第八話 讒言、信ずること無かれ

 ヒヒヒ、と楸の耳元で気味の悪い笑声がした。


「!」


 あり得ない距離に本能的に飛び退って距離を取る。

 見えたのは、人――ではなかった。

 上半身は中年の男だが、交領くみえりの短衣の下から伸びるのは二本の脚ではなく、鱗の生えた一本足――魚の尾びれだった。しかもその尾びれは宙に浮き、夜の闇にぼんやりと光るように半ば向こう側が透けて見えている。


(海族、の鬼魄ルアハか!)


 道理でと、楸は舌打ちした。

 鬼魄も神魔デュビィの一種だ。そもそも神魔という存在は、未練持つ幽魄ゆうはくを材料にネオン神族により生み出される使い魔の総称で、その種類には複数ある。

 幽魄とは、本来、肉体が死亡すると域外へと向かうのだが、強い未練があると現世うつしよを彷徨い、神魔に囚われれば最後、魔化して人々に害を成す鬼魄となる。

 鬼魄は力こそ弱いがその性質から生きとし生けるモノへの強い恨みを持ち、実体を持たないからこそどこにでも現れる。そうして言葉巧みに人の心に付け入り、誰もが我慢し、押し殺している醜い感情を暴いて正当化させ、ついには悪事に手を染めさせるのだ。

 あの郷司を唆したのも、恐らくこの鬼魄だろう。鬼魄ならば、警戒の厳重な郷府でも深部まで簡単に入り込める。

 奴らに忌名いみなを知られようものなら、自我を失い醜悪な傀儡くぐつに成り果てるとまで言われるが。


(さっきの悪寒もこいつか?)


 何か見落としているものがある気がすると楸が警戒する中、海族の鬼魄は楸の周囲を泳ぐように漂いながら笑い続けた。


《あーあ、こいつらも生きるのに必死なだけなのに……これだから具眼者は情が分からないというんだ》

「……」

《お前も、こんな奴についていったら酷い目を見るぞ》


 反応のない楸から、鬼魄が後ろで縮こまっていた薄雪にすり寄る。

 俯いたままの薄雪は、尾鰭の先だけとはいえ、初めて見る半透明の奇妙な存在にただ目を見開いて硬直していた。


《具眼者ってのは、自分の目的以外どうなったっていいと考えてる連中だ。一緒にいるのも形だけ。邪魔になれば真っ先に見殺しにされるぜ》

「っ、……で、でも、お母さんの所に春を連れていくって」

「馬鹿! 神魔と口を利くな」


 鬼魄への警戒よりも恐怖心に負けて応えてしまった薄雪に、楸は再び飾り紐に通力を流しながら飛び出した。神魔の言葉に耳を貸すなど愚の骨頂だ。

 神魔と会話してはならない。神魔に傷付く心はない。だというのに人の心に熟知したように巧みに付け込み、悪事の道に引きずり下ろす。負けることはあっても勝つことはないという理屈だ。

 だが薄雪に向かった足は、地中から伸びてきた手に掴まれて届かなかった。兵士だ。

 土に呑まれても気絶せず、地表まで土を掻き分けて這いあがってきたらしい。土は窒息するほどには固めておらず、力のある兵士や術士ならば自力で出られるくらいにしたのだが、浅すぎたか。頭に肩に土を被った男が、まるで掘り返された死体のように楸の足にしがみついている


(クソッ、馬鹿力か!)


 死にそうになった恨みが、足首に食い込む手の平からひしひしと伝わって振り払えない。それを尻目に、鬼魄が続ける。


《約束でもしたか? 残念だなぁ。そんなの守るわけない。具眼者は民を守らない。守るのはこの世の理法だけ。生き物が全滅したって、理が守れれば満足なんだ》

「……っ」

《お前が辛い目に遭っている時に、具眼者が助けに来てくれたか? 他の誰かが守ってくれたか? ついていった所で、用が済めば殺されるだけだ》

「そ、そんなこと……」

「薄雪、聞いてはいけません」


 堪らず口を開いた薄雪を、春が耳を塞ぐように抱きしめる。たが春の懐にいる薄雪の強張った顔は、良くない想像を巡らし始めていることは明らかだった。


「用が、済んだら……」


 薄雪の呟きに、鬼魄がここぞとばかりに憐れみを存分に込めて続ける。


《可哀想に。利用されたんだな。道具のように》

「――――」


 その瞬間、ぷくり、と薄雪のこけた頬に豆粒のような花の芽が顔を出す。

 その頬を、ヒュッと何かが切り裂いた。

 矢だ。仙にただの矢は効かないからと後方で控えていた弓兵が、味方という障害がなくなったことで撃ってきたのだ。


「ぁ……」


 遅れてやってきた痛みに、薄雪がようやく状況を理解したように辺りを見回す。目を見れずとも、即席の土塁の向こうからじりじりと近付いてくる足と弓の端くらいは視認できるはずだ。

 楸は仕方がないと声を張り上げた。


「薄雪、目を使え!」

「ッ」

「敵を見ろ! 春を奪われるな」


 言いながら、楸も足を掴む兵士の顔を容赦なく鞋底で蹴りつける。だが立ち上がるそばから更に別の兵士が手を伸ばす。

 手加減をしすぎた。後々のことを考えてここである程度戦力を削る予定だったが、春を奪い返されては元も子もない。隙を見て二人を抱えて一気に跳ぶか、と方針を切り替えたところに。


「ダメです薄雪、使ってはいけません」


 当の春が、使える手札を封じにかかった。


「え……え……?」

「お前はすっこんでろ!」


 両側から反対のことを言われ困惑する薄雪に、楸は苛立ちとともに怒鳴った。と同時に理解する。やはり薄雪は自分の目の力を使いこなせていない。便利に使うという発想も恐らくない。


「ど、どう、したら……」


 薄雪が、まるで親鳥が蹴落とすまで巣に閉じこもる雛のように命令を求める。その目に浮かぶ焦燥は、まるで今まで自分で判断したことなど一度もないとでも言うようで。


「薄雪、僕の後ろにいてください」

「!?」


 薄雪が顔を上げられない間に、春が薄雪を背後に押しやった。と同時に薄雪の足元がひび割れ、そこから伸びてきた細い枝がまるで鳥籠のように薄雪をすっぽりと覆ってしまった。

 低木の酸塊すぐりだろうか。綺麗に整地された郷府とはいえ、地中の草の実や木の実を完全に除くことは不可能だ。それを春が強引に呼び起こしたのだろう。

 だがそれは悪手だ。


「は、春、ダメ、逃げて……!」

「子供を前に立たせるなんてこと、絶対にできません」


 蒼白になって酸塊の檻にしがみ付く薄雪に、春もまた貧弱な痩躯を震わせながら気丈に返す。それが強がりだと、楸でなくとも分かる。春の褙子はおりを凝視する薄雪の頬に現れた蕾が、音もなく開く。


(あいつ、半花か)


 それであそこまで卑屈そうな様子だったのかと、楸は得心した。

 半花は華族と平民の合いの子で、厳しい二子制を取る華族にとっては厄介者で、平民からしても気味の悪い存在でしかない。母親のもとに春を連れていくと言っていたし、その境遇も察せられるというものだ。

 加えて半花は情緒が豊かでもあり不安定でもあり、その度に花が咲く。花に養分を吸われすぎて虚弱にもなりやすい。

 この混乱では、益々厄介なお荷物と言えた。


「や、やめて……」


 薄雪が、立っていられないという風に頽れる。

 楸の厄介事処理の許容量が、ちょろり、と溢れた。


「――邪魔だっつってんだろ!」


 楸は怒号とともに丁寧と良心と寛容を爆発させた。物理的に。

 楸の髪を掴んでいた男が爆風と共に吹き飛ばされ、両側を塞いでいた白壁が巨大な木槌で殴られたかのようにベキッと凹む。

 一応身構えていた春や木の檻の中にいた薄雪、そして春を取り囲もうとしていた弓兵たちまでも、強風に煽られて通りをてんでばらばらに押し返されていた。


「っ……」


 薄雪が檻の枝先に背中をぶつけ、小さく苦鳴を上げる。その真上の枝にトンと着地すると、楸は通力の込めた飾り紐を躊躇いなく振り下ろした。

 ヒュンッと鋭い風切り音が鳴り、薄雪――の周囲の枝がバラバラと落下する。


「……え?」


 身を固くしていた薄雪が、痛くないとでも言いたげな声を上げる。


「薄雪……!?」


 春もまた同じ心配をして駆けつけてきたが、楸の足元を見てやはり同じように戸惑った。


《ぃぃ痛い痛い痛い痛い! 放せどけこの具眼者の狗が!》


 そう甲高い耳障りな悲鳴を上げるのは、薄雪を盾に油断していたがために楸に腹を踏みつけられることになった鬼魄だった。どうせ、次は誰を利用しようかと欲を掻いてでもいたのだろう。


「触れないと思って、油断しすぎなんだよ」


 実体のない鬼魄には、只人は触れることができない。だが世界中に散らばったネオン神族の肉体――神体具を回収し、ネオン神族の脅威を潰すことが本分でもある仙にとって、神魔の相手はいわば本職だ。殺し方は十分に心得ている。


《さっきは手も出せずに黙ってたくせに何だよ! 卑怯だぞ!》

「お前の知能を測ったに決まってんだろ。予想以上に馬鹿おろかだったな」

《なんだどぎゃあッ!》


 狂ったように悲鳴を上げて暴れ続ける鬼魄が煩くて、足に流れる通力を増やす。

 実際、この海族の鬼魄が仙を警戒して距離を取るようであれば、長く地上に留まり知識を蓄えた厄介な相手だと判断した。

 だがあの軽率で愚かな行動は、稚拙で衝動的だった。春を捕まえろと唆すことはできても、ここまでの規模で状況を動かせるとは思えない。人が増えれば増えるほど、我に返る者も増えるからだ。

 楸は確信を持って問い詰めた。


「お前一人で春を捕まえさせたんじゃないな。仲間は? 他の神魔がいるだろ」


 鬼魄は弱くとも実体を持たない分、どこにでも出没し好き勝手に人心を乱して愉しむ。その目的は創造主であるネオン神族に忠誠を尽くすというよりも、幽魄の時の怨みや快楽に従っているに過ぎない。

 それが大きな面倒事を起こす時には、神魔で徒党を組んだか、その背後に知恵持ちの神魔――死花屍マヴェットがいる可能性が高い。

 春を解放するのが第一の目的ではあるが、この騒動に関わった神魔を炙り出して一掃することもまた楸の役目だった。


《知るかよそんなの! 早くどけどけどけどけどげぇぇぁぁああ!?》


 喚き散らす鬼魄の腹を、楸は通力を流し込んで一気に踏み潰した。

 元々、神魔には仲間意識などというものはない。最初に他の神魔を売って命乞いしなかった時点で、期待はしていなかった。


「薄雪、大丈夫ですかっ」


 春が何故かまだ心配そうに薄雪のもとに駆け寄る。檻の中の薄雪を抱き起そうとして、その頬にある異常に瞠目した。


「薄雪、その花は……」


 頬だけでない。手首や足首にも、同じ花が

 兵士の持っていた松明があちこちに落ちてしまい光源が少ないにも関わらず、その花弁は繻子のような光沢を持った赤紫とも青紫ともつかない色で、その下に続くはずの茎は薄雪の肌に潜り込んでいる。体に根を張って花開いていることは明らかだった。

 春はそれらを丁寧に手折ると、そっと袖に仕舞いこんだ。それから薄雪に傷がないことを念入りに確認すると、責めるように楸を睨む。どうやら、楸が薄雪もついでに殺そうとしたとでも思ったらしい。


(失礼だな)


 フン、と楸は鼻を鳴らした。

 神魔ではあるまいし、約束は守る。その結果にまで責任を持つ気はないが。


(あとは……)


 散り散りにくたばっている郷兵たちを見下しながら、後処理について考える。

 郷司のことなど放っておこうかと思ったが、他の神魔がいる可能性があるなら尋問くらいはすべきだろう。それに、終始郷司の影に隠れていたあの獣族も気になる。

 楸は転がって呻いている弓兵の間を恬然と歩きながら、自分で作った土塁に登った。力のある兵士や術士ならば出てこられるが、あの太り切った郷司では自力で這いだすことはまず無理だろう。

 耳をそばだてれば、案の定、喚くだけ喚いて息切れしている声を拾うことができた。


「むー、むー! 誰か、儂をは――がはっごぼほっ」

「ここか」


 楸は無造作に手を突っ込むと、通力で土をどけながら掴んだものをむんずと引き上げた。投網に絡まった魚よろしく、全身にぼろぼろと土をつけた横幅の広い男が、すっかり疲弊した顔で口から土を吐き出した。


「神魔と接触したのはお前か」


 腕を掴んだままというのも重いので、楸は郷司を放り捨てながらそう質した。すると案の定、尻餅をついた郷司は何のことか分からないという風に目を剥いた。


「は? 神魔? 儂はそんなものは知らんぞ」

「またか。ったく……」


 王花が欠けると神魔が蔓延るということは、言い伝えや風俗の一種として広く周知されている。だが実際に神魔に遭遇すると、神魔と認識できないか、しても騙されているという自覚がないものが半数近い。

 鬼魄に囁かれても幻覚とか気のせいで片付け、逆に死んだ動植物の肉体に別の鬼魄を入れ込むことで実体を手に入れる死花屍カファラでは、神魔と気付くことすら難しい。

 夏ならば、死花屍が放つ死臭が嫌でも鼻を突くのだが。


(匂い……あれはしきみか!)


 先程感じた異臭の正体を思い出し、楸は大きく舌打ちした。

 郷司が現れた時に感じた鼻につく匂い。あれは死臭を隠すのに使われる樹木の匂いだ。だとすれば。


「仙でも、一目で見抜くというわけじゃないんだな」


 小馬鹿にした声が楸の背を捉えるのと、楸の飾り紐がその横っ腹を切り裂くのとは同時だった。


「っ」


 が、手応えが浅い。そのまま後ろに跳躍して距離を取られた。

 そこに、土塗れの郷司が喜色を滲ませて這い寄った。


「おぉ、犬樿いぬつげ、無事だったか!」


 郷司が死花屍の風衣かぜよけの裾にしがみ付き、頭部を覆っていた頭衣がずるりと外れる。そこから露わになったのは、予想通り犬に似た鼻筋や肉厚な三角耳を持つ獣族の顔だった。


「やっぱり、てめぇ、死花屍か」


 何故獣族が西大陸に来ているのかと思ったが、死花屍であれば納得がいく。他大陸で野垂れ死んだ異種族の幽魄には、強い郷愁と怨念が宿りやすい。

 確かめるように鼻を動かせば掘り起こされた土の匂いに混じって、樒と幽かな死臭が鼻を突く。何故すぐに気付けなかったのか。


「せっかく王花が欠けたのだから、謳歌しない理由はないだろ?」


 犬樿と呼ばれた死花屍が、意地の悪い子供のように口端を吊り上げる。

 楸もまた凶悪な笑みで返してやった。


「神魔が謳歌できるのは、死だけなんだよ!」


 悪態とともに犬樿に斬りかかる。が、すんでで飾り紐を躱される。想定通りだ。逃げた軌道の先で待ち構えていた通力で爆炎を叩きこんだ。


「ぐぁ!」


 犬樿の体が真横に吹っ飛び、壁に激突する。その身がずるりと地に落ちる前に、一跳びでその首を狙う。


「くそがっ」


 飾り紐が頸動脈を捉える寸前、犬樿が壁を這う蜘蛛のように逃げる。が、容易に捕捉できる――と追撃した目の前で、犬樿の体が不自然に跳ねた。

 見失ったのはしかし一瞬、すぐに捉え直す。


「んな小細工、通じるかよ!」


 宙を舞う犬樿の背中めがけて、再び炎の矢を叩きこむ――直前、その体が横幅の広い人影の向こうに入る。郷司だ。


(これが狙いか!)


 仙が世の理法を優先するとはいえ、無闇やたらに人を殺すのは後々面倒だ。楸は溢れる寸前だった通力を無理やり押し戻すと、手の平に現れかけていた炎を握り潰した。

 というのに次の瞬間、犬樿と盾にされた郷司が諸共、楸の背後から飛来した氷の刃に貫かれていた。


「な!?」

「ご、郷司様!」


 土の中から這い出てきた兵士や更に増援に追いついた兵士が、驚愕の声を上げる。そしてそれはさすがの楸も同じだったが、視線を向けたのは逆――氷の刃が放たれたもとだった。

 そしてやっと理解する。


(……お前か!)


 郷府の最も外側を囲む闇に沈んだ瓦屋根の上の一つに、小さな人影がある。この距離と暗さでは正確な姿かたちも匂いも判別不可能だが、分かる。

 最初に感じた悪寒。それは犬樿などではなく、そいつだったのだと。

 理解した瞬間、楸は風を引き寄せて瓦屋根の上へと飛び乗っていた。


「捕まんなよ、春!」

「えっ?」


 とぼけた声を上げる春には構っていられない。今ここで奴を逃せば見つけ出すのは難事だ。

 心許ない月明かりが照らす瓦屋根の大棟から大棟へと、楸は跳躍を繰り返した。


(俺が郷司に手をかけるのを、高見の見物して待ってやがったな)


 そしてそれが回避されると見るや、楸が殺したように見せかけて自ら手を下した。その結果、神魔も関わった当人も消え、仙も郷司殺害の下手人として郷府に追われる立場になる。

 となると、春を捕獲させたのは手始めに過ぎず、仙を陥れることも最初から計画の内だった可能性すらおる。そしてその混乱に乗じて、本当の目的を成すために動き出す。


(目的は何だ?)


 神魔はネオン神族が作り出した使い魔であり、その最終目的は女神によって亜空間に閉じ込められたネオン神族が、体を取り戻して地上に戻ることだ。その力を蓄えるために人々の悪意を利用し、地上に混乱をばらまいている。

 これもまたその一つなのだろうが、それにしてはどうにも神魔らしからぬ計画性が気になる。


「せ、仙が、郷司様を……!」

「……チッ」


 下から聞こえた震え声に、楸は仕方なく思考を断ち切った。最善が良かったが、次善に切り替える潮時だろう。

 楸が例の影がいた屋根に辿り着いた時には、既に奴は郷都の街並みに逃げ込んだ後だった。閉門後でも大通りの列肆みせみせにはいまだ明かりが灯り、人の行き来もある。あの中から容姿も性別も分からない者を探すのは、流石の仙と言えど無理がある。

 そして奴を捕まえられないのならば、楸の無実を証明することは難しい。周囲からは、楸が郷司を殺した途端逃げ出したようにしか見えないだろう。


「逃げるか」


 楸は松明を掲げて追ってくる郷兵を見下ろすと、再び瓦を蹴って元の場所へと舞い戻る。


「なっ?」

「つ、捕まえろ!」


 逃げたとばかり思っていた仙の突然の帰還に、兵士たちがあからさまに動揺する。それらに一瞥だけくれると、楸は再び兵士たちに取り囲まれておろおろする春と薄雪を右肩と左脇にがっしと抱えた。


「はい?」

「……え?」


 そして戸惑う二人には一切の説明もせず、再び風気を呼び寄せて跳躍すると郷府からさっさと遁走した。




       ◆




 郷府から響いてくるかすかな喧噪を気に掛けることもせず、狗尾くびは夜の街を一人ふらふらと歩いていた。

 雨でもないのに頭衣をすっぽりとかぶった視界は不安定で、時折思い出したように笑いが漏れる。くひひ、くひひと、喜びが抑えられないという風に、数字のような火傷痕のある手の甲を口に当てて隠す。


「……やぁっと見つけたよ」


 狗尾は、ついに我慢できないという風にそう零した。

 くひひ、くひひ。


「あれが、最後の一人か」


 ふらふら、ふらふらと夜道を歩く。まるで酔客のように不安定で、道行く者に一度ならずぶつかっては悪態をつかれていた。だが少しも気にならない。

 ずっと抱えていた鬱屈がもうすぐ晴れると思えば、そこら辺の人間の首でも腕でも切り揃えて、華麗に踊り出したいくらいには気分が良かった。それくらい、今宵の悪戯は良い釣果だった。

 だが今は、騒ぎを起こすのは得策でないし、そもそも目的のためには無意味だ。やらなければならないことは、まだ無数にある。


「さぁ、最後の旅を始めようじゃないか。神様方よ」


 くひひ、くひひと、歪んだ口の中で笑い続ける。

 頭上の凍れる月の女神は、狗尾の幸先を祝うかのように今宵も冴え冴えと孤高だった。

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