第六話 朔風(きたかぜ)、葉を払う
四季の運行が遅れている、という報告が具眼者の住まう
本来であれば、報告を受けた具眼者が末位の
このため、重要かつ緊急な案件は具眼者の側近である三
「春が捕まってるって、何度目だよ」
春が動かなくなったという
具眼者は過剰に下界に干渉してはならないという鉄則がある一方、世の
どれも、
「春が止まって半年、か?……あんまり時間はねぇか」
今までにも、春や秋は欲に目の眩んだ連中に幾度となく捕まっている。きちんと夏や冬が巡らなければ真の繁栄も収穫もないというのに、永劫の豊穣などという蠱惑的な幻想に誰もが惑わされる。現状が苦しければ苦しいほど人々は現実から目を背け、根拠もない希望に縋り始めるのだ。
そこに度重なる不運や、或いは強烈な悪意が訪れれば、春は消滅し春絶期が始まる。
何年も春が訪れなくなれば、次第に大雨や旱魃、不作が続き、大地はあっさり痩せ細る。冬や夏や秋がどんなに正しく巡ろうとも、欠けた穴は破綻を呼ぶ。次に新たな春が生まれるまで、人々は耐えるしかない。
そこに天人が現れれば、春を殺した者だけでなく辺り一帯を構わず一掃するだろう。そうなっては手遅れだ。
「王花が揃っていれば、まだしもマシだったものを」
楸は仙籍に入って百年近いが、その間に春絶期や秋絶期に遭遇したことはない。歴史書に幾つか記載があるだけだ。
それほど四季が消滅するということは重大事であり、特に自らの大陸を出ることができない具眼者にとって、それが自分の管轄範囲で起こるということは非常に不名誉なことと言えた。
「そこんとこ、うちの
供もなく歩いているものだから、口を開けばついぶちぶちと愚痴が零れる。
とっとと終わらせて帰ろうと、楸は改めて周囲を見渡した。
調査してきた仙仙の情報と、例年の春の通り道とを、頭の中で照らし合わせながら因陀州を北上してきて、既に一週間近い。
州都は夕方になっても汗ばむ程の陽気で、初夏といっても差し支えないだろう。あそこまで夏が近いのであれば、春は恐らく州境の森ぎりぎり辺りに囚われている可能性が高い。
次の里は郷都
「冗談じゃねぇぞ」
仙には特に強い通力があり、仙籍を得て不老長寿の身となると益々人間離れした力を得る。だが今回は春の痕跡を辿っての地道な道行きとなり、実に辛抱を強いられた。
風に乗って跳躍し距離を稼ぐこともできなければ、辺り一帯の土をひっくり返して見通しを良くすることもできない。何日も歩き続けるくらいは大した労力でもないが、失せ物探しや人探しなどは、特に楸の嫌いとする仕事だった。
「絶対ここで見つける!」
しかし博栢郷の扁額が掲げられた市門に辿り着いた頃には、すっかり日が暮れて閉門時間になっていた。門番どもは何やら慌ただしくしていたが、楸はそれらを無視して通過する。誰も見咎めない。
周囲の気配を探りながらも、楸は大通りをまっすぐに郷府を目指した。まずは郷司を締め上げる。と、意気揚々と歩く。
その途中、あるものが目に留まった。
「……花?」
それは、踏み潰された花だった。どこからか落ちてきたのか、幾つかある花冠は全て花弁が潰れ、散々に踏みにじられて全体的に変色している。
沈丁花、花桃、更紗空木、大手毬……州都もそうだったが、この郷都も長い春により初春から晩春までの花が、瓦塀の向こうで軒並み開花していた。奇妙なものだ。
しかし楸が引っかかったのは、その花自体だった。
「この花……なんだったか」
通り沿いの
見覚えはない。だが記憶にはある気がする。
どこで聞いたのだったかと考えているうちに、郷府の表門に辿り着いていた。そこで、楸は三度目の違和感を覚えた。門番が一人しかいない。
田舎の郷府で、隣州とは停戦中とはいえ、一触即発なのは変わらない。春を引き留めているというのならば、冬に苦しむ連中が血眼になって奪いに来ているはずだ。
州境に戦力を集中させているとはいえ、ここまで無防備なのはおかしい。あからさまな厳戒態勢は敷かずとも、裏では厳重に防備を固めているかと思ったのだが。
(何かあったか? まさか居ないなどと言ってくれるなよ)
ひやりとしたあと、思えば市門の番兵も妙に浮足立っていたことを思い出す。
楸は僅かに逡巡したあと、今回も名乗るのをやめ、気配を消して通り過ぎることにした。
博栢郷が春を捕えているのなら、春を解放しようとする具眼者など何くれと理由をつけて拒むはずだ。正直に名乗れば必ず足止めされる。それは時間の無駄だし、そもそも問答自体が煩わしい。
楸は煩わしい事は全部嫌いだった。
(仙になって一番役に立つのって、この潜行能力だよな)
調査や潜入などの雑事も多いため、仙籍に入ると仙は幾つかの秘術――仙術の習得を必須とする。楸は礼儀よりも効率を重んじて乱用しながら、幾つもある門と門番の前を静かに通過した。
その途中で、四度目の違和感に遭遇した。
「
拾い上げて見れば、それは子供が一歳になった時に両親や祖父母が成長と幸福を願って贈る
だが今地面に転がっている色褪せた鷹鳴枕は泥だらけで、あちこちに
「贈り物……なわけはないよな」
春が留まる郷府の兵士が、色褪せたものしか買えないとは考えにくい。となると、持ち主は鷹鳴枕を何年も大事に持ち続けた者――子供ということになるが。
「まさかな」
楸は導き出された仮説を放棄して、再び黄昏の郷府を歩き出した。
◆
『君には、危険だと思います』
春の言葉に曰く言い難い感情が込み上げてきて、薄雪は唇を歪めるしかできなかった。
まるで一つの
薄雪がどうやってここまで辿り着いたのか。本当に危険なのはどちらか。
それが怒りなのか自虐なのかも分からぬまま、薄雪は衝動的に視線を上げていた。
細い枝先から芽吹いたばかりの、宝石と見間違うほどの萌葱色の春の瞳は、悲しげだった。
「……? 君、は……」
春が戸惑いながら瞠目し、そして言葉を止める。
『見ないで!』
「っ」
母の拒絶が脳裏に鳴り響き、薄雪は反射的に視線を爪先に落としていた。次には嫌悪の眼差しを向ける母と春の幻が立ち並び、そこに辿り着けず、冬に取り残される自分の姿がまざまざと思い描かれる。
(それはいや……!)
ぷつり、と首の辺りで皮膚が裂ける音がする。薄雪は咄嗟に、頭を出した芽を手で握り潰していた。
見られてはならない。母が言っていた。半花は嫌われているのだから。
(落ち着いて、落ち着かなきゃ)
何度も自分に言い聞かせる。浅くなる呼吸を意識的に深く吐き出し、それから春が無事に立って呼吸していることを視界の端で確認する。
ゴホッゴホッと咳き込んではいるが、大丈夫だ。薄雪はまだ取り返しのつかない失敗はしていない。
(春を、連れて帰らなきゃ)
薄雪は握り潰した芽を袖に隠すと、いつものように春を見ないように気を付けながら、室内を見回した。だが薄雪が探せるような場所に、春の足枷を外せるものがあるはずもない。薄雪の目も、瞳を持たないものには何の役にも立たない。
薄雪は意を決して踵を返すと、入ってきたばかりの戸に手をかけた。
「……春は、必ず君の元へも行くから」
春が薄雪の背に声をかける。帰るとでも思ったのかもしれない。春がいなければ、薄雪に帰る場所などないというのに。
薄雪はぎゅっと唇を結ぶと、戸の向こうの薄闇に踏み出した。室の前にいた郷兵はまだ気絶したままだ。その腰に括り付けられた刀に手を伸ばす。だが兵士の結んだ紐は薄雪には複雑かつ固くて難儀した。
結局鞘は諦め、薄雪は柄に両手をかけると、尻餅をつきながらもどうにか引き抜いた。それを引きずるように運び、春のいる箱型寝台へと戻る。
「え? それ、どこから……あれ、そういえば見張りの兵士は……?」
春が目をぱちくりとさせるのに構わず、薄雪は刀を振りあげた。が、生まれて初めて手にした武器だ。加えて成人男性を想定して作られた刀は、発育不良の上に長旅で疲れ切っている薄雪にはあまりに重かった。
体が鋼の重さに引っ張られ、滑り止めの柄巻が手の平に食い込む。それでも振り回されるままに刀を持ち上げると、そのまま振り下ろした。
「へえっ!?」
突然足首を凶器で狙われた春が、蒼褪めて足を引っ込めた。当然ながら足枷には傷一つなく、代わりに春の太腿近くの床に小さな刀瑕が付く。
それを見て、薄雪は自分の言葉が足らないことを察した。今まで自分の行動に対して他者に説明するという機会も必要もなかったため、思いつかなかったのだ。
「あ、あの、
「ぼ、僕がやります」
「え?」
春が頬を引き攣らせながら手を差し出す。薄雪は驚いたが、確かに春の方が体も大きい。
薄雪は逡巡の末、こくりと頷いた。
「おいおい、どっちも無理だろ」
どこか呆れを含んだ男の声が、二人の選択を小馬鹿にするように却下した。
春が驚いたように声のする方に首を向け、薄雪もびくりと肩を揺らしながら戸の隙間に現れた鞋を見る。兵士のそれではなかった。
誰、という疑問を口にすることも思いつかない薄雪に代わるように、春が呟く。
「その風体、もしや仙ですか?」
せん、という単語に、薄雪は磨き上げられた床にぼんやり映る姿に目を凝らした。
身頃のゆったりとした
本で読んだ限りでは、仙とは各大陸を監視する具眼者に仕える特別な存在で、具眼者と同じく強い力を持ち、神出鬼没で不老長寿という、天人や神族に次ぐ超常の存在ということだったが。
「どんな手を使ったかは知ねぇが、どういう状況かは大方察しが付いた。俺がやろう」
どこまでも俗っぽい言動とともに、仙は警戒するでもなく薄雪の持っていた刀を軽々と取り上げた。それから逃げていた春の足枷めがけ、真っ直ぐに振り下ろす。重々しい鉄の足枷が、まるで砂糖菓子のようにぼろりと壊れた。
「さすが、仙ですね」
春が関心しながら、足枷のなくなった足首をさする。
だが薄雪は、それよりも目を引かれたものがあった。
「その、偶獣……」
「あぁ?」
仙が、左手に鷲掴みにしていたものを軽く持ち上げる。それはやはり、ここに辿り着くまでに奪われ、結局取り返すことができないままになってしまった薄雪の鷹鳴枕だった。
あちこち踏まれて汚れ、縫い目が裂けているところもあるが、間違いない。褪せた黄緑色に鼈甲の目と嘴の、薄雪の唯一の持ち物。
「本当にお前のなのか」
その言葉に、薄雪は心底安堵した。春を連れ出したら帰り道に探そうとは思っていたが、兵士が起きたり集まって来ていたりしたらきっと難しいと、半ば諦めていたのだ。
薄雪は仙を警戒していたことを愚かに思いながら、そっと両手を差し出した。だがいくら待っても、記憶した手触りが戻ってくることはなかった。
「……?」
薄雪は内心で首を傾げた。それから、何か言わなければならないのだと気付く。
「あ、あの、か、返して、くださ……」
「いいぜ」
薄雪のまごついた声が終わる前に、仙が是と答える。だがそれに喜ぶ間もなく言葉が続けられた。
「ただし、条件がある」
「じょうけん……?」
「ここを出たら、二度と春に近付くな」
鋭くぶつけられた、それは命令だった。
だがそれよりも、薄雪には承服できない言葉があった。
「……それは、できない、です。お母さんに、春を、連れて帰らなきゃいけない、から」
「春は俺が解放する。そのうちお前のところにも春が来る」
違う、そうじゃないと、薄雪は頑是ない子供のように首を横に振った。
確かに、春が再び歩き出すのなら、冬にいる人々はただ待てばいい。だが薄雪は、春の豊穣が欲しいのではない。薄雪が母の元に春を連れ帰ることにこそ意味があるのだ。
「か、帰って」
「は?」
「春は、わたしと行くの。だから、あなたは帰って」
「ま、確かにこんな汚い偶獣一つじゃ安すぎるか」
薄雪の拒絶に、仙はいやらしく笑うと鷹鳴枕を両手で持ち、力任せに引き裂こうとした。薄雪は咄嗟に声も出せず飛びつきながら、仙の目を睨み上げていた。仙が表情も変えず鷹鳴枕を背後に回す、その動きが途中で僅かにぶれる。
(返して!)
仙が倒れるまで視続ける、と決めた次の瞬間、
「え?」
薄雪は背中から組み敷かれていた。郷兵の時と同じだ。だがあの時とは比べ物にならないほど鮮やかで無駄がなく、痛みを感じる暇すらなかった。
薄雪が状況を呑み込むのを待たず、仙が後ろ手に拘束した薄雪の手を捻り上げる。
「なんだ今のは。目か?」
それは、先程までとは明らかに違う、容赦を一切排除した声だった。体中に力が上手く伝わらず、肩越しに振り返ることもできない。
仙の右手に握られたままの刀身に、蒼褪めた薄雪が映り込む。
「まぁ、何でもいい。具眼者は世の理法を守る。それを邪魔する者は排除するだけだ」
背中と取られた腕が、ぎりぎりと軋むような音を上げる。呼吸が苦しくなって、徐々に思考が鈍くなる。朦朧とする意識の中、薄雪は妙な納得を感じていた。
(やっぱり、こんなものなんだ)
兵士たちが何人行っても連れてこられなかった春だ。何の力も持たない薄雪に、成し遂げられる道理がない。春に会えただけでも上々だと言えるのではないか。
ここで殺されても、十分に言い訳は立つ。
(ころ、され……)
気道を圧迫されていなければ、笑声が漏れるところだった。
最初から、薄雪は期待などしていなかった。否、あの小さな室に閉じ込められてからずっと、期待などしていない。薄雪はいつだって、世を守るという具眼者にとってさえ、邪魔者なのだ。
人でも華族でもない半花。魔獣さえ殺す邪悪な目。そこに春を捕まえる大罪が増えたところで、末路は変わらない。
ただ、願わくば。
(おかあ、さん)
この仙が、母に春を届けてくれるというのなら。それで戦争が終わって、父が母の所に戻るのなら。二人が幸せになれるのならば、それでいい。
けれど。
(笑って、ほしかったな)
母に、笑いかけてほしかった。
ただそれだけのことが、いつだって叶わない。
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