第五話 君ませと、春

 そのへやでは、誰もが笑顔だった。


「聞いたか。珊底さんて州の連中がついに森を出たと!」

「これで我らの勝利は確実よ!」

「この調子で行けば、ひと月と経たずに連中を打ち崩せるぞ!」

「えぇ。あと一押しですね」

「今まで珊底州の連中には散々煮え湯を飲まされてきたが、ついに……!」


 なみなみと酒を注いだ盃を酌み交わしながら、有り余る料理を挟んで今日の成果を喜び合う。想像しうる中でも最も華々しい未来が必ず訪れると信じて疑わない。

 日が暮れて夜が更けても室には暖気が満ち、食事とともに始まった楽の音は途切れることなく鳴り続けている。それに合わせて踊る舞人たちは、郷里中から掻き集めたのかと思うほど皆美しい。

 なんの不足もない。


 だがその中で瑕疵の一つもない最上の美を誇るのは、上座にいる人物だった。

 決して穢れることのないうすもの褙子はおりや、その下に広がる引きずるようなくんの裾も風雅で美しいが、何より人々の目を惹いたのは、その浮世離れした艶冶な容貌だった。

 新緑の葉の上でぷくりと膨らんだ朝露の如く、世俗の穢れなどまるで知らぬように澄んだ萌葱色の双眸。雪割草の花のように凛と伸びた鼻筋や、丁寧に彫り出された一級工芸品のような細い顎。絹糸かと見まがうほどに滑らかな緑金色の長い髪は、額から二筋に分けて耳元で結んだ下げ角髪みずらで、どこから伸びているのか、淡黄色の木香薔薇の花がまるで花鈿かみかざりのように、蔓が耳元の髪に結び紐の代わりのように巻き付いている。

 一見しては男なのか女なのか断ずることも難しいその美貌は、誰しもの目を奪い、胸に得も言われぬ安堵を与える。吐息は春の息吹で、微笑みは豊穣を約束する。

 それこそが春。

 寒くひもじい冬の残滓を掻き分けて、蟄虫ちっちゅうを揺り起こし、植物に雪を押しのける力を与え、実りを連れてくる、万物の精霊と古の神々とを繋ぐ存在。古きパリョ神族の一柱である春分産霊命はるわけのむすびのみことの眷属であり、永遠の旅人。一年をかけて世界十二大陸を巡り、決して一所に留まることなく、また引き留めることの許されない悠久の客人まれびと

 その通り過ぎるだけのはずの春がこの博栢はくはく郷府に留まるという嘉祥に、しかしただ一人、はらはらと涙を零す者がいた。

 当の春である。


「帰りたい」


 笑顔が絶えない人々に囲まれながら、春は自分の手元だけを見つめて絞り出すように呟いた。その声は鳴り続ける楽器と歌声に掻き消されるほどであったが、すぐ隣に監視人のように居座る男――郷府の長である郷司・黄蜀おうしょくの耳にはしかと届いていた。


「お疲れになりましたか? こちらのあつものなどは滋養の多い野菜たっぷりで、疲れによく効きますよ」


 黄蜀が、福福とした顔を更に笑ませて手元の椀を勧める。春はその漆器の椀をじっと見つめてから、そっと手を伸ばした。春の嫋やかな指先が、椀の縁に触れる。

 途端、椀の木目がずずっと揺らぎ、そこからもぞり、と小さな枝が飛び出した。汁が僅かに飛び散る。


「こ、これでは飲めませぬな。今、他のものを」

「帰りたい、と私は言ったのです」


 慌てて他の膳を見渡す黄蜀を遮って、春がもう一度繰り返す。それは先程と変わらぬか細い声だったが、黄蜀が次の言葉を切り替えるのに十分な意思の強さを宿していた。


「……で、では、お部屋にご案内しましょう。ごゆるりとお休みなされませ」


 言いながら、春を促して立ち上がる。

 春はやっとこの実のない宴会から抜け出せることに安堵したが、連れていかれるのは結局この数か月閉じ込められている室だった。

 郷府の建物の中でも最奥に位置し、唯一ある丸窓も嵌め殺しで、日中も僅かな光が入るだけ。殺風景な空間には衝立てさえなく、三方を精緻な透かし彫りで囲んだ豪華な寝台が孤独な王のように鎮座している。

 左側面にははいの時代の最初の神であるとされる神闇大御度神かむくらおおみとかみの御遣いである御先烏コラーキが、右側面には闇の神と対を成す天日邇岐志神あめひのにきしのかみの御遣いである光鷹使イェラーキが、今にも羽ばたきそうな躍動感で彫り込まれているが、とても感嘆する気にはなれない。

 何故なら、その全てを台無しにするものが、寝台の短い脚には取りつけられていた。


「いつまで、このようなことを続けるのです」

「もうじきです。四季が巡るように、我らのもとに完全なる勝利が巡ってくれば、すぐにでも」


 春の何度目とも知れない問いに、黄蜀がいつもと同じように答える。その間にも、前後両脇を固めていた郷兵が、寝台の脚から伸びるものを春の左足にくくりつけていた。春が軽蔑するように見下しながら郷兵の手を振り払えば、寝台の脚と春の細い足首とを繋ぐ長く武骨な鎖が、嫌がるようにじゃらりと鳴った。


「こんなことをしても、意味などありません。それに四季を捕えることは大罪です。いずれこの島の具眼者か、天人マルアハが……」

「そうは言っても、一向に誰も現れないではないですか。それはつまり、あなた様がここにいることこそが道理という、その証左では?」

「四季は永遠の旅人、悠久の客人です。留まることなど」

「客人はもてなすものです」

「ですが、その帰るのを妨げてもならない」


 得たりと口角を上げる黄蜀に、春がぴしゃりと言い返す。だが黄蜀は不出来な冗談を聞いたとばかりに笑い飛ばした。


「何をおっしゃいます。あなた様に帰る場所などないではないですか、御春みはる様?」

「……っ」


 結局、春は黄蜀たちが去って一人になるまで沈黙という抵抗をするのが精々だった。


「どうして、こんなことに……」


 四季は、歩くことが至上命令である。休むことや、行きつ戻りつすることはあっても、決して止まってはならない。

 だが四季は上級精霊ではあるが、攻撃や防御といった力があるわけではない。できるのは精々、近くにいる植物や動物に春の祝福を与え、その生長を少し後押しする程度だ。金属でできた足枷を壊すことはできないし、自分の足を切り落として逃げても、郷府にいる者たち全員を払いのけて進み続けることはまず無理だ。

 何より、それができたとしても、切り落とした足がすぐに回復するわけではない。足がなければ歩けない。歩けない四季に存在価値はない。歩みが遅れれば四季の巡りが遅れ、四季が遅れれば自然の営みが歪み、生き物全てに影響を及ぼす。

 実際、四季は今までにも何度か代替わりし、その度に記憶が引き継がれている。中でも春と秋は、特に擾乱の世において幾度となくその身を危険に晒してきた。今代の春もまた、春絶期の終わりに、絶望と悲しみの中で自意識を獲得すると同時に歩き出した。

 その道行きは、常に四季を見送る人々の自制と善意に委ねられていた。


「春は、誰もに平等に訪れなければならないのに……」


 春は純白の絹の寝具に顔を埋めながら、今宵も何もできない己を責めた。

 春が自分の足を切り落として歩きだせば、ほとんどの官吏は慄いて道を開けるだろう。彼らは四季を捕えるという大罪を、ただ戦に勝つためだけに正当化しているだけに過ぎない。

 けれど春は、冬のような牢乎ろうこさも、夏のような苛烈さも持ち合わせていなかった。ただ毎晩、気の早い戦勝祝いと称して開かれる宴から早々に逃げ、引きこもって我が身を嘆くしかできない。


「僕に、強い意思があれば……」


 そう、虚しい願いを何度口にしただろう。微睡むように瞼を閉じ、床を通して聞こえてくる鼓と鐘の響きに耳を傾ける。ここから一刻も早く解放されることを、ただ願う。

 だがそれが叶った時、歩き出した先にいる人々は、長い冬の中で恐らく――。



「あなたが、春?」



 不意に、声がした。

 春は驚いて顔を上げた。三方を囲まれた構造のせいで音が聞こえにくいのもあるだろうが、引き戸の擦過音に気付かなかった。いつの間にか眠っていたのだろうか。

 春は凭れかかっていた寝台から上半身を起こすと、唯一の出入り口を見た。

 子供特有の高い声から想像する通り、僅かに引かれた戸の陰の中にいたのは、背の低い、痩せぎすな少女だった。十歳とおになるかどうかというところだろうか。

 幼い顔は土色で、首の横で左右二つに結ばれた黒髪は雨であらったようにごわついている。交領くみえり短衫きものには畑仕事の後のように土埃が着き、その下に見える袴褶はかまの裾も、まるで獣道を歩いてきたかのように擦り切れ薄汚れている。

 郷府にも下働きの子供はいるが、このようにみすぼらしい身なりの者がここまで出入りできるとも思えない。


 春はその少女を誰何しようと寝台から身を離したが、その少女の瞳を見て、寸前で言葉を置き替えた。

 戸の陰に沈む少女の瞳は、昏かった。少女を包む背後の闇よりも深いつつ闇が、その少女の瞳には満ちていた。そしてその瞳には、誰もが春に向ける感情を何一つ孕んでいなかった。

 否、正確には、春を見てもいなかった。春かと問いながら、その漆黒の瞳は自らの爪先を凝視している。


「君は、冬から来たの?」


 春は、ちくりと痛む胸を押し隠してそう問い返した。問いながらも、確信していた。

 少女には、春に出会った者たちの多くが抱く喜びも、希望も、希求も、何もない。春の顔を見てもいないのに、全身で睨まれていると分かった。


「そう」


 と、少女が春を見ないまま口を開く。


「春って、ひどいのね」


 その声はどこまでも平淡だった。責めているというよりは、ただ淡々と事実を述べている。そしてそれは、長い冬に苦しめられた子供にとって一切の誤謬なき事実だった。

 常に決まった時期に巡ってくるはずの春が、一所に留まって歓待を受け、豪華な寝台で寛いでいる。使命を忘れ、寒さと飢えに苦しむ人々のことを思いもせず、己の快楽を優先しているようにしか見えないだろう。

 その声に僅かでも揺らぎがあれば、春はみっともないほどに跪いて謝ったろう。けれど少女の声には、およそ感情というものが見えなかった。だからこそ春には肯定する以外の言葉がなかった。


「えぇ。とても、酷いのです」


 淡々と、少女が責め立てるに値する悪者のように。けれどやはり、少女の瞳が春を睨むことはなかった。


「でも、お母さんが春を呼んでるの。だから、わたしと一緒に来て」


 それは、少女を見た時から予想できた要望だった。だからこそ、春はその柳眉を下げるしかできなかった。


「それは、難しいと思います。僕を引き留めようとする人が、まだいますから」

「……なら、わたしが連れ出してあげる」


 床で波打つ鎖をじゃらりと持ち上げて見せるが、少女は躊躇も決意も見せずそう提案した。しかしこれには、春も返す言葉に困ってしまった。

 少女がどうやってここまで入り込んだのかは分からないが、春を連れていてはそうもいかないだろう。春は自分が他の精霊よりも人間的であることは自覚しているが、それでも一人で歩いていれば大抵は気付かれた。

 少女の硬質な雰囲気に少し呑まれてしまったが、やはり子供だ。そこまで考えてはいないようだ。


「ここにいるのは屈強な兵士たちばかりですし、僕は少々目立ちます。君には、危険だと思いますが」


 暗に、春といては捕まって拷問を受けると教える。けれど少女は、これには肯定も否定もせず、ただ口の端を僅かに歪めただけだった。

 それは笑みと呼ぶにはあまりに歪で、とても子供のする表情かおではなかった。

 そしてその表情を、春は見たことがあった。澄んだ雪解け水の中に。瑞々しい花弁に溜まった朝露の中に。


(君は、まるで僕のよう)


 春が歩めば、窒虫が目を覚まし、植物が雪を割って顔を出す。稔りは約束され、誰もが笑顔で手を振る。

 彼らの目の前には、いつも春めいた希望がある。けれどその先頭を征く春の前にあるものは、違う。

 春は、いつだって春の後ろにしかないのだから。

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