようだ」

「あぁ、半花っすもんね」

「それより、体はどうだ」

「少し舌が痺れる程度ですかね。でもいくら耐性があると言っても、素人の作るものなんて二度とごめんです」

「だがお陰で目的が果たせた」

「果たしてくれなきゃ困りますよ。何のために俺が身を張ったんだか」


 あーあと、男が体をほぐすように伸びをしながら、薄雪を一瞥する。だがそれもすぐに興味が失せたように、声を低めて別の話柄に移った。


「それよりも、知ってますか。近くに春が」

「今回の任務には関係ない。二兎を追うな」

「へーい」


 言い切る前に拒絶した凌霄に、男も気にした風もなく引き下がる。

 そこに、聞き覚えのある声がした。


「……薄雪!」


 木々の間を遠く木霊するその声は、いつもの穏やかなそれとは違って切迫していた。だが、聞き間違えようもない。


「……はる?」


 凌霄の言葉に力が抜け、思考が回らなくなっていた薄雪は、その声に不用意に反応してしまった。それを、男が耳聡く拾った。


「春だって?」

「っ」


 失言だと気付いた時には遅かった。

 凌霄にその気はないようだが、男は機会があるならば春も手に入れたいと考えているようだった。その男に春の気配を知られるのは、きっと良くない。


(どうしよう……逃げなきゃ……っ)


 薄雪がない知恵を絞って出せたのは、やはり春から遠ざかるという答えだけだった。

 声の聞こえた方とは反対に向かって走り出す。だがそれも、凌霄に捕まれた腕がかくんと伸びただけで終わった。


「まだ逃げるというなら」

「に、逃げない、からっ、あ、あっちに……っ」


 表情の動かないまま脅しかける凌霄に、薄雪は言葉を詰まらせながら森の向こうを指さす。だがその先に先程の倍以上の松明が見えて、立ち竦んだ。

 その横で、男が呆れたように腕を組む。


「は? あっちって……本隊じゃねぇか」

「郷都蔡甸さいでんに布陣していた軍か。指揮官は確か……」

蒼迩そうじ!」


 凌霄の言葉に重なって、ドドッドドッという複数の蹄の音と声がすぐ近くで上がる。誰と考える頃には、俯く薄雪の視界の端にもそれらの姿は入り込んでいた。

 無数の松明に照らされた数頭の獣騎うまの脚と、その間に行縢きゃはんを着けた兵士の足と刀の石突とがずらりと隙間なく並んでいる。

 顔を上げられない薄雪には何人いるのか想像もつかないが、最早逃げようという考えなど起こさせないほどであることは明らかだった。

 だがこれらを前に応じる声に、緊張らしきものは一切なかった。


糸繰しそう……」


 嫌そうにさえ聞こえる声で名を呼んだのは、鋭く周囲に視線を走らせていた若い男――蒼迩だった。どうやら顔見知りらしい。

 だが糸繰と呼ばれた馬上の男の目は、険しく吊り上がって若い男と薄雪を交互に凝視した。


「お前、やはり春を……」

「ちげぇよ」


 糸繰の邪推を、蒼迩が言下に否定する。薄暗いからか、どうやら薄雪を春と勘違いしたらしい。

 実際、四季の性別や外見年齢などは四季が生まれる時の諸条件に影響されると云われており、その容姿を知るのは実際に会う他ない。だが薄雪は春の気を発していないどころか、痩せこけた容姿に薄汚れた格好だ。

 糸繰は松明を薄雪に近付けて丹念に確認したあと、小さな落胆を隠して冷静さを取り戻した。


「こんな夜更けに、何なんだその子供は。別任務があるんじゃなかったのか」

「これが別任務なんだよ。ねー、凌霄さん」


 八つ当たりのような嫌味に、蒼迩が子供のように隣の凌霄に同意を求める。

 だが返事をしたのは凌霄ではなく、凌霄に気付いて血相を変えた糸繰だった。


「り、凌霄指揮使司しきしし! 気付かずに申し訳ありません!」

「構わん」


 慌てて獣騎から降りて敬礼する糸繰に、凌霄は軽く手を振って断る。それから、視線を背中側に流して「それに」と続けた。


「勘働きがいい」

「薄雪を放してください!」


 背後の森から響いた中性的な声を待っていたかのように、小さくそう呟いた。

 だが薄雪に、その声の意味を考える余裕などなかった。


「き、来ちゃダメ……!」


 思わず叫んで駆け出す。だが手首が痛むほど筋が伸びただけで、一歩も進めなかった。


「ッ」


 ガクンと体が揺ぐ。その先で、見えてしまった。枝や下草を掻き分けて必死にこちらに向かってくる、春の姿を。


「薄雪!」

「春……っ」


 薄雪は慌てて目を伏せながら、知らず泣きそうになってしまった。

 目を逸らす寸前、花を毟ったせいで血だらけになった薄雪を見て、愕然と蒼褪めた春の確かな怒りが伝わってきたから。


「薄雪に、何をしたのですか……!」


 端麗な美貌を歪ませて、春が薄雪を囲むように並ぶ凌霄や蒼迩、州軍を睨む。

 その眼光に呼応するように、彼らの間に林立する木々がミシミシと不穏な音を立てた。春だ。だが春は、人々には危害を加えないと言っていたはず。


「だ、だめ……」


 どうにか春を引き返させようと、薄雪は声を絞り出す。けれどその瞳を見ることのできない薄雪の想いは届くこともなく。


「薄雪を、返してください」

「それは無理だ」


 低い声で怒気を発する春に、凌霄が無下に即答する。

 瞬間、地中や樹上からミシミシと無理矢理に伸び始めていた枝たちがビュッと鋭い風音を立てて凌霄に襲い掛かった。その気配に薄雪が体を強張らせるよりも早く、凌霄が薄雪を腕の中に抱え込む。

 その横で、蒼迩が矢のように飛び出した。凌霄を狙う錐のように鋭い枝を、次々に切り落としていく。


「随分好戦的な春だなぁ」


 蒼迩が素早い動きに反して暢気な感想を零す。

 その声に気色ばんだのは、傍らで既に柄に手をかけていた糸繰だった。


「やはり春か! 第一から第三隊は私に続け! 春を保護だ! 第四から第六隊は左右に展開、退路を塞げ!」


 凌霄と薄雪を守って舞うように刀を振るう蒼迩を追い越して、糸繰が下知を出しながら真っ先に春に突撃する。その背後に横隊で州軍が続く。

 薄雪が凌霄の腕の隙間から見渡した時には、春の周りをすっかり松明の灯りが囲んでいた。

 赤々と燃える火先が、春の陶器のように白いおもてを前後左右から照らし出す。

 だが、春は止めなかった。


「邪魔をしないでください!」


 薄雪へと向かう足は決して止めぬまま、全身から怒りに満ちた春気を吹き出す。春の息吹というにはあまりに荒々しいそれは、嵐となって森の中を縦横無尽に荒らしまわった。

 そして暴力にも似た春気を受けた草木たちもまた、その意を受けて健やかに暴れ回った。しなやかな枝葉は鞭のごとくしなり、常緑の葉を散らし、近くにいる者を容赦なく嬲る。ずっと沈黙していた冬芽も爆発したように開花し、新芽は瞬きの間に太い枝となって春の行く手を阻害する者たちに襲い掛かる。

 やっと迎えるべき正当な季節が訪れた草木そうもく溢るる森は、最早自然の武器庫に等しかった。

 兵士が頭上の木々を避けて突進すれば、その足元から幹を伸ばした若木がその足を容赦なく貫く。春を取り囲もうとすればその足元から新しい蔦が急激に伸びて彼らを絡め取る。

 深緑の下草や幹には鮮血が飛び散り、雪解けでぬかるんだ地面が倒れた者から呑み込んでいく。

 そこには、明確な殺意があった。


「や……」


 薄雪には、俄かには信じがたかった。


(これが、春?)


 自然や季節が優しいだけの存在ではないことは、誰でも知っている。人でないからこそ無作為に、無差別に、容赦という概念もなく命を奪う。

 だが精霊の春には、優しさがあった。

 雨は柔らかく、霞は美しく、傍にいるだけで穏やかな気持ちになれた。そしてその気持ちを惜しみ無く与える彼は、自らの孤独に苦みながら、それでも人々の幸せを願っていた。

 一切の所縁がなくても、手が届かないほど遠くても、気付かれなくても。遠くに人々の幸福があるのなら、そんなものなどないような顔をして春を与え、そして静かに去ってゆくのだ。

 だから。


(こんな、こんなこと……)


 春が望んでいるはずがない。

 薄雪が凌霄に捕まりさえしなければ、春はいつも通り州軍かれらを静かにやり過ごして、粛然と歩き続けたはずだ。春を待つ人々のところへと。


(わたしが、捕まったから)


 それは、薄雪に息ができないほどの罪悪感を味わわせた。

 自分のせいで、春が望まない暴力を振るい、春を待つ人々を傷付けている。事が終われば、春はきっと酷く後悔し、己を責め苛むだろう。

 春は、薄雪に優しくしてくれた、初めての存在だったのに。


(だめ、こんな……)


 けれど一方で、花が咲いてしまいそうなほど嬉しかった。

 だれかが、自分のために怒ってくれている。自分を守ろうと、危険を顧みず助けにきてくれた。そんなこと、起こるとは思ってもみなかったから。

 自分でさえ諦めていた自分を、抱きしめてもらえたようで。


(こんなこと、考えちゃ、だめ、なのに)


 心が震えるほど嬉しかった。

 だから。


「蒼迩、手を出すな!」

「喧嘩を売られたのはこっちだ!」


 互いに牽制し合いながら春への距離を詰める糸繰と蒼迩に気付いた時、薄雪は考えるよりも前に視ていた。


「やめて……! 春を、傷付けないで……っ」


 凌霄の腕の中で体中に花を咲かせながら、春に迫る二人の横顔を見上げる。先に反応したのは、より手前にいた蒼迩だった。


「な……んだ? 足が重く……」

「もう体力切れか。これだから鶴騎隊、は……!?」


 襲い来る枝を斬り払う動きが一瞬鈍り、それを嘲笑おうとした糸繰もまた肩がぶれる。糸繰はすぐさま春を見たが、蒼迩は怪訝な顔をして薄雪を振り返った。

 目が合う。


「なに、を……?」

「!」


 蒼迩が明確に薄雪を疑う。と同時に薄雪の首筋に鈍い衝撃が走った。凌霄だ。

 刹那だが激しい横揺れが薄雪の視界を白く掻き混ぜ、息が詰まり、続いて耳鳴りがして聴覚が鈍る。花を咲かせ過ぎた時のように、体中から力が抜けていた。


「治った? 凌霄さん、今のって……」

「任務完了、帰還するぞ」


 体の違和感に目を白黒させる蒼迩に、しかし凌霄は説明するでもなく踵を返す。蒼迩もまたいつものことと慣れたもので、「了」と応じると、問いを重ねることなく糸繰と競っていた前線をあっさり退いた。

 だがそれを春が許すはずもない。


「薄雪!」


 凌霄の腕にだらりと横抱きにされている薄雪を見た途端、春は地中に眠っている木の実をありったけ叩き起こした。春の足裏からボコッと現れた枝に乗って、薄雪までの道を妨害していた兵士たちの頭上を一息に飛び越える。


「薄雪! 薄雪を返してください!」


 頭がふらふらと揺れ、今にも瞼が閉じそうな薄雪に手を伸ばす。その姿が、意識が朦朧とし始めた薄雪には、ぴかぴかと光って見えた。


(きれい……)


 薄暗い森の中で春だけが、夜明けの最初の光を吸って輝く新緑のように光を放っていた。見てはいけないのに、視線が惹き寄せられる。自分に伸びるその繊手が、朝露を集めて作った宝石のように神々しい。

 そう思って、気付いた。


(あぁ、夢、叶ったんだ)


 その手は、あの小さな室でずっと、薄雪が期待していたものだ。

 いつか母が――誰かが、薄雪の手を取って、外に連れ出してくれるのではないかと。他力本願に夢を見ていた。


「は、る……」


 薄雪もまた、力の入らない体で必死に手を伸ばした。夢想が現実になるように。


「薄雪は! 幸せにならなければいけないんです……!」


 必死に手を伸ばす春の背に、追いついた兵士たちが群がり押し潰す。それはもう、朦朧とする薄雪には見えていなかったけれど。


(あぁ、もう……)


 死んでもいい、と、死にたくない、が、溶けた蝋のように混ざりあった。




       ◆




 もう少しと思った瞬間引き離された二つの手を樹上から見下ろしながら、楸は大きな大きな溜息を吐き出した。


「あいつ、ひとっつも約束守らねぇじゃねぇか」


 薄雪を守るために凌霄を追いかけるかどうかで押し問答になった末、折れたのはやはり楸だった。

 あそこで春に力を使われれば、近くで捜索している州軍に居場所を報せるようなものだ。それよりは、条件をつけて穏便に済ませた方がいいと考えた。

 その第一の条件が、軍に攻撃しないことだった。攻撃すれば捕縛の正当性を与えてしまう。そうなれば因陀州の二の舞だ。

 それよりは冷静に交渉し、隙を見て薄雪を奪還、即座に離脱するのが最も賢い方法だった。それも楸が交渉役になり、春は隠れて不測の事態に備えるのが最も危険度が低い。のだが、この配役は楸は信用ならないという一言で一蹴された。


『だったら、何が何でも捕まるなよ。もし軍が合流してきたら、まず撤退しろ。その後で』

『嫌です』

『あぁん?』


 口煩く釘を刺す楸に、しかし春は歩を緩めることなく頑迷に拒絶した。


『危なくなれば子供を見捨てて我が身を守れ、ですか?』

『そうだ』

『……仙の立場は分かります。けれど、あの子をこの地に置き去りにして、その後はどうなると思いますか』

『俺が知るか』

『母親に騙されて追い出され、戻ってきたら軍に売られ、どこにも帰る場所がないのですよ。頼れる者もいないと分かっている子供を見捨てて、その先がどうなるかなど、容易に想像がつきます』

『逞しくなるかもしれないぞ』

『その可能性が少しでもあるのなら、あの目を使うことに心を痛めたりしていない……』


 さもあらん。

 あの陰気で鬱屈とした枯れ木が如き子供にそんな可能性があるなら、そもそも楸は旅の同行を許しはしなかった。


(俺も甘くなったもんだな)


 仙の仕事は憐れな子供の救済ではない。四季の正しき巡りだ。

 大体、薄雪が兵士に連れていかれたとしても、必ず不幸になると決まったわけでもない。それにどんなに連れまわそうとも、いつかは離れなければならない時が来る。

 全ては春の勝手な思い込みで、独り善がりな願望で、その場凌ぎに過ぎない。

 だが。


「お待ちください、凌霄指揮使司」


 数の有利でついに春を捕獲した糸繰が、既に歩き出していた凌霄を呼び止める。


「薄雪……っ」


 いまだ諦め悪く押し潰されている春を一瞥してから、凌霄の腕で気絶している薄雪に視線を止めた。


「春の異常行動は、どうやらその半花に一因があるようです。連れていく前に事情を聞きたいので、引き渡して頂けますか」

「それはできない」


 凌霄は、まるで続く言葉を予測していたように言下に拒絶した。生真面目そうな糸繰の顔が明らかに硬くなる。


「……春を独占する者は重罪です。たとえ鶴騎隊といえど」

「おっと」


 納刀しないまま一歩踏み込んだ糸繰と凌霄の間に、蒼迩が忠犬さながらに割り込んだ。


「そっちは春を確保できたんだからいいだろ」

「それとこれとは話が別だ」

「おいおい。それ以上融通の利かないことを言うなよ。面倒が増えるだろ?」

「血の気の多い奴がよくも言う」


 しまりのない顔で笑いながら白々しく刀を構える蒼迩に、糸繰もまた静かに間合いをはかる。互いの体が静かに平行を取る。


(頃合いだな)


 両者の意識が完全に互いに向いたその瞬間を狙って、楸は薄雪を抱える凌霄の腕の筋を風気で切り裂いた。


「ッ!」


 シュッと布が裂ける音とほぼ同時に凌霄が体を逸らす。だが僅かなその刹那に楸もまた疾風を纏って凌霄に体当たりした。凌霄がすかさず薄雪を守るが、血の滲む腕の力は明らかに弱い。緩んだ腕から薄雪を強引に回収する。


「なっ、仙!?」


 蒼迩が声を上げるよりも先に凌霄が無言で斬りかかってくる。が、これも予想の範疇だ。風気を纏ったまま背後に跳んで避けながら、春の眼前に着地する。と同時に春に群がる兵士を風圧で一気に押し潰した。


「楸……」

「行くぞ」


 呻く兵士たちの中、難を逃れた春が無様に泥から顔を上げる。薄雪を荷物のように左肩に担ぎ直しつつ、春に右手を差し出す。それを合図に、春が再び足元に眠っていた木々に急成長を促した。


「な!?」


 糸繰たちの驚いた声が一気に遠ざかる。伸び続ける枝に運ばれた三人は、そのまま一気に樹冠を飛び越えた。

 夜空には、今宵も二つの月が下界の騒ぎなど知らぬ顔で浮かんでいる。光を司る天日邇岐志神あめひのにきしのかみの右目と言われる大きな妻月めつきは赤みがかった半月で、その傍らには姿を変えることのない小さな弓月ゆづきがある。

 昇り始めたばかりの双月は、赤みがかった月光を降らして闇に沈む足下の森を淡く不気味に照らしている。ここまで来れば、凌霄ほどの通力でも捉えることは叶うまい。

 楸は木々が成長限界を迎えると同時に再び跳躍すると、そのまま月の光が導くままに森の上を跳び続けた。




       ◆




 月光に照り映える雲の間を流れる無人の沖島ひーるとうの廃墟の一角で、一人の男が水仙の茂った泉を覗き込みながら子供のような悪態を吐いていた。


「あな嫌じゃ嫌じゃ」


 底に沈む瓦礫も見通せるその水面には、水底にはないはずの複数の人影が映っていた。声などは聞こえず、遠くの状況を盗み見ているようにぼんやりとしているが、男にはそれが何か、はっきりと理解していた。

 だから嫌になって、水面を手でじゃぶじゃぶと掻き混ぜた。そのまま水際に寝っ転がって、満天の星辰を仰ぐ。


始終ずっと偽りの楽園で、無知なままじっとしていてくれればしものを」


 届かぬと分かっている不平を零す。

 本音で言えば、何も見たくなかった。

 けれど見なければならぬ。それが男の生きる意味に等しいがために。

 そして見なければならぬのならば、一切の変化のないようにと願った。それならば、また十年百年ととせももとせは静かに暮らせただろう。男だけは。

 だが此度は、どいつもこいつも彼女を歩かせ、追い立て、暴いて、手を差し伸べる。結末はろくなものにならないと、分かり切っているのに。


やはり魂というやつは、千切れようと幾千歳いくちとせと経ようとも、変わりようのなかりけり、か」


 まったくこうじたものよと、長々しく嘆息する。

 空に浮かぶ廃墟に、その嘆息を案じる者はただの一人もいない。

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