第十二話 来ぬまでも待たましものを

 答え合わせは、幾つも重なった静かな足音によって行われた。


(やっぱりな)


 多少の落胆を覚える自分に呆れながら、楸は樹上から黄昏色の森の中へと飛び降りた。


「起きろ、二人とも。走るぞ」

「ふぇ?」

「……」


 寝惚け眼の春より速く、薄雪が鷹鳴枕を抱き締めて立ち上がる。遅れて覚醒した春がその手を取り、楸の背について走り出した。

 樹上と違い樹下は鬱蒼とした枝葉により既に薄暗かったが、楸は予定通り西へと進路を取った。相手が軍なら、春の気配を頼りに向かっているだけだ。先に相手を発見し、なおかつ所在を結界で誤魔化しているこちらが優位だ。

 問題は、仙術で視界を保てる楸と違って、薄雪が度々木の根や草に足を取られて転ぶことくらいだが。


「っ」

「薄雪! 僕の背中に」

「だい、じょうぶ」


 過保護な春の申し出に薄雪が首を横に振って拒む傍ら、楸は再び遠く音を拾った。妙な会話だ。


糸繰しそう!? お前、何故ここにいる。郷都で構えてたはずだろう』

『お前こそこんな田舎で何してたんだ。春を取り返すのに少しでも戦力が欲しいって時に』

『怠けてたみたいに言うな! 俺は州司直属の精鋭だぞ。今だって……ええいっ、とにかく邪魔すんなよ。やっと尻尾を掴めそうなんだ』

『手柄を横取りする気か? だから術士はずるいってんだ!』

『は!? 知るか!』


 二人の若い男が何やら低俗な内容で言い争っている。明らかに軍務と関係なさそうに聞こえる。

 察するに、別動隊でも合流したのだろうか。蹄の音が合間に聞こえるから、両者とも隊長格か指揮官ではあろうが。


(春とは別件か? どちらにしろ、少し厄介だな)


 軍は春を単独と仮定し、常に北上し続けると想定しているはずだ。軍が駐留しているであろう郷都は東にあるから、穏堵おんとの森の中を州境に沿って西に進んで梓旦したん郷を迂回すれば、逃げ切れると考えたのだが。


「まさか、仙か?」

「!?」


 前方から意外そうな声が聞こえて、楸は続く二人を背に庇って停止した。

 残照も届かぬ薄暗い森の向こうに、体格の良い男がいた。馬はいない。平民と考えれば、年の頃は四十歳前後だろうか。肩幅の広さやその厳つい雰囲気からも、一兵卒には見えない。距離はまだあるが、既に隙がない。


(州司の精鋭……こいつもか)


 春がいるから潜行能力は使っていなかったとはいえ、移動していた楸を光源も持たずに視認したことから、通力は十分高い。

 加えて、先程の若い連中よりも近距離にいたのに、楸に気取られずに近付いた。経験も相当だろう。

 二人を守りながらの戦闘では、多少手間取るか。


「西の具眼者は怠惰だと聞いていたから、この件ではまず動かないだろうと思ったが……これは想定外だな」


 油断なく歩を進めながら、男が独り言ちる。

 うちの具眼者あたまはどこまで信用がないのかと呆れていると、今度は男が話しかけてきた。


「私は珊底さんて州は主衙しゅが鶴騎かくき隊の凌霄りょうしょうと申す。できれば交渉で済ませたいのだが」

「はぁ?」


 予想外の発言に、楸は大袈裟に顔を歪めた。

 主衙軍と言えば主に州府の守護を担う部隊で、その中でも羽族うぞくで最も高貴な鶴の名を冠す鶴騎隊は州司直属の機動部隊であり、その存在を知る者は皆一様に関わりたくないと思う相手でもある。

 州司の精鋭という言い分は、あながち自惚れでもない。その精鋭が、春を守っている仙に交渉とは。

 智謀の将なのか、無謀な阿呆か。


「……楸、僕は……」


 無駄な口出しをしようとする春を後ろ手で下がらせながら、楸は呆れ切って答えた。


「交渉の余地はないと、承知のはずだが?」


 ぴくり、と一瞬凌霄の足が止まる。その後の判断は早かった。


「……致し方あるまい。推し通る」


 声が届くのと同じ速さで凌霄が地を蹴った。楸も躊躇なく駆け出しながら、後ろ髪を括った飾り紐を右手で引き抜く。ピンッと通力を流すと同時にガンッと、まるで鋼同士がぶつかり合うような硬質な音が鼻先で響いた。

 幅広の刀と飾り紐がギギッと鼻先で鎬を削り合う。


(馬鹿力か)


 楸は仙術で補っているだけで、巨漢でも筋骨隆々でもない。単純な力攻めでは分が悪い。武器を壊すかと見た一瞬の隙に、無表情に刀を押し込まれた。

 僅かに膝が沈む、と見せかけたその死角から、横っ腹めがけて左手で風の刃を叩き込んだ。


「ッ」


 凌霄が横っ飛びに吹き飛ぶ。が、手応えは薄い。


(寸前で反対側に避けたか)


 筋肉のついた鈍重そうな見た目に反し、動きは機敏だ。しかも武器破壊もできないときた。精霊の加護か、魔力が練り込まれているか。一応殺さずと考えていたが、早くも面倒になってきた。


(……因陀いんだ州と珊底さんて州で一人ずつなら、まぁ釣り合いが取れるか?)


 右手の飾り紐を軽く揺らしながら、例の郷司の件で帳尻が合うなと不謹慎なことを考える。だが対する凌霄は、特に負傷した様子もなく、飛びのいた先で危なげなく立ちあがった。


「できれば、仙は殺したくなかったが……」


 ちゃきり、と鍔を鳴らす。どうやら思考は同じらしい。

 そこから、激しい通力の応酬が始まった。

 凌霄が駆け出しながら水気を呼び寄せる。それが岩盤をも貫く弾丸となる前に、風気で自身の前に渦巻く盾を構築した。触れた水の礫が弾かれて霧散し、視界が一瞬白く濁る。と同時に地面に触れて凌霄の到達予想地点に泥沼を作る。


「!?」


 霧の向こうで、ぐちょ、と大きく足を取られた音が響く。そこに無数の氷柱を叩き込もうとしていた楸は、寸前で切り替えて土で生き埋めにすることにした。

 その瞬きほどの逡巡の間に、霧から刀が突きこまれた。


「!」


 反射的にのけ反る楸の頬の皮膚を、豪胆な刃先が僅かに掠め取る。


(あの泥沼を突っ切ってきたか!)


 通力も相当だが、やはり胆力が高い。一瞬でも拘束に留めようと考えた楸が甘かった。楸は避けた刀に顎を沿わすように踏み込むと、迫った男の喉元目がけ容赦なく飾り紐を突き付けた。


(捉えた!)


 そこに、あり得ない招願文が聞こえた。


「乞いや来い請い、ところや稠。いざさせ給え、や、彼我の身を置き替え給え!」

「な!?」


 眼前にあった男の姿が一瞬で掻き消え、代わりに半透明の処ツ精が現れ、それもまたすぐに露と消える。


(戦闘で空間移動だと!)


 精霊術は、簡単に言えばあらゆる場所に存在する精霊を呼び寄せる召喚法だ。中でも空間の概念から生まれた処ツ精は特に曖昧で、これを理解し呼び寄せるには相性とともに相当な修練が必要となる。

 しかも欠点もある。仕掛けや道具がなければ遠方からは呼び寄せることはできず、またできることも術者と処ツ精の場所を入れ替えるだけ。

 つまり。


凌霄あいつは俺の可視範囲内にいる)


 楸は全方位に水の結界を張りつつ背後を振り返った。だが予想された襲撃はない。


(どこに……春か!)


 思考は刹那、戦いの中で距離の離れてしまった春を探す。

 案の定、怯える春と薄雪の数歩手前に、男の背中があった。最初からこちらが狙いだったのだ。

 風気を纏って一気に跳躍するが、間に合わない。


「薄雪、目を使え!」

「っ」

「それはいけません!」


 楸の怒号に、当の春が薄雪を抱きしめて割り込んだ。人間に攻撃もできないくせに何を悠長に。


「だったら逃げろ!」


 腹立ち紛れに叫ぶ。


「薄雪、走ってください!」

「っ、は、ぃ」


 春が硬直する薄雪を引っ張って走り出した。その僅かに生まれた猶予で、楸は男の背中めがけて風の刃を振り放った。が風刃がその背に届く直前、凌霄の姿が再び招願文とともに掻き消えた。

 瞬き一つ、次には逃げる二人の前に現れる。


「ッ!」


 春が慌てて薄雪を抱き留めながら立ち止まる。と同時に傍らの木に手を伸ばす。途端、小さな脇芽が爆発したように一斉に伸びた。凌霄との間に即席の柵を作り上げる。

 だというのに、凌霄は刀に火を纏わせながら躊躇なく振り抜いた。


「ッ」


 ザクッと鋭い音がして幾本かの枝が吹き飛ぶ。薄雪がびくっとしゃがみ込み、それを守るように春が頭上から覆いかぶさる。

 その隙間から、紫色の花が開いた。

 薄雪だ。

 その瞬間凌霄の目の色が変わったのを、楸は確かに見た。


「……その花が」


 凌霄が再び火の粉散る刀を振り上げる。その頭を、追い付いた楸が大量の水とともに押し潰した。


「ぐァッ」

「止まってんな! 走れ!」

「っ、えぇ――薄雪!?」


 楸が叱咤し、春が再び呼応する――その前に、薄雪が春の腕をすり抜けて走り出した。


「薄雪、待ってくださ」

「来ないでっ」


 慌てて追いかけようとする春を、薄雪が悲鳴のような声で拒む。その瞬間の春の顔を、楸は見たくはなかったが見てしまった。


(だがまぁ、利口な判断だ)


 命の危険から逃げるのは生物の本能だ。そしてその危険が春といたせいだと理解したならば、弱者である薄雪に打てる手は一つしかない。春が追ってきては意味がない。


(少し、薄雪あいつらしくないが)


 楸にとっては、ある意味ありがたい判断ではある。今は春を守るという第一義がある。気紛れの行きずりを気に掛ける余裕などない。

 凌霄も、当然のようにあの量の水でも圧死していない。だがさすがに多少は効いたようだ。水圧で凹んだ地面の中で激しく咽ながら、刀を支えにその身を起こす。

 先程まで無感情に見えた瞳が、ギンッと楸を睨み上げる。楸も呆然としたままの春を背に回し、次の一手に備えて飾り紐を構えなおす。

 来る、と身構えたその脇を、男が猛然と駆け抜けた。


「は?」


 今度は楸にも春にも目をくれない。二人を無視して、何もない方へと走る。


(まさか、撤退?)


 あのやる気でそれはないだろうと、処ツ精を警戒する楸の後ろで、春が叫んだ。


「……薄雪!」

「は?」

「薄雪です! あの男、薄雪を追いかけたのではないですか!?」

「はぁ? 何で……」


 そんな必要があるんだよ、と言いかけて、確かに方向が一致する、と楸は気付いた。そこでやっと理解する。


「まさか、狙いは春じゃないのか?」


 凌霄の最初の言葉を思い出す。

 春について交渉するなど一考にも値しないが、それが半花――薄雪についてだったとしたら。

 確かに、具眼者は四季以外にも高い通力持ちや珍しい花を咲かせる半花を管理、保護することはある。そのまま仙となって入山することもあるからだが。


「そんなことはどうでもいいですから、早く追ってください!」


 道理で噛み合わなかったわけだと一人納得した楸の肩を、春がぶんぶん揺らしてくる。だがそれに、楸は意味が分からないと顔を顰めた。


「あ? なんでだよ」

「何でって……あの男の狙いが薄雪なら、それこそ彼女を守らなければ!」


 勢い込む春の予想通りの答えに、楸は呆れながら一蹴した。


「あり得ない」

「え?」

「大体、あの男の狙いが何かなど確かめられもしないってのに、薄雪がお前から逃げた事実をすり替えて納得したいだけじゃないのか」

「それ、は……」


 見過ごせない現実に、春が痛々しい程に息を呑む。

 春は常に歓迎されるが、傍にいることを望まれることは決して多くない。殆どの良識ある者は、春と必要以上に関わることを避け、危険を感じれば逃げる。それが当たり前だ。

 春を守るために自ら遠ざかる者など、それこそ数少ない。

 だが春は、否定も悲嘆もしなかった。


「それなら、それでいいのです。でも、そうでなかった場合、薄雪がもし傷付けられることになったら……」


 愚かなことだと、楸は内心で嘆息した。

 楸も本心では、薄雪が凌霄から逃げたのではと思っている。だがそうでなかった場合、事実を知って傷付くのは春自身だ。それでも、万が一の薄雪の身を案じて藻掻いている。

 楸は、願望の籠った夢など見るなという戒めを込めて、辛辣に続けた。


「春にとって、これはある意味好機だ」

「好機? 何が……」

「あの男が州軍とは別の目的で動いていたのなら、薄雪を陽動にこれから来る州軍を誤誘導して時間を稼げる」

「な……」

「戦闘の痕跡を消して、春の気配を散らして、もう一度結界を張れば……」

「……分かりました」


 先程まで瞠目していた春が、珍しく素直に引き下がった。その表情は硬く、精霊らしく美しいからこそ凄味がある。

 が、楸は構わず話を進めた。


「なら、薄雪たちの逃げた方向にひとつ花でも咲かせてもらおうか」

「ご自分でどうぞ」

「……おい。分かったんじゃねぇのかよ」

「えぇ、分かりました。あなたが、人でなしだということが」

「仙だからな」


 淡々と掌を返した春に、楸があえて低い声で凄む。

 睨み返す春の新緑色の瞳には、磨かれる前の原石が持つ、誰彼構わず傷つける鋭さがあった。薄雪を見守っていた時のような温かみは微塵もない。


「やる気か?」


 春の機嫌を損ねるのは得策ではない。頭では分かっているが、そろそろ事あるごとに反発する春に苛立ちが勝ってきていた。いざとなれば、拘束してでも引きずって行く。

 その意図を、春も敏感に感じたらしい。二人の足元でびきびきと地面がひび割れ、周囲の木々が嵐を予感したように激しく枝葉を揺らしだす。


「四季は、守られるだけの存在ではありません」

「春の植物しか操れないあんたに、勝ち目はないぞ」

「元華族程度の操花そうか術に、四季が負けるとでも?」


 意想外の切り返しに、楸は小さく瞠目した。


「……気付いてたのか」

「何故操花術を隠すのです? 仙で華族ならば、兵士に無理を言うことも可能かもしれないのに」

「余計なお世話だ」

「であれば、あなたが僕を止めることもまた、余計なお世話です」


 ビキビキッと、両者の足元から爆発するように植物が一斉に伸びる。

 楸は致し方ないと、冷徹に判断を下した。


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