第二章 草は暖かに、雲は昏く
第九話 春来れど 消えせぬものは
薄雪は、何が何だかほとんど分からないまま
(え……えぇ?)
初めて味わう浮遊感に、薄雪は状況を整理する余裕もない。ただ頬を打つ風に耐える。それでもどうにか薄目を開けてみれば、見上げることもできなかった街の灯が風のように流れていた。
何が何かも分からない。分からないが、初めて人を気にせず見渡した市井の賑わいに、こんな時だというのに見入っていた。
(きれい……)
我が家のあの嵌め殺しの格子窓から感じた
「ここまで来れば、まぁいいだろ」
幾度目かの跳躍と着地のあと、楸がやっと口を開いた。
と思ったら、べちゃっと落とされた。冷えた夜の地面にしたたか鼻を打つ。
「~~っ」
「薄雪、大丈夫ですかっ」
こちらは着地が成功したらしい春が、慌てて薄雪を抱き起す。薄雪は春を見ないようにしながら、小さく頷く。それから、辺りを見回した。
月明かりの翳る林の中は、薄雪の目には暗くて何も見えない。背後を振り返れば、畦道の間に郷府へと続く道がぼんやりと浮かび上がって見える。どうやら、ここは郷府から少し離れたところに広がる林の中らしい。
突然の闖入者に、林の中の住人たちは一時息を潜めている。眼前は下草が踏まれてできた獣道があるだけの真闇だが、あの州境の森で感じた恐ろしさはない。
独りではないから、だろうか。
「あーあ。春がいなけりゃ、パパッと転移できるんだがな」
傍らに立つ楸が、重かったとでも言いたげに大きく伸びをする。
実際、精霊術には彼我の空間を入れ替える転移式もあるが、四季という存在がそもそも空間転移という概念と相容れない。春と道行きを共にするならば、ひたすら地道に歩き続けるしかなかった。
「とりあえず、もう暫くは歩き続けるぞ。ほら立て」
夜が始まったばかりの暗い昏い獣道を指さして、楸が急き立てる。
薄雪は、あちこちについた土を払うのも忘れて慌てて歩き出した。
その日の夜は、東の空が僅かに白むまで歩き続けた。
どうにか旅慣れてきたと思っていた薄雪だったが、楸の歩く速度は速く、すぐに足が痛くなった。楸は休むことを許さなかったが、三人を取り巻く事情については薄雪も歩きながら春に大まかな説明を受けたため、悠長に立ち止まっていてはいけないことは理解していた。
(お母さんに、春を……)
爪先や踵がじくじくと痛めば、いつもの呪文で抑え込む。
楸が仮眠を取ると立ち止まったのは、旭日が遠く
春が咄嗟に受け止めてくれなければ、またもや低い鼻をより一層低くするはめになっただろう。けれどそれに礼を言う気力もなく、薄雪は泥に沈むように眠り込んだ。
(お母さん、待ってて……もうすぐ……)
楸に叩き起こされたのは、昼の日差しが穏やかに薄雪の頬を
と言っても、
その道中は魔獣も出没する草深い
腹が減れば、楸が適当に鳥を射止めたり、山鼠を獲って焼いたりした。春もまた少しだけと言って、春に実をつける樹木に触れては早めに完熟させ、薄雪に与えてくれた。
本当は痕跡を残すことはなるべく避けた方が良いらしいのだが、他にも肩までもある草を掻き分けた跡や火の始末などもあり、ある程度は楸が仙術で結界を張って隠したり消したりするから、飢えない程度なら良いと言っていた。
その翌日からは、夜に眠ることが許された。しかも日が翳る森の中だというのに、今までの夜で一番暖かだとさえ感じた。傍に春がいるからだろうか。
それは州境である
(まだ、着れるかな)
もう雪解け水と緩んだ泥で、元の色も分からないほど汚れてしまっただろうか。折角母が与えてくれた新しい服だったのに、それを着て帰らなかったら、母はなんと思うだろうか。
黙々と歩き続ければ、不安は他にも幾つも込み上げた。
母は本当に喜んでくれるだろうか。遅いと怒るだろうか。母の求めていることを、本当にできているだろうか。
「郷里はどこですか?」
「え?」
目の力だけでなく俯きがちに歩く薄雪をどう感じたのか、必要最低限しか口を利かない楸と違い、春は度々薄雪に話題を振った。
「ここまで一人で歩いてきたのですか?」
「春を連れていきたいとは、薄雪が考えたのですか?」
「母君は、どんな方なのですか?」
春の声に悪意や詮索がないのは明らかだ。けれど薄雪は、そのどれにも上手く答えられなかった。
生まれたのは
何より、母をどんな風に言えばいいのか、薄雪には皆目分からなかった。
記憶にある母は、半花でも良いと言ってくれて、でもこの目はダメだと言って。いつも父を待っていて、祖父と口論をしていて。
最後に見てしまった母の目は、ぞっとするほど恐ろしくて。
でも扉の隙間から見える母は、いつも苦しそうで。
だから。
「お母さん、は、優しい」
薄雪は、そう答えるのが精一杯だった。
それを、珍しく楸が拾った。
「優しい母親が、お前みたいな小さな餓鬼を一人で春の使いに出すかよ」
それは明らかな皮肉であり、母への侮蔑だった。だから、その苛立ちの混じった怖い声にも、薄雪は答えることができた。
「……春がくれば、戦争が終わる、から」
だがそれを、楸は面白くもなさそうに鼻で嗤った。
「そんなの」
と口を開く。だが言い切る前に、珍しく春が強引に口を挟んだ。
「えぇ、終わりますよ」
「……」
その言葉に、薄雪は無意識に隣を行く春の顔を見上げようとしていた。
(だめ)
春がどんな顔でそう言ったのか、見たかった。だって、薄雪はあの狭い部屋に閉じ込められて以降、望む言葉を望む通りに貰ったことなどなかったから。
けれど、見てはいけない。春にまで恐れられては、薄雪は。
(だめ)
ついに春の艶やかな唇が見えて、薄雪は慌てて前を向いた。
背の低い薄雪の前途には、むせ返るほどの
それでも、薄雪の往路には、色や匂いどころか、感情さえなかった。
だから、十分だ。
「戦争が終わったら、お父さんが戻ってくる、の。そうしたら、お母さん、きっと、笑ってくれるから」
春の言葉に応じるように、その先にあるはずの未来を謳う。
見飽きた自分の爪先が、踏みしだかれた緑に包まれて、少しだけ明るく見えた。
◆
日暮れとともに楸がその日の寝床を確保すると、小さな肩を揺らして歩き続けていた薄雪はいつも倒れるように眠ってしまう。
春はそんな薄雪のために先に自分の
楸は道袍を羽織ったまま一段高い木の根方に腰かけ、座った姿勢のまま目を閉じている。
野営とは言っても、ここには焚火も鍋もない。春には暖や糧は不要だし、仙もまた数日くらいなら飲食や睡眠は不要だからだ。
だが薄雪は違う。鞋擦れであちこち赤く擦り切れている足には治療が必要だし、夜には睡眠を取らなければすぐに倒れてしまうし、十分な食事も大切だ。
だが楸にそんな気遣いや優しさがあるはずもない。内心では、音を上げればそれまでとでも思っているのだろう。薄雪に最初の仮眠を取らせた時に、春の実を生らせることだけは譲歩させたが、それだけだ。
勿論、春だとて再び誰かに捕まるのは怖い。だがこんなにも小さな少女が日々疲労と空腹で憔悴していくのをただ眺めていることなどできるはずもない。
それでも、楸が悪意から行動しているわけではないことは重々承知しているので、文句を口にしたりはしなかった。
けれど今日ばかりは、言わずにはおられなかった。
「あなたは、希望を見ることも許さないのですか」
春が来れば戦争が終わると口にした時、薄雪はずっと強張ったままだった口元を初めて僅かに綻ばせた。それを見て、春はいまだ胸の中に僅かに残っていた薄雪の力に対する危惧を、酷く恥じた。
傍らで眠る薄雪の寝顔は相変わらず憔悴しきって疲労が色濃く、唇はひび割れ、細い顎や頬骨は肉もなく浮き上がり、うっかり目を離した隙に息絶えてしまうのではないかという不安を呼び起こす。
こんな弱々しい少女の、一体何を恐れるというのか。
何より、薄雪は最初に会った時以外、一度も春を見ていないではないか。それこそ、頑ななほどに。
だというのに、楸はまるで敵を警戒するかのように無情に接する。
先程も、薄雪の希望を打ち砕くようなことを口にしようとした。それが、春には許せない。
だが楸は、立てた膝に腕をかけたまま悪びれることなく答えた。
「俺は事実を言おうとしただけだ」
「それでも、そのことで薄雪が喜ぶとは思えないことは、あなたにだって分かるでしょう」
「そういうあんたも、分かってるから拒否したんだろ。春を解放しても、何の準備も対策もしていないのなら、この膠着状態を終わらせるだけ、あるいは悪化させるだけの悪手だと」
「……っ」
その正論に、春は言い返すだけの意思も正義も持ち合わせてはいなかった。
因陀州は珊底州に負けていたからこそ春を捕まえた。突然春を失えば因陀州は再び勢いを失い、それに気付いた珊底州はここぞとばかりに攻め込み、泥沼の戦を再開させるだろう。少し考えれば分かることだ。
その始まりが、無知で無垢な子供がささやかで真っ当な願いを叶えたせいだなどと後ろ指を指す者がいれば、その者こそ春には悪に思える。
「それでも、薄雪が望むことは何一つ間違っていません」
静かに憤りながら、寝苦しそうな薄雪の長い前髪を耳にかけてやる。それを、楸は冷ややかに揶揄した。
「まるで甲斐甲斐しい親鳥だな」
春は精霊だから家族もいなければ、神産みの神話から続く訓戒のため、他の四季と触れ合うこともない。親が子を慈しむ情愛も、子が一心に親を求める愛慕も春には無縁で、ただ遠くから眺めるしかなかった。
だがそれでも、分かることはある。
「子供とは、誰であれ愛され、守られて然るべき存在です」
望まれずに生まれてきた子供は、誰にも愛されてはならないのか。一度罪を犯した子供は、もう二度と愛に触れられないのか。罪の中にいる子供が、もう一度愛の中に戻ってきてはいけないのか。
そんなはずがない。
「誰でも簡単に殺せる抜き身の刃を持ち歩いてるような子供でもか?」
「彼女は誰も殺していません」
郷府を抜け出した時に見た気絶した兵士たちの中に、息絶えた者はいなかった。薄雪はその力を使う罪悪への理解が及んでいないだけで、死への忌避感はちゃんと備えている。
それでも、楸は同意しなかった。
「制御できない感情が握り手なら、時間の問題だ」
その言いようはやはり情に欠け、春は語彙の問題とはまた別の理由で口籠った。
春はそもそも誰かと会話をすること自体が少ないから、反論も弁明も経験がないのだ。楸に口で勝てるとは思っていない。
だがそんなことを上回る苛立ちに似た感情が、春を戸惑わせた。
「この子が、望んでそんな力を持っていると思うのですか?」
それは春の精一杯の反駁だった。
だが楸には、少しも応えた様子はなかった。
「それは俺の知る必要のないことだな」
「……」
仙が正義の使者でも弱者の味方でもないことは、郷府の時だけでなく、歴代の春の記憶からも嫌というほど見せつけられてきた。郷司殺しの罪を否定せず逃走したのも、罪が事実かどうかなど仙にとっては些事だからだ。具眼者の目的のためならば善人だろうと殺すし、悪人だろうと野放しにする。
今薄雪が共に歩いていられるのは、目的に反していないからに過ぎない。
(期待し過ぎては危険です)
春は、無意識に頼りにしていた自分を諫めた。
「まさかと思うが、そいつの家まで送ってやるつもりじゃないだろうな」
沈黙したからてっきりこれ以上会話をする気がないのかと思ったら、楸が再び口を開いた。どうやら、まだ嫌味が言い足りないらしい。
春は楸の視線から隠すように薄雪の傍らに腰を下ろしながら、勿論と首肯した。
「約束しましたから。母君の元にいくと」
「世間知らずの四季は知らないだろうがな、あんな餓鬼を使いに、しかも戦地に放り出す親なんて、クソに決まってんだよ」
「僕は薄雪の願いを叶えてあげたいのです。それに、母君は……病気なのかも」
「かもな。餓鬼もあんなに痩せこけてるし。だが新しい
それは、春も薄々勘付いていた。
麻鞋には土がついて汚れてこそいるがあまり擦り切れていないし、袍にも
ろくに食事も与えられず下仕えのように働かされていたというよりは、屋敷から出たこともない姫のようではあるが、大切にされていたかと言えば、疑問がある。
「それでも、薄雪が母君の望みを叶えたいと思っていることは事実です。それなら、僕は」
「自分の良心を正当化したいだけなら、そりゃあまりいい
「!」
突然の指摘に、春は薄雪の髪を撫でる手を無意識に止めていた。
(違う……僕は、そんなつもりでは……)
四季の巡りを戻すことで起きる犠牲については、囚われている間に嫌と言う程考えていた。今更、それが嫌で歩かないなどとは言わない。何より、春が留まったままでいることの方がより大きな犠牲を生む。
だから春は、そのどちらからも逃げたいなどと考えたことはない。春は立ち止まってはならない。あるのはそれだけだ。
けれど薄雪が現れて、理由ができてしまった。己の存在のために起こる全ての犠牲に見て見ぬふりをして、無心に歩く以外の理由が。
「そんなんじゃ、また捕まるぜ」
自分でも気付いていなかった内心を言い当てられ愕然とする春を瞼で遮って、楸が無慈悲な忠告を寄越す。
けれど春には、安易に揺らがされた存在意義の方が、受け止めようもないほど重かった。
戦争で失われる千の命より、四季の歪みで苦しむ万の命より、一つの家族の不幸せの方が重大事だという春を、一体誰が望むというのか。
◆
因陀州との最前線である珊底州
「間違いないか」
「はい。森の中の降雪が徐々にですが消え始めています。北側へと」
念押しに、部下が力強く首肯する。季節は揺らぐものだから雪の境界線が動くことは時折あったが、今回は確実に北上――つまり
(どういうことだ?)
因陀州との因縁は、既に何世代にも渡っている。
隣り合うからこそ、不作や飢饉、魔獣の出没など様々な苦難が訪れる度に因縁や行き違いが起こり、その度に軍を出しては睨み合い、時には争うということを繰り返してきた。
本来、三王花の揃う平和な時代には、その和睦と団結を目的に、十二華族の中で婚姻を繰り返してきた。その均衡を保つためにも、完全なる二子制の厳守は必須だ。
今回の戦は、その綻びにより発生したと言っても過言ではない。
華族は基本的に生まれて数年以内に婚約者を定め、六十歳頃までにはほとんどが輿入れする。そして珊底州の
これを知った因陀州
(当の本人は早々に別の戦線へと送られたそうだが……、殺し合いをさせられる
そこに、魔獣被害に端を発した郷里同士の諍いが起き、ついには因陀州が四季を捕まえるという大罪を起こしたことで、睨み合いだった争いはあっという間に激化した。因陀州は郷の独断と言ってはいるが、春を解放するだけのことにもう何か月も待たされているのが現実だった。
今は互いの戦力を削り合うのも底打ちで、停戦に向けて調整をしている真っ最中だ。お陰で州境に展開した軍には今や、圧力をかけ続けるために待機する以外にすることはほぼ皆無という状況だった。
哨戒任務と称して春を奪う工作を水面下で続けてはいたものの、失敗すれば部下を切り捨てるしかないのが現状だ。
そんな状況下で。
(何かが起きたか)
それが作戦行動の結果でも計画の埒外でも、最早構わない、と糸繰は思った。
長引く冬により兵站が追い詰められただけで、元々は戦力も武力もこちらが上だったのだ。華族当主である州司が停戦などと言い出さなければ、もっと食糧を回してくれれば、あと一押しで勝利を得ることができたはずなのに。
だがここでたかが群尉が停戦を破るような勝手な行動を取れば、後がどうなるか。両州に決定的な断裂をもたらすのか、或いは珊底州が追い詰められるのか。そうなれば、珊底州の人々はどれだけ苦しむだろうか。
敗戦州ともなれば多額の金品を要求され、長い困窮に喘ぐようになるだろう。たとえ念願の春が来て豊穣に恵まれても、その殆どを州に取り上げられ、因陀州への返済に充てられる。
(それでも、州や郷里が消えるわけじゃない)
そもそも十二州というのは大陸を縦横に広がる穏堵の森を基準に、時の具眼者によって定められた強制力を持った境界線であり、世の理法の一つだ。
華族は当主となると同時に州間の移動ができなくなり、その境界線を書き換えることも不可能だ。つまり、州を越えての支配や蹂躙はまずない。
他に平民である糸繰が思いつく被害といえば、
(まぁ、そんなことはどうでもいいか)
華族と平民に外見上の違いは少ないが、華族はそのほとんどが強い通力を持ち、花を操り、その寿命もゆうに三倍はある。同じ世界に暮らそうとも、平民と華族は似て非なる生き物なのだ。いくら想像したところで何の意味もない。
糸繰は完全なる休戦と和平に向けて、溜まっていた鬱屈をぶちまけるように号令を飛ばした。
「春を保護する! 全隊召集しろ!」
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