第十一話 絶えなば絶えね

 森の中からではそろそろ赤みがかった太陽の残滓ばかりしか見えなくなった頃、ようやく薄雪は戻ってきた。


「薄雪! 良かった……遅いから心配しました」


 枝の上で昼寝をして待っていた楸の足下で、春が主人の帰りを待っていた忠犬のように飛びついた。

 やはり薄雪を迎えに行こうと、もうかれこれ二十回以上は催促されすっかりうんざりしていた楸は、やっとかと伸びをした。


(これでやっと小姑のように小うるさい春から解放される)


 四季がここまで人間に肩入れするとは予想外だった。今まで同情も憐憫もかなぐり捨てて歩き続けてきた反動だろうか。

 ともあれ、これで予定外の同行者である薄雪も目的を達し、春も元の巡りに戻ることができる。至極面倒臭い仙の仕事も完了し、棲雲山に戻れる。


全ては無問題、と枝から飛び降りたところで、肝心のモノが欠けていることに気付いて嘆息した。


(一人か)


 ほの赤い夕陽を照り返して輝く枝葉の合間にどれだけ目を凝らしても、彼女以外の姿は見えない。


「……薄雪?」


 返事のない薄雪に、舞い上がっていた春もやっとおかしいと気付いたらしい。指先が白くなるほど鷹鳴枕を握りしめながら、自分の爪先を凝視し続ける薄雪の顔を身を屈めて覗き込み、それからそっとその矮躯を抱き寄せた。


「……? はる?」


 突然の行動に、薄雪が春の胸で顔を上げていいものか戸惑いながら呼びかける。その小さな頭を、春は慣れない手付きでよしよしと撫でた。

 薄雪がますます困惑の声を上げる。


「あ、あの……?」

「よく頑張りましたね」

「?」

「薄雪のしたことは、間違っていません。少なくとも、僕は嬉しかったです。だから、気落ちすることなどないのですよ」


 それは、慰めにしては具体的なことなど何もない、中身の薄いありきたりな言葉だった。けれど薄雪は、鷹鳴枕を握りしめていた手をわなわなと開くと、そろそろと春の背中に回した。躊躇うように指先を震わせてから、遠慮がちにその褙子はおりを掴む。


「……っ」


 それは、泣き声ではなかった。呼吸困難に近い、ただの荒い呼気だった。代わりのように、ぷつ、ぷつ、と薄雪の首筋や手の甲から不思議な色合いの蕾が顔を出す。まるで言葉でも態度でも現せない感情を代弁するように。

 それが余計、楸を苛立たせた。


(泣き方も知らんのか)


 全身で警戒していた小動物のような薄雪が、春と会話することで少しずつ心を許し始めているのは、楸にも分かった。だがどんなに親しみを持とうとも、薄雪が自発的に接触することは一度もなかった。

 まるで許しがなければ触れることすらできないとでもいうように。そして今、その恐怖をも上回る何かがその幼子の心を占めているのは明らかだった。

 そして楸は、その何かを無情にも抉り出さなければならない。


「母親に会えなかったのか」

「楸!」


 薄雪を抱きしめ返していた春が、まるで我が子を守る親のような剣幕で楸を咎めた。当の薄雪にも怖がられているのは知っていたから、また春の影に隠れるだろうと思った。

 だが意外にも、薄雪は楸の方に少しだけ顔を出して、ふるふると首を横に振った。それに二つの意味で驚きながら、楸は続けて聞いた。


「会えたが、話も聞いてもらえなかったか」

「……」


 これにはやはり返事はなかったが、楸の方針は決まった。


「なら、もうここに留まる理由はないな」

「楸、あなたという人は!」


 春がその胸――というか身長差のせいでほぼ腹だが――にしっかりと薄雪を掻き抱いたまま、今度こそ牙を剥いた。だからこそ、楸は酷薄に真実を突き付けた。


「お前は誰だ?」

「……?」

「四季の本分を忘れることは赦されない」

「!」


 薄雪が春とともにいられたのは、方向が同じだったからに過ぎない。世の理法に何の関わりもない一介の少女のためだけに、再び四季が留まるなどあってはならない。


「……あなたには、心がないのですか」


 まるで楸の目に晒すだけで薄雪を傷付けるとでも言いたげに、春が薄雪を隠す。

 楸はというと、懸念が的中したと思うばかりだった。


「だから、道連れなんてろくなことにならないって言ったんだ」

「……っ」


 郷府で示唆した通りになったと揶揄すれば、春が図星を指されたとばかりに動揺する。揉め事を作る方が逆だったのは予想外だったが、同じことだ。と楸が嘆息した時、やおら薄雪が口を開いた。


「……でも、お母さんは、分かったって」

「……なに?」


 楸は片眉を跳ね上げた。

 つまり、母に会い、言葉を交わし、了解を得たが同行していない。それは、考えられる中でも非常に厄介な状況だった。

 分かったと言ったからとて、来ると決まったわけではない。だが来ないとも言い切れない。

 案の定、聞かん坊となった春が食いついた。


「ならば、あと一日、ここで待ちましょう」

「んなに待てるか」

「では半日!」

「……」


 ここで、楸はまたもや思った。

 春を力尽くで引っ張っていくことはできる。その程度の力はある。可及的速やかに仕事を終わらせて帰れるのなら、経過など楸は一切問わない。

 だが、ここで問題がある。

 問、楸がいなくなった途端、春が薄雪の様子を見に戻ったらどうなるか。

 答、具眼者の館エ・ウ・ニルを門前払いされる可能性が高い。


(これはまずい。非常に面倒臭い)


 だが、ここで言葉を尽くして説得をするなど、楸には面倒臭い以上に不得手で不向き極まりない。そもそも、説得しようとするだけで半日経つ可能性が高い。となると最早何をしても徒労が決まっているとも言える。こうなっては、思案するのさえ無駄骨と思えてくる。


「母親以外の奴が現れたら……」

「ありがとうございます!」


 苦肉の策として絞り出した条件すら言い切る前に春が勝手に感謝した。

 諦めた。




 念のため気配を隠す結界を張った中、再び枝上から春まだきの夕空がゆっくりと暮れていくのを漫然と眺めながら、楸は何度目とも知れない嘆息を零した。

 薄雪の母が春を口実に薄雪を追い出したのは、状況的に疑いようがない。だから会うことすら拒絶されるだろうと予想していた楸には、「分かった」の一言には納得しがたい違和感しかない。

 森に春がいると聞いて、娘を見直したとでもいうのだろうか。否、手柄が欲しくなったとでも考える方が合点がいく。となれば、馬鹿正直にここに留まるのは危険でしかない。

 だがその場合、薄雪一人を残して先に行けば、薄雪は母親に嘘を吐いたと責められるだろう。折檻されるか、過酷な労働を課されるか、打ち捨てられるか。

 いずれにしろ、冬が去ったとはいえ、あんながりがりの子供がこれ以上の無体に遭えば、確実に命を危うくする。

 それを承知で任務完了とするには、さすがの楸も寝覚めが悪い。


(さて、どうしたものか)


 珊底さんて州の軍の規模にもよるが、捕捉されてからでは戦闘は避けられまい。今度はこちらが春を捕まえる番だなどと、愚かなことを言わない指揮官だと良いのだが。

 それに、他にも気になることがある。


(あの花、薄雪のか)


 先程泣きながら咲かせていたのは、繻子のような光沢を持った赤紫とも青紫ともつかない色の花だった。あれは郷都隆桧りゅうかいの通りに落ちていたものと同じだ。

 それ自体は不思議なことではない。薄雪がその道を通って、何かしら感情の乱れることがあったのだろう。

 問題は、花そのものだ。

 今は春が丁寧に摘みとったことで赤みが残る程度だが、あの花は少々引っかかる。


 華族が生まれる花圃かほには万花が咲くと言われているが、それでも幻と呼ばれるものは幾つかある。

 時を操る時告花カイロトス、雨を呼ぶ晴雨葵ヴロヒロゼア、決して凋まぬ不凋花アマラントス、金の実をつける金熨斗蘭オフィオポゴン、万病に効くと言われる紫華鬘アルテアアルルーナ、蜜に若返りの力があるという変若花アナネアゼイン……。

 それらは花圃にある万花とは一線を画し、世界中に隠れ咲きながら存在感を放つ矛盾した存在だ。操花そうかの力を持つ華族でも力が及ばず、人の手に渡れば秩序を乱すとされ、発見されれば具眼者が管理することが定められている。

 光を放つ花弁や、人を惑わす香はそれらの特徴の一つだが。


(あぁー、何だったっけ)


 勉強や研鑽や努力というものに積極的に縁遠い楸には、いまいち思い出せなかった。今の仕事以外に、自分から用事を拾いたくないという本能が歯止めをかけている可能性も否定できないではないが。


(別にいいか)


 楸はあっさりと諦めた。

 薄雪の花が何なのか確認するには棲雲山に帰る必要があるが、先程の花は春が袖に仕舞ってしまった。実物を採取しようにも、春と薄雪はいざという時のために早めの仮眠を取らせたばかりだし、花を得るために泣かせようものなら、また春がぶつぶつと小煩くなるだけだ。それは大変に面倒臭くてよろしくない。

 ならば寝るかなと、楸が目を瞑ろうとした時だった。


「ごめんなさい」


 葉擦れの音にも負けそうなくぐもった声が、かすかに聞こえた。

 楸は一瞬空耳ということにして寝ようかとも思ったが、思えば薄雪に話しかけられたのはそれが初めてだった。最初の印象が悪かったのは自覚があるが、それを差し引いても、春を自分の都合で動かしているという罪悪感はちゃんとあったらしい。

 楸は何と言えばいいか久しぶりに悩んだが、何を言っても察しの良い薄雪は気付くだろう。

 楸は仕方なく、今分かっている事実だけを述べた。


「問題はない」

「……やっぱり、気付いてたん、ですよね。わたしが、本当は……」

「もう少し寝ろ」


 珍しく饒舌な薄雪の言葉の先が分かって、楸は強引に遮った。強引に黙らせたあと、僅かの間を置いてから、蛇足のように付け足す。

 何の慰めにもならないと、自分でも知りながら。


「その答えは、これから分かる」


 はい、という声はけれど、春の露が梢に弾ける音よりも小さかった。




       ◆




 薄雪を追い返した後、月羽つくはねは監視の男から逃げるように自宅に戻ってくると、無心になろうとあらゆる家事に手を付けた。だがその胸中では、最早幾度目とも分からない自問と自答で溢れ返っていた。


(行けるわけがないわ)


 そもそも、薄雪が春を見つけるということ自体が想定外だった。

 州軍がもう何か月も手こずっている相手だ。子供なら警戒はされないとはいえ、幽閉先まで辿り着けるはずもないと高を括っていた。

 そうして薄雪が行く当てもなく彷徨っている間に、郷都隆桧に嫁いだ叔母に宛てた手紙が届き、保護を頼む。州を越えているから叔母の現状を詳しく知ることができないのが懸念材料ではあったが、叔母が動いてさえくれれば、何もかもが上手くいくはずだった。

 薄雪には当分の路銀は持たせたし、叔母の手紙にも幾らかは包んだ。持たせた地図も、ここ椋広りょうこうから隆桧周辺までしか載っていないものだから、最初のうちはその外に出る可能性も低いはずだ。

 王花がいない時期に森を一人で歩かせるのは勿論不安だったし、叔母と出会うまで無事という保証もないが、薄雪にはあの不思議な目がある。ここにいるよりは遥かにマシなはずだった。

 それがとってかは、分からないけれど。

 だというのに。


『森で、春と待ってる』


 薄雪の必死な言葉が、何度合理的な答えを導き出しても消えてくれない。

 何故あの時、行くわけがないと即答しなかったのか。何が「分かった」なのか。


(あんなの、期待させるだけじゃない)


 それがどんなに残酷なことなのか、月羽自身、何度も味わわされてきたではないか。二度と会えないのなら、そう断言してくれた方がよほど良い。そうすれば、いつかは帰ってきてくれるかもしれないなどと虚しく待ち続けなくて済むのだから。


(これじゃあ、あの人と同じじゃない)


 自分がその立場になって初めて知る苦悩に、月羽はどうしようもなく胸が掻き毟られた。行けるわけがないと分かっているのに、本心では行きたいと思っている。

 けれどそれは無理なのだ。

 月羽が動けば、監視もまた動く。気付かれれば、今度こそ薄雪にその目が届く。そうなれば、もう二度と薄雪に自由はなくなるだろう。

 あの方の下に連れていかれれば終わりだ。


(……あの頃は、不安なんて一つもなかったのに)


 こんな時だというのに、昔のことばかり思い出す。薄雪がずっと命綱のように握りしめていた鷹鳴枕のせいだろうか。

 鷹鳴枕は子供が一歳を迎えるお祝いに、両親や祖父母が幸運を願って贈るものだ。

 十年前のあの時には、父親である彼がとびきり立派なものを用意すると張り切って仕方がなかった。折角の祝いの品が門外不出にならないためにも、どうかこの賤家しずやに見合うものにしてくれと懇願したのをよく覚えている。

 新緑を思わせる花萌葱色の絹に、魔窟陸では甲貨にも使われる鼈甲の目と嘴が縫い付けられた、簡略化された光鷹使イェラーキ。あの人は質素すぎると不満そうだったが、幼い薄雪はきゃっきゃと無邪気に喜んでいた。

 あの頃は、笑っても転んでも花を咲かせて、その度に自慢げに見せに来ていた。目が合っても、眩暈を感じる程度だったのに。

 それも今思えば、子供特有の視点のちらばりや集中力の欠如による、効果の半減だったのだろう。


(あの頃に戻れたなら、どんなにいいか)


 できもしない希望が、錯綜する感情をぐちゃぐちゃに踏みにじる。余計に考えが纏まらない。戻るどころか、時は今も容赦なく進み、後になればなるほど薄雪は離れ、あの方の魔手は近付くというのに。


(……それって、今が最後の機会ということなんじゃ……?)


 未来から逆算して気付いた事実は、月羽に今までとはまた別の危機感を抱かせた。

 この機を逃せば、次に薄雪と会う時があるかどうかさえ分からない。もう因陀州には行かないだうろ。かといって、薄雪に行く宛てがあるとも思えない。しかし、戻ってくるようなことがあれば、今度こそ捕らえられる。


(やっぱり、薄雪に戻る道はない……けれど、私は?)


 因陀州の叔母の家にいれば、いつかまた会うこともできると思っていたからこそ無情に送り出すことができた。

 いま躊躇しているのは、月羽が動くことで薄雪が見付かってしまうのではないかという不安からだ。だがいま見失うことで薄雪を永遠に失うこともまた等しく不安ならば。

 いっそ、危険を冒してでも監視たちをまいて薄雪のもとへ向かうべきではないのか。


(……そうよ。最初から、一緒に逃げれば良かったのよ)


 月羽が共に春を探しに行かなかったのは、どこに監視の目があるか分からなかったからだ。

 現に、ここ数年は度々薄雪のことを調べているらしき者が里をうろつていた。そしてそれが、この一ヶ月でぱたりと消えた。

 諦めたか、確信を得たか。恐らく後者だ。だからあらかじめ準備していたものを引っ張り出して追い出した。

 だがその奥に、無意識の期待があったことも、本当は自覚している。あるはずがないと思いながらも、あの人が戻ってきてくれるかもしれないという淡い期待が。


(でも、今は違う)


 いよいよ隠す気もなく送りつけられてきた監視のお陰で吹っ切れたのは皮肉な話だが、これでようやく諦められる。ずっと、あの方の存在や目的を教えていたずらに不安にさせたくなかったから事情も話さずにいたが、薄雪ももう十一歳だ。知っておいても良いかもしれない。


(一緒に、行けるかも)


 幸い、貧乏な平民と侮られているお陰で監視は三人だけ。うち一人は、ろくに畑に出なくなった父についている。倒すことは無理でも、なんとか一人だけでも出し抜ければ、可能性はある。


 かたん、と月羽は夕食の準備にと握っていた包丁をまな板に置いた。それから、堂の脇に置かれた年季の入った戸棚の一つに手をかける。

 そこには、季節ごとに採集しては乾燥させて仕舞っておいた薬草が入っていた。病気になる度に薬房に行くほどのお金はないから、近くで手に入るものは細々揃えている。

 そこから、催眠作用のある木犀草もくせいそうと、幻聴を来す木立朝顔きだちあさがおを取り出してまな板の上に並べる。どちらも香りは強くない。


(お茶に混ぜて煮だせば……)


 毒にも薬にもなるものを素人が適当に配合して人に出すのは、法に抵触するくらい危険なことだ。配合量を間違えれば、最悪の結果を招く可能性もある。だが上手くいけば、一定時間昏睡させることができるかもしれない。


(次に交替した時に、ついでと言って出せば)


 兵士は三人とも、月羽の前で飲食をしたことは一度もない。だが温かいお茶くらいなら、拒否する理由もないはずだ。


(……大丈夫かしら)


 少しでも怪しまれたり、配合を間違えても、月羽に後はない。薄雪どころか月羽自身が、二度とこの家にいられなくなるだろう。

 これは賭けだ。あの人との子供を産むと決めた時から二度目の、人生をかけた大博打。

 今更ながらに、心の臓がどくどくと早鐘を打ち出した。だが考えれば考えるほど、今しかないと思えるのだ。


「……お湯を、沸かそうかしら」


 月羽は今にも飛び出そうな心の臓と生唾を強引に飲み下すと、静かに支度にとりかかった。

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