第十話 朧朧たる樹色、故郷を隠す

「ここから先は一人で行け」


 春霞にけぶる穏堵おんとの森も半ばを過ぎた頃、楸は薄雪に決別を告げた。


「え?」


 既に道中に雪は見ていない。急な春の到来により一斉に解け、できた雪解け水でぬかるみ、大小幾つかの獣の足跡があるばかりだ。その中には、人間のものらしいのもあった。

 春の例年の通り道や地形、お互いの郷都の位置関係から見ても、珊底さんて州の軍が森から最も近い郷都蔡甸さいじゅんを拠点に布陣しているのは確実だろう。それを避けるように移動してきたつもりだが、大分広範囲に哨戒を立てているようだ。

 これ以上進めば、早晩軍に見つかるだろう。そこまでは譲歩できない。

 因陀いんだ州でも、林から州境の穏堵の森に移る時に一時兵士に追われたが、地元の郷兵だけではなく、州兵も増援に加わっていた。場所が穏堵の森の目前だったこともあり、この面子でも危なげなく逃げられたが、恐らく珊底州も布陣は似たようなものだろう。


 生憎、薄雪は自分の生まれ里のこともろくに理解していなかったが、話から察するにある程度は特定できた。州境の森に接し、かつ大街道からは距離があり、子供の足でも歩いて行ける里となれば、森宜しんぎ郡は梓旦したん郷の南西端に位置する里のどれかだろう。

 だが、楸が危険を冒してまでそれを確かめる理由はない。

 だというのに、すっかり保護者気取りらしい春が、驚く薄雪の代わりに口を挟んできた。


「楸、それはあんまりです。せめて、もう少し……」

「春ってのは、そんなに捕まりたいのか?」

「でしたら、せめて楸が同行してください。僕はここで隠れていますから」


 真顔で提案されたその内容に、楸は頭が痛くなった。春は、自分の立場をまるで分かっていない。


「論外だ。薄雪が戻ってこようと来るまいとどうでもいいが、春が再び捕まるのだけはダメだ。俺の仕事を増やすな」


 最後は溜息とともに本音が零れていた。

 楸としては、同じ場所に留まるのも避けたいところだ。ここは既に人里が近い。軍の哨戒範囲内にもなっている。珊底州が馬鹿の集まりでないのなら、既に春には気付いているはずだ。

 本当は、ここで悠長に薄雪を待つのも危険なのだが。


「わ、わたし、一人で大丈夫、だから」


 薄雪が、自分の爪先を見つめたまま思い切って口を開く。どうやら楸の言いたいことは察したらしい。

 会話は絶望的に下手くそだが、薄雪にはそういうところがある。春よりもよほど人の機微に敏感で、遠慮も知っている。

 楸はその子供らしくない気遣いを遠慮なく受け取った。


「ここで待っていられる時間は、精々日没までだ。日没前でも、誰かに嗅ぎ付けられたら離脱する」

「楸!」

「また、お前が母親以外の者を連れてきた場合も問答無用で立ち去る。いいな」

「……」


 春は、今度は口を挟まなかった。そんなことはないとは、さすがに言い切れないのだろう。

 春は常に、人々からの羨望と嫉妬の入り混じった欲深い眼差しに晒されてきた。薄雪が春を連れてきたと誰か一人にでも知れたら、薄雪がどんなに抗おうと春に飢えた人々が大挙して押し寄せるだろう。そうなっては因陀州の二の舞だ。


「……はい」


 薄雪は、消え入りそうな声で頷いた。それから、ずっと抱えていた鷹鳴枕をよすがとするようにぎゅっと抱きしめると、春めく木々の間を独り歩き出した。

 その背をいつまでも名残惜しそうに見送っていた春は、春だというのにどこまでも辛気臭かった。




       ◆




 自分の皺の増えた手の甲をぼんやりと見つめていた月羽つくはねは、度々聞こえてくる野太い話し声に、ついに浅い眠りを続けることを諦めた。


「……ったく、いつまでこんな田舎にいなきゃならないんですかね」

「無駄口を叩くな」

「だって折角州軍に入れたってのに、やってることが平民の監視って……どうせこんな田舎に来るなら、せめて州境の郡軍への増援配置が良かったですよ」

「戦うだけが仕事じゃない」

「分かってますけどぉ」


 やる気のなさそうな若い男と、融通の利かなさそうな壮年の男が、部屋の隅に陣取ったまま暇にあかせて話し続けている。

 それもそうだろう。ここ椋広りょうこうは、珊底州は森宜郡の南西端に位置する梓旦郷の中でも、州境に面した田舎も田舎の里だ。名所も名物もなければ、街道からも都からも離れているから、商人もあまり通らない。

 月羽の生家もどこにでもあるような小さな四合院造りの一つで、物珍しいものなど一つもない。軍に入るような血気盛んな男には、詰まらないことこの上ないだろう。

 だが、次の言葉は聞き捨てならなかった。


「極秘任務だっていうから期待してたのに、来てみれば爺さんと行き遅れ女の監視って」


(行き遅れじゃないわよ)


 最後だけ声を潜める男に、三十一歳の月羽はムッとしながらも胸中で反論するに留めた。

 やる気のない若い男だけなら出し抜けるのではないかと、監視初日に追い出そうとしたのだが、鋭く冷たい目でいなされてしまった。やはり州司から直々に任命されただけあって、目が合うと空恐ろしいものがある。あれは人を見る目ではなかった。


(私は、ただの対象ものなのね。……相変わらず)


 それでもやってきたのはたったの三人で、里や森の出入り口にまで張り付いていないのが救いだ。同居する年老いた父にもやはり監視はつき、我が家だというのに息が詰まるほど自由がないが。


(でも、間に合って良かった)


 彼らがこの家の門を叩いたのは、薄雪が森へ入ってほぼ一日が経った後のことだった。に知られてしまった以上いずれ来るだろうとは思っていたが、突然家の中に押し入って来られた時にはやはり驚きと嫌悪感が先立った。

 目的が果たせないことはその日の内に判明したはずなのに、以降彼らは何の成果も得られないというのにしつこく家に居座っている。彼らのいう極秘任務がどこまで重要で、いつまで猶予を延ばせるのかは知らないが、こうなれば最早我慢比べのようなものだろうと、月羽は諦観していた。

 彼らが成せることもなく痺れを切らして上官の指示を仰げば、恐らく帰投の命令が出るはずだ。そうなれば、しばらくは放っておいてもらえるだろう。


(その間に、あの人が帰ってきてくれれば……)


 薄雪を追いだしてから、繰り返し繰り返し、愛しい彼の顔が脳裏を過る。

 記憶の中の彼は、いつも優しく微笑んでいた。彼が戻ってきてくれれば、全てが良くなるはずだ。何もかもが元通りになって、誰にも邪魔されず、三人でずっと笑い合いながら暮らせる。

 記憶の中の笑顔も、きっと取り戻せる。


(……夢を、見すぎかしら)


 彼と初めて出会った頃、月羽はまだ十五歳を過ぎたばかりの、美しい恋物語に恋をするような乙女だった。美しい恋物語は美しい結末を迎え、絵に描いたような理想の家族となり、永遠に幸せに暮らす。

 けれど実際の恋は、美しいばかりではなかった。

 逢いたくても逢えぬ日々が続き、疑心ばかりが月羽を苛み、異類婚だと周りの誰からも反対され、けれど諦めようとしても諦められず、逢えれば天にも昇るほどの幸せでぐずぐずになった。世界で一番幸福だと舞い上がり、別れる時には世界一不幸だと泣き暮れた。手紙の一つもないことに恨み言ばかりが募り、醜い感情ばかりが育っていた。

 何もかも自分ではどうしようもできない恋情と状況に振り回されて、最後は身も心もぼろぼろだった。愛しいのに恨んで、離れては疑って、果ては惨めったらしい現実が――子供だけが残った。

 最初のうちは、真心を込めて向き合えば全ては良くなると信じていた。けれど今は、少しもままならない現実に希望も責務も半ば放棄してしまった。もう、まともに笑ったことさえない気がする。

 全ては、薄雪をあの小さなへやに閉じ込めたあの日から。

 あの日から、狂ったまま終わってしまった。


(この戦争さえ終われば……)


 無意識にそう思考していたことに気付いて、馬鹿らしいと月羽は首を横に振った。

 三王花とは、その王花が生まれた州に留まることで、大陸の力の流れを正常に保ち、神魔デュビィの付け入る歪みが消え、治安が維持される。

 王花は大陸の要石だと云われるのはこのためだ。

 その王花が、一人欠けた。

 王花は生まれた時から王花だと彼は言っていたから、生後すぐに死亡したのか、行方不明になったのかは誰にも分からない。この戦争を終わらせるには、消えた王花を見つけるか、新しい王花が生まれるかしかないが。


平民わたしには関係のない話だわ)


 月羽は終わりのない思考に見切りをつけて、椅子から立ち上がった。

 もうすぐ昼近い。いい加減、水汲みに取り掛からなければならない。

 終わらない冬では井戸も沢の水も凍っており、まず氷を砕いて持ち帰り、溶かすところから始めなければならない。手は千切れそうなほどに痛むし、火起こしからは炊事も洗濯も一気に手早く済ませなければならない。


「どちらへ?」


 若い男が、先程とは打って変わって低い声で月羽の行く手を阻む。月羽は男の目を見ることもなく、ぼそりと答えた。


「……水汲みに」

「お供します」


 月羽はこれには答えず、室から出ると院子なかにわに降りて、隣り合う堂で木桶を二つ掴む。それから、白い息が昇る灰色の空を見上げた。

 西大陸の民家は院子を囲むように堂や物置、階段室、個室などがある。院子は居間であり憩いの場でもあり、暑い日には屋内の熱を外に逃がす場所でもある。お陰で厚い雪雲がのしかかる間、底冷えして寒いばかりだ。

 この重苦しい灰色の空に青が戻るのが先か、鼠の糞のようについて回る彼らがここから立ち去るのが先か。それとも、薄雪が戻るのが先か。

 或いは、薄雪がどこかで野垂れ死んだという話が届くことが最も早いかもしれない。

 だからこそ、月羽はもうここにいない娘に願うしか術がなかった。


(どうか、お願い)


 二度と帰ってこないで、と。




       ◆




 目に焼き付くかと思う程見たはずの凍れる森は、最早どこにもなかった。

 かつては寒さで耳も鼻も凍りそうなほどかじかみ、雪に埋もれた足は千切れたかと錯覚するほど感覚を奪ってきた灰色の森は、今や樹皮も艶々と茶色に輝き、雪が積もっていた樹冠には眩しいほどの青葉が揺れている。

 往きにはこの木々の連なりに終わりなどないのかとさえ思えたのに、今はあっさりと果てが見えるのが不思議でならない。


(本当に、春が来たんだ)


 薄雪は、感動にも似た気持ちで何度も周りを見渡した。森を出ればきっと人がいるから、今しか出来ない贅沢なひと時だ。

 どきどきしながら顔を上げ、冬と春の間の澄んだ空気を大きく吸い込む。ひんやりと乾いた空気の中に感じる、ほの甘いような瑞々しいばかりの空気。

 それを薄雪が連れてきたのだと思うと、腹の底がむずむずするような信じられないような、晴れがましい気持ちさえあった。足を取られる泥濘も、時折頭上の枝葉を伝って鼻先を叩く雪解けの雫も、少しも苦にならない。


(お母さんも、喜んでくれるかな)


 春を連れてくるという母の願いを、薄雪は叶えることができた。

 それは春がきたということ以上に、薄雪に初めての達成感を与えてくれていた。

 この目と花のせいで、いるだけで迷惑をかける存在だと思っていた自分にも、できることがあった。しかも、母が望んだことを。


(わたし、できたんだ)


 そうして森を出る頃には、太陽は中天を越えて日差しを強めていた。

 因陀州で感じた陽光を長い前髪の向こうにも感じながら、薄雪は自分の歩みが羽のように軽いことを自覚していた。

 森に続く畦道の両側に広がる畑には、青いまま成長を止めたことで放置されてきた秋撒きの燕麦が、解けはじめた雪の中で息を吹き返したようにその葉をぴんと空に向けている。椋木の硬かった冬芽は僅かずつ綻び、雲雀の鳴き声も遠く空に響いている。

 森に比べればやはりまだ冬の残り香を感じるが、確かに春が近い。

 畑にはまだ人がいないようだが、春の気配に気付けば里の皆はこぞって畑に出てくるだろう。


「……お母さん」


 薄雪は、何もかも春めく世界につられるように、声を出してみた。


「わたし、春を連れてきたよ」


 それは相変わらず張りのない、弱々しい声だった。けれど隠しきれない喜びと期待という初めて味わう感情に、胸がうずうずしていた。

 もうすぐ我が家に辿り着く。次は母を前に言うのだ。

 自分から母に話しかけるなど、今までなら唇が震えて頭が真っ白になって、何も言葉が出なかった。けれど今なら、簡単にできるような気がした。

 母の顔を直接見ることはできなくても、もしかしたら、少しだけでも抱きしめてくれることも、あるかもしれない。

 それは無責任な夢想だったが、考えるだけで足は軽くなり、青い麦畑はあっという間に過ぎ、生まれ里だというのに名前も知らない川に架かる橋を越え、民家がひしめく通りに入った。

 通りの端の日陰には、まだ雪が解け残っている。吹き抜ける風はひやりと冷たく、単衣では肌寒い。因陀州では方々で見かけた、上の空で赤ん坊をあやす子供や、黙々と鍬を直す老爺や、世間話をしながら鞋を縫う女たちは、まだ見えない。

 長い冬に倦み、いつか春が訪れるという希望も捨て始めた人々は、最早必要最低限しか外に出なくなっていた。寂しくもあったが、今の薄雪には幸いとも言える。春のことを誰かに気付かれては、母に春を会わせることができなくなってしまうから。


 薄雪は弾む足取りを懸命に地につけて、行きには何度も振り返って確かめた我が家を探した。細く暗い路地を数えながら、あともう少し、と心が逸る。

 その時、出し抜けに腕を引っ張られた。


「っ?」


 一気に薄暗い路地に引きずり込まれ、足がもつれて膝が崩れる。その視線の先に擦り切れた麻鞋が見えて、薄雪はハッと息を呑んだ。


(まさか、兵士……?)


 けれど身を固くした薄雪の頭上にかけられたのは、予想外の声だった。


「どうして……?」

「――――」


 まさかと、薄雪は耳を疑った。けれど聞き間違えるはずもない。何年も、扉越しに耳をそばだてた。


「お、かあ、さん……?」


 薄雪は、信じられないと思いながら顎を上げた。

 麻鞋の上にあったのは、脛当てでも刀の鞘でもなかった。この寒い中水仕事をしていたのか、少し濡れた鞋に、泥の跳ねた腰高の長裙という女性もの。くたびれた腰囲こしまきには、消えない染みがあちこちに付いている。

 そして、その上には。


「帰って」


 無意識にその先にあるはずの母の顔を見ようとしていた薄雪は、その言葉にびくっと動きを止めた。顔を埋めるように鷹鳴枕を抱きしめる。


「ご、ごめんなさい。み、見たりしない、から」


 薄雪は油断していた自分を責めた。けれど母の険しい声は、薄雪の言葉を聞いてもいなかった。


「あぁ、違う。帰ってきてはダメなのよ」

「……え?」


 額に手を当て、口にした言葉を後悔するように首を横に振る。

 けれど薄雪は、今度こそ意味が分からなかった。春を連れてきてと言ったのは母なのに、帰ってきてはいけないとはどういうことだろうか。薄雪は、間に合わなかったということなのだろうか。


「でも、あの、春は……?」

「春? 軍が何度も失敗してるのに、あなたにそんなこと本当に期待したと思ったの?」


 信じられないとでも言いたげなその声は、薄雪には青天の霹靂よりも衝撃的な内容だった。

 確かに、因陀州が春を捕えたらしいという噂が出てから、何度も郷兵が派遣されたと話している声は聞いた気がする。だがそんな現状も背景も、あの時の薄雪には何も興味もなければ、意味もなかった。

 ただ母が望んだから、薄雪は独り雪の中に飛び込んだ。母からの初めての期待に応えられないことだけが怖かった。その先に別の意味があるとしても、気付いてははならなかった。

 だから今も、薄雪は自分の言い方が悪かったのだと考えた。ちゃんと説明すればきっと母は喜んでくれると、言葉を重ねた。


「で、でも、わたし、お母さんに言われた通り、春を」

「まさか、その目を使ったの?」

「……っ」


 軽蔑を含んだ声に遮られ、薄雪は今度こそ声が出なくなった。一刻前には根拠もなく浮かれ過信していた己が、愚かしくて眩暈すらする。


(やっぱり、ダメだった……)


 最も恐れていたことが、現実になった。

 視てはならないと、母に厳しく禁止されていたのに。薄雪は恐怖から、使ってしまった。母のためだと理由をつけて、何度も、何度でも。気付けば忌避感はどんどん薄れていた。最初は罪悪感に圧し潰されそうだった兵士の恐怖した顔も、最後には何とも思わなかった。

 だって、母のために春を連れ帰るのを、邪魔するから。


「出て行って。この里から、今すぐ。そして二度と帰ってこないで」

「――――」


 その明らかな拒絶に、薄雪はついに目の前が真っ暗になった。そして真っ白になった頭が今更ながらに理解する。


『ねぇ、薄雪。春を、探してきてくれない?』


 母の、初めての願い。あれは、本当に薄雪を追い出すための口実に過ぎなかったのだと。


(気付きたく、なかったのに)


 戦場に行けと言われたわけではない。けれど、敵地に行くことには変わりない。薄雪が珊底さんて州から来たと知られれば、殺されずとも拘束される可能性は十分すぎる。実際、目の力がなければ薄雪は郷都に着いた時に終わっていた。

 室に閉じこもって外の世界を知らない、十一歳の薄雪には無謀なことだとは、端から承知だった。

 それでも母の願いを叶えたくて、ついに母に見限られたのではないと思いたくて、気付かないふりをしていたのに。


「……どう、して」


 せめて理由が知りたいと、薄雪は無意識の内に乾ききった口を動かしていた。けれどそんな声などまるで聞こえないかのように、母はぶつぶつと小さく呟いた。


「ずっと因陀州にいてくれれば良かったのに。そうすれば……」

「月羽さん? どうしましたか?」


 知らない男の声が、その先を遮った。ハッと母の顔に険しさが走る。それから、血走った目で薄雪を立ち上がらせた。


「走って」

「で、でも、春が」

「いいから早く!」


 薄暗い路地の反対側をしきりに気にしながら、薄雪の針金のように細い背を強引に元の通りへと押し出す。それから、自分は路地の入口を塞ぐように元の位置に戻った。その背から滲む敵意にも似た強い拒絶に、薄雪はそれでも縋るように告げずにいられなかった。


「……も、森で、春と待ってる、から」


 しつこく縋りつくのを母は嫌うと、今までの経験から知っていた。きっと母は振り向かない。それでも、それを伝えられなければ、薄雪は何のために歩き続けたのか分からない。

 果たして、絶望の中で母の足元だけを見続けて。


「……分かったわ」


 長いようで短い間を置いて、母が僅かに振り返る気配がした。けれどはるか上にある母がどんな表情かおをしていたのか、逆光で塗り潰されていなくても、薄雪には見ることは叶わない。

 ただ掠れるように聞こえた声は、酷く苦々して迷いに満ちていて。

 それがまるで泣きだす寸前のような震えにも思えて。

 さればこそ、薄雪が思い描いた喜びなど、どこにもなかった。

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