第十三話 あさきゆめみし

『その花が』


 男がそう呟いた瞬間、薄雪は何故か分からないけれど確信した。

 あの男は春を捕まえにきたのではない。薄雪が咲かせる花を狙ってやってきたのだ。

 そう理解した瞬間、薄雪の脳裏を過ったのは母の声だった。


『半花を快く思わない者もいる』

『あの方に知られたら』


 それが具体的にどんな意味を持つのか、幼い薄雪にはまだ理解が難しかった。

 ただあの男の視線を感じた瞬間、圧倒的に良くないものだと本能が理解していた。

 最初は恐怖に身が竦み、次には春が必死に自分を抱きしめる腕を感じて、ぞっとした。


(離れなきゃ)


 何の考えもなく走り出したから、春が追いかけようとするのを止める言葉も上手く言えなかった。

 春は歩き続けなければならないと、楸が言っていた。自分が狙われているのなら、巻き込んではならない。


(どこに、向かえば)


 行く宛など、何も思い浮かばない。ただ楸が進んでいた方向と違う方へ行かなければならないと、それしか考えられなかった。

 薄雪は、みんなから離れなければならない。一緒にいてはいけない。

 薄雪が、半花だから。


(わたしがいるせいで、みんな苦しむ……っ)


 ずっと堪えていた涙が、もうそろそろ溢れ出してしまいそうだった。

 好きで半花に生まれたのではない。けれど外に出られないのも、母を苦しめるのも、こうして追われるのも、薄雪が半花だからだ。


「……っ」


 首筋に、手の甲に、太腿に、赤紫色の花がぷつぷつと芽を出す。もう嫌だと、喉元まで出かかった。

 怖いのも、逃げ回るのも、自分のせいで誰かを苦しめるのも、もう何もかも嫌だ。逃げられるものなら逃げ出してしまいたい。

 けれど薄雪には逃げる先さえない。


『ずっと因陀州にいてくれれば良かったのに』


 母の言葉が、繰り返し繰り返し薄雪の小さな胸を滅多刺しにする。いっそ、もうここで全て諦めてしまおうか。そんな希望が鼻先にちらつく。

 最初からそうだった。母に閉じ込められた時から。追い出された時から。足掻いたりせず諦めていれば、こんな苦しみを味わわずに済んだ。薄雪も、春も。

 けれどここで諦めて、それで母や春は安全だろうか。


(分からない……っ)


 事情も何も知らない薄雪には、どこまで頑張ればいいのかも、もう諦めていいのかも、皆目分からなかった。だから結局、走るしかない。


(もう少し……もう少しだけ……っ)


 はぁっはぁっと荒い呼気を吐き出しながら、がむしゃらに走り続ける。

 視界は紫がかった黄昏の薄闇に同じ木々が続くばかりで、もう自分がどこに向かっているのかも定かでなかった。でもきっとそれでいい。

 この鷹鳴枕さえあれば、まだ走れるから。春から、里から、少しでも離れる。そうすれば。


「……して、手分けして探せ! 方角は間違っていないはずだ。穴を作るな!」


 それは、厚い木々を隔てた向こうからでもよく響くどすの利いた声だった。

 聞き覚えはない。けれど暮れ方の森に点々と赤い松明を掲げて進む集団が何なのかは、物を知らない薄雪でもすぐに分かった。


「へい、し……?」


 気付けば、足が止まってしまっていた。楸が起きろと言った時には勘違いだったはずの絶望が、今度こそ薄雪の全身を絡め取る。

 分かった、と言ってくれた母は、ついに現れなかった。代わりに現れたのは、もしかしたら薄雪を殺すかもしれない男と、何人いるのかも分からない兵士――きっと、春を捕まえようとやってきたのだ。

 だが何よりも薄雪を打ちのめしたのは、その兵士が何故春のことを知っているのかというただ一点だった。


(……お母さん、が……?)


 春が森にいると知っているのは、里では母だけのはずだ。そして薄雪は、母に誰にも言わないようにとは言わなかった。楸にあんなに釘を刺されていたのに。


「……ぁ……あぁ……」


 押し止めたはずの涙が、今度こそぽろぽろと零れて、薄雪のこけた頬を濡らした。花は次々に咲き、力はどんどん抜けていく。鷹鳴枕がぽとりと落ちる。思考が緩やかに停止する。

 呆然とするその頭に、何故かいつかへやの窓を叩いた音が響いていた。


 コンコン、コンコンと。


 最初、それが人の手によるものだと思わず、薄雪は何かが外から当たっているのだろうと、何の気なしに近寄った。

 民家には高価な硝子などは使われない。薄雪の部屋にあるのも、細かい格子が嵌められているだけで、隙間から目を凝らせば外の景色が少しだけ見えるのだ。

 だがその時に見えたのは雪の積もった裸木ではなく、目だった。


『!?』


 薄雪は勿論驚いた。腰を抜かして、それから慌てて顔を伏せた。

 その薄雪に向かって、その目――男は言ったのだ。


『我々は不当に虐げられている半花を見出し守る者だ』


 外の世界を知らない薄雪は、その言葉に疑問符を浮かべるしかなかった。

 薄雪には自分が『不当』に『虐げられている』という自覚がそもそもなかったし、何から『守る』のかも想像がつかなかった。

 薄雪は、何を言われても分からないと首を横に振るしかなかった。だというのに男は何日も窓外に通い、根気強く話しかけた。

 そしてある日、こう言った。


『花を見せてはくれないか』


 と。

 勿論、薄雪は断った。誰かに花を見られてはならないと、母にきつく言われていたからだ。

 だが、花によってはそこから出してあげられるかもしれないと言われ、薄雪は単純に期待してしまった。

 数年前から、家どころかこの小さな室からも出られてなくなってしまった薄雪にとって、外を見てみたいという気持ちは日に日に強まっていた。

 少しでいいから、外で楽しそうにはしゃぎ回る子供たちのように、疲れるまで雪を蹴散らして走ってみたかった。一度でいいから、伸び伸びと手足を伸ばして、ふかふかの雪に寝っ転がって、遮るもののない空を見上げてみたかった。

 だから、花を咲かせた。

 その日から、男は来なくなった。

 母に春を探してきてと言われたのは、その数日後のことだった。


(本当は、突然なんかじゃ、なかった)


 母の初めてのお願いに舞い上がって忘れていた、今までと違う出来事。何の繋がりもないと思っていた記憶が、今更ながらに蘇る。

 きっと、薄雪があの男に花を見せたことが、母に知られてしまったのだ。だから薄雪を追い出した。春を探すという、十一歳の子供には到底叶えられないような頼みを口実にして。


(だめって、分かってたのに)


 期待してはならないと、今まで幾度となく思い知らされてきたのに。薄雪は何度も同じ過ちを繰り返した。今度こそはと期待して、その度に裏切られる。

 心が、弱いから。


(……はし、らなきゃ、いけないのに……)


 花は最早全身に咲き乱れ、生気を吸われたかのように足に力が入らなかった。ようやく闇に目が慣れたと思ったのに、また周りが暗くなった気がする。


(見えない……何も)


 柔らかな地面を伝って、無数の足音が振動になってどんどん近付いている。兵士が春を探しているのなら、薄雪など眼中にないはずだ。このまま木立に身を隠しながら、走って逃げればいい。

 けれど体は、少しも言うことを聞かなかった。因陀州で刷り込まれた恐怖が、こんな時に薄雪の足を縛り付ける。違うと分かっているのに振り払えなくて、薄雪は近くの木の根方に蹲って身を隠すので精一杯だった。全身が心の臓になったみたいに体中がどくどくと激しく鳴っている。


(早く……早く通り過ぎて)


 震える両手を握りしめて祈る。だが現実はいつも薄雪を裏切る。声と足音は確実に薄雪に近付いてきていた。そして、声がした。


「……なんだ? あの光」

「っ」


 花だ。薄雪の花は、夜でもぼんやりと淡い光沢を放つのだ。傍に光源があれば見間違い程度で済ませられる明るさだが、今は体中に赤紫色の花弁が咲き誇っている。


(花、隠さなくちゃ……っ)


 薄雪は汗が噴き出す手で、衣の外に出ている花を手当たり次第摘み取った。母がしてくれた時とは比較にならない手荒さで、何度も皮膚が裂けた。顔も腕も裂傷で血だらけになる。


(痛い)


 けれど手を止めず、血のついた花弁を握り潰しては懐に突っ込む。


(痛い……っ)


 また涙が出て、また花が咲きそうになる。かさかさの唇を噛んで堪えて、また花に手を伸ばす。その手を、そっと掴まれた。


「っ?」

「やめろ」


 続く低い声に、薄雪はびくりと動きを止める。顔を上げるべきなのに、薄雪は怖くて何もできなかった。

 だって、この声は。


「お前が、薄雪だな」


 先程襲い掛かってきた、凌霄と名乗った男のそれだった。

 追い付かれたのだ。当然だ。遠目に見た男は上背があり、発育不良の薄雪とでは歩幅からして違いすぎる。


「私は珊底州は主衙しゅが鶴騎かくき隊の凌霄りょうしょうだ」


 凌霄は、薄雪の手首を掴んだまま改めてそう名乗った。薄雪にはどれも耳馴染みのない単語ばかりだ。そして薄雪には、凌霄がどんな部隊に所属しているかよりも、手首を掴んだその手が次に何をするかの方が重大事だった。


「……わたし、を、殺すの?」


 声は震えていた。

 死ぬこと自体は怖くない、はずだった。冬の森で魔獣に追われた時も、恐れたのは死よりも母の願いを叶えられないことだった。

 けれど今は、殺すという言葉が酷く胸を抉った。帰る場所を失い、生きる理由さえ、無くなったというのに。


(どうして……前は、平気、だったのに)


 あの室にいた頃は、生きるも死ぬも興味がなかった。現実味がなかった、といった方が正しいだろうか。

 あの室を出てからも、母の望みを叶えるためだけに生きたいと願った。けれど母に拒絶され、目的を失った今、何故死に恐怖する必要があるのか分からない。

 分からないのに。


(……はる)


 春の、最後に聞こえた傷付いたような呼気が蘇る。

 未練がある、と気付いた。


(春、は)


 優しかった春を、拒絶してしまった。拒絶されることの悲しさは、薄雪が誰よりも知っているのに。

 楸も、厳しくて怖くもあったが、無闇に傷つけることはしなかった。そのせいで、無意識に二人に守ってもらえると甘えていたのかもしれない。だから、その二人を掻い潜って現れた死に、こんなにも怯えるのか。


 ここには楸も春もいない。薄雪が視れば逃げられるかもしれないが、一時凌ぎに過ぎないことは分かっていた。必ず追い付かれる。それまでの間中、薄雪は迫りくる死に恐怖し続けることになる。


(どうしよう……怖い……)


 掴まれている手首が、石にでもなったように硬く冷たく感じる。流し慣れない涙と花と恐怖で、意識が遠くなる。


「それを決めるのは私ではない。ひとまず、一緒に来てもらう」

「や……」


 怖い。凌霄の声は今まで聞いた誰よりも凄味があり、薄雪の頭はただそれだけに支配されていた。


「自らの足で歩くなら、危害は加えない」

「ぁ、あの……」


 歩きだす凌霄に、薄雪は抵抗らしい抵抗もできないまま引きずられていた。頭の中では、嫌だとか待ってという言葉がぐるぐる回っている。

 どうにか口に出来たのは、浅ましいことに母のことだった。


「わた、わたし、お母さんを、ま、待たなきゃ」

「彼女は来ない」

「――――」


 凌霄の即答に、薄雪は今度こそ言葉が出なくなってしまった。

 何故母のことを知っているのか。

 何故来ないと断言できるのか。

 理由を知っているのか。

 春のことを、州軍に告げに行ったからなのか。

 問いが幾つも蠢いて絡まって、喉に詰まって息ができない。

 ただ、こんな時だというのに何の役にも立たない言い訳だけが口から飛び出そうだった。


(もう、出たいなんて思わないから)


 扉を閉める母の背中が、何度も何度も蘇る。


(お母さんがいいって言うまで、目も開けないでいるから)


 目が合った瞬間の、母の恐怖に歪んだ顔が薄雪を責める。


(だから、お願い、嫌わないで)


 口に出せなかった願いが、積もり積もって泥沼となって、小さな薄雪をぐちゃぐちゃに押し潰す。自分の願いだけで、もう、息もできない。


(……本当は、知ってた)


 でも、知りたくなかった。

 気付きたくなかった。

 ずっと目を背けて、真実など何も知らない愚か者のままでいたかった。

 だって、知ってしまったら、もう手を伸ばせない。無知のふりをして縋れない。


現実ほんとうを、突き付けないで)


 死ぬのが怖いのではない。

 母が、薄雪の死を肯定しているという事実に向き合わねばならないのが、何より恐ろしかったのだ。

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