第四話 物思う心の闇し暗ければ

珊底さんて州から、また誰かが越境してきたらしいですよ」


 日が陰り始めた夕刻、閉門の鐘に合わせて篝に火を入れて回る兵士が、そう言いながら郷府の門前に現れた。

 門兵として立っていた冶薊じけいは、久しぶりだなと片眉を動かした。

 郷司が春を捕らえる以前から両軍は幾度となく会戦してきたが、停戦交渉が始まった後も軍の斥候らしき連中が度々穏堵おんとの森を抜けようと周辺をうろついていた。

 だがここ最近は、長い冬に苦しめられたためか、そういった話はすっかり聞こえなくなっていた。今さら現れるなど、一体どんな動きがあったのか。


「早速立札が立てられたとか」

「また何か良からぬことでも企んでるのかね」

「冬ってのは、ただでさえ辛いものですからね」


 冶薊の呟きに、兵士が物思わしい顔で頷く。それは、今年の冬を味わった因達いんだ州の者であれば、心穏やかに頷くにはいまだ生々しい記憶だった。

 珊底州との戦が始まった頃、因陀州は神魔デュビィによる混乱と魔獣災害に端を発す不作が重なって、飢饉が続いていた。車站えきが近い東部や港のある南部はまだ良かったが、農耕地の広がる北西部一帯は明日の食事にも困るほどだった。そのうちのどこかの里が、思い余って豊かな珊底州に野盗紛いのことをしたとしても、不思議ではない。


 元々仲の悪い両州は徐々に関係を悪化させ、戦争が始まった後にはごっそりと男手が駆り出され、そこに厳しい冬が追い打ちをかけた。博栢郷では、親を捨てるか子供を売るか、賊になるかというところまで追い詰められていた。

 だから、郷司が春を捕まえたらしいと聞いても、非難する者は少なかった。ろくに野菜も育たないまま夏が来れば、今度は干からびて死ぬしかないからだ。

 長い春のお陰で、息をするだけでも辛かった冷気は去り、畑には養分が回り、花は芳しく綻び、家畜も艶やかに肥え、薪も十分に足りていた。明らかに例年よりも豊かな実りのお陰で、崩れ始めていた兵站は持ち直し、やっとのことで停戦に持ち込むことができた。

 できるなら、このまま和平を結んで戦争が終わってほしい。一時は冶薊も前線に駆り出されて死ぬ思いをしていたため、今はただ門で立っているだけの眠い仕事が何よりもありがたい。


「では、失礼」

「あぁ、お疲れさん」


 次の篝に向かう兵士に手を振って、改めて通りの伸びる前へと向き直る。

 もうすぐ府の仕事が終わる。閉庁の時間が来れば、夜番の者と交替だ。今日も何もなかった。そう安堵したところに、一人で歩いてくる少女が目に留まった。

 ずっと俯いたままそわそわと辺りを見ながらも、どうやら郷府に向かってきているようだ。胸に抱きしめている黄緑色の物は偶獣ぬいぐるみだろうか。そのせいで随分幼く見える。


(なにか、困りごとか?)


 見るとはなしに眺めていると、少女は結局、迷いながらも冶薊のところまで歩いてきた。だがあと数歩という所で立ち止まると、今度はいくら待っても動かなくなってしまった。自分の足元を見つめてばかりで、何も言わない。その様子は、明らかに怯えているようだった。よく見れば、頬には薄っすら血を拭ったような跡もある。


(追い剥ぎにでもあったか)


 冶薊は、自分たちが強面で一見恐ろしく見えることを自覚している。仕事の上ではそれが必要だとも理解しているが、怖がる子供相手に発揮しても何の意味もない。

 冶薊は威圧的にならないように気を付けながらも、結局固い声で問いかけていた。


「……嬢ちゃん、もう終いの時間だぞ」

「っ」


 案の定、少女は盗賊にでも遭ったかのように益々縮こまった。そのまま踵を返して逃げ出すかと思ったが、少女は後ずさった足を引き戻して、口を開いた。


「父が……まだ、帰ってこなくて」


 冶薊は、反対側に立つ兵士と顔を見合わせた。どうやら父親が府で手続きをする間、待っていろとでも言われたのだろう。よくあることだ。これが厳冬や飢饉の年ならば、体よく捨てられたと考えるところだが。


(長い春とはいえ、その前には戦争の続いた長い冬があった。食うに困る家はもうないなどとは、まだ言えんか)


 だが十歳にも満たないようなこの少女に、何の説明もしないままそう伝えるのはさすがに酷だ。冶薊は相方に目で相談すると、閉庁まで共に門で待ち、交代後に少女の父親を探しに中に入ることにした。


「もう少ししたら手が空くから、その後で良いなら確認に行こう」

「お、お願い、します」


 少女がおずおずと頭を下げる。見つかる可能性は低いが、少女がひとまず納得してここを去ることの方が重要だ。その後少女が自宅に帰るのか、誰か頼る宛てがあるのかは分からないが、そこまで関わることはできない。

 大通りの果てに伸びる城壁の向こうに、赤く濁った夕陽がゆっくりと消えていくのを眺めながら、冶薊は早くも小さな罪悪感に居心地の悪さを覚えていた。


 少女は先程からずっと、声をかけたことを後悔するようにもじもじと俯いている。ここまで深刻そうに待っているのならば、肉親は父親だけなのかもしれない。となれば、その不安は相当なものだろう。

 しかし冶薊には、見つかるといいなとも、きっと見つかるとも声をかけることはできなかった。

 代わりに頭に浮かぶのも、ただ自分を安心させるための質問ばかり。

 父親が帰ってこなかったらどうするつもりだ。家には一人でも帰れるのか。今晩泊まるところはあるのか……。だがどれも、期待するような返事は得られないような気がした。

 どうしたものかと考えあぐねた挙句、結局行き着いたのはいつも通りの沈黙だった。

 もうすぐ、閉門の鐘が鳴る。

 その、少し前に。


「……ごめん、なさい」


 少女が突然、ぽつりとそう言った。

 冶薊は驚いたが、素っ気なく返した。


「気にしなくていい。これも仕事だ」


 言いながら、ちらりと少女を盗み見る。まだ申し訳なさそうに俯いているのだろうか。そう思ったのだ。

 だが意想外に、目が合った。そう思った矢先、頭がくらりとした。


(立ち眩み? まさか)


 毎日朝から夕方まで立ち仕事をしているのに、今更疲れるなどあるわけがない。そう否定するうちにも今度は指先が痺れ、足がふらついた。


(朝に食べたものの中に傷んだものでもあったか……?)


 今朝からのことを遡って考える間も、何故か少女から目を逸らせなかった。

 少女の黒い目は、ただ兵士を見ていた。睨むでも観察するでもなく、まるで井戸の底のように真っ暗で、一切の覇気がない。

 戦場で血走った目で突撃してきた兵士とは真逆の、何もない虚無。木枯らしでも吹いたら倒れてしまいそうな容姿に反し、何故か心胆が凍り付くほどぞっとした。


「……なに、を……」


 そんなことがあるはずがないと頭では考えながら、口では少女を問い質していた。

 少女は冶薊から目を逸らさぬまま、もう一度謝った。


「ごめんなさい……」


 やはり消え入りそうな、弱々しい声だ。だがそれに、冶薊はもう憐れみを覚えることはなかった。代わりに抱いたのが恐怖心だと自覚する前に、堪えきれないほどの吐き気がした。意識が霞み、ついに膝をつく。視界が闇に塗り潰された。




       ◆




 時は遡って少し前。

 薄雪を追いかけていた郷兵たちが、強面の顔に苦悶と恐怖の色を浮かべながら路地に倒れ込むのを見下ろして、薄雪は小さく息を吐いた。

 幸か不幸か、初めにあったはずのこの目への忌避感は、少しだけ小さくなっていた。三尾狸シェファンに使った時は酷い罪悪感だったのに。初めて抱いた憤りの力だろうか。

 薄雪は倒れた郷兵の下から這い出すと、路地から顔を出して、通りを窺った。郷兵はいない。どうやら立札があったから捕まえただけで、相手が子供ということもあり、門を空にしてまで追っ手を出す気はないようだ。

 薄雪は花を毟り、零れた血を拭うと、再びよたよたと走り出した。脳裏にくっきりと焼きつけられてしまった苦悶の表情から逃げるように。

 けれど必死に逃げながら、それ以上どこに逃げればいいのか分からなかった。

 元来た道を戻ることはできない。立札があったのなら、他の門も危険だろう。薄雪は再び表通りに戻ったところで、佇立して途方に暮れた。ざわざわと、話し声や足音が雑多に混じった音が、薄雪だけを置き去りにする。

 その時、通りの向こうに郷府の色鮮やかな色瓦が見えた。


(……春、いるのかな)


 いくら立派な郷府の屋根瓦を眺めていても、答えが出ることはない。周囲には今まで見たこともないほどの人が行き交っているが、聞いて回るわけにもいかない。

 それ以前に、誰もが忙しそうに通りを行きすぎるので、動くのも、話しかけるのすら遅い薄雪にとっては、呼び止めることすらとてつもない難題に思えた。

 けれど何となく、薄雪には春がそこにいるような気がした。


(暖かいから、かな)


 通りの奥に聳える郷府の正門をぼんやりと見上げながら、両手をそっと上に向けてみる。小さな指の間を通る風は爽やかに温かく、握ったりしなくても少しも強張ってこない。街路に並んだ商店や四合院の屋根の向こうに見える樹木はどれも青々と生命力に溢れ、芳しい花の香が屋台の香辛料にも負けず強く漂っている。

 小さな椋広りょうこうの里にはなかった春が、ここには確かにある。

 薄雪は春特有の、胸の奥が疼くような小さな高揚感と罪悪感とを綯い交ぜにしながら、目の前の門に向かって歩き出した。門の前にもやはり郷兵が立っていたが、戻れないという事実が、恐怖心を上回った。それに、この目を使えばあの門番もどうにかできるという自信があった。

 大人数が相手では、一人を視ているうちに横から捕えられれば終わりだが、人数を減らすことができれば不可能ではない。門に辿り着くまでに考えた嘘だから信憑性などは皆無だったが、薄雪のみすぼらしい容姿が功を奏した。


「今だけ……今だけだから」


 誰も聞く者のいなくなった門前で、言い訳のように呟く。気絶した兵士にというよりは、見ないで、と拒絶した、ここにはいない母に。

 それから、薄雪はそっと次の門へと歩き出した。


 その後も、新しい門や建物が現れるたびに兵士はいて、その度に薄雪は彼らを視た。

 勿論、薄雪の嘘を信じない者や、端から相手にしない者も多く、鷹鳴枕を取り上げられたり、拘束されることもあった。そのせいで、視ることへの忌避感は益々薄れた。

 そうして薄暗い日陰を好む悪食の衣食虫ツィブリのように建物の陰を渡り歩いていくうちに、そこに辿り着いた。


 その地面には、窓の向こうから漏れる灯りを映して、窓に嵌められた格子の花模様がその影を濃く落としていた。薄雪はその灯りを踏まぬよう、慎重に壁に近付いた。

 漆喰特有のひんやりと冷たい壁に手をおいて、内側へと耳を澄ます。それだけで、この向こうが別世界のように賑やかで温かく、華やかな空間であることが分かった。

 何人もの話し声、笑い声、嬌声、楽の音、歌声……。薄雪は抑えきれない好奇心に負けて、そっと美しい格子窓の向こうを覗き込んだ。


 そこに見えたのは、薄雪が初めて見るものばかりだった。

 幾つもの床几しょうぎの上に所狭しと並べられた沢山の料理は温かそうな湯気を上げ、人の数だけ三つ脚の酒盃が並んでいる。その間にはゆったりと広げられた豪奢な着物が何枚も重なり合い、太った男や獣の耳を持つ者が愉快げに話に花を咲かせている。それでも生まれる隙間すら許さぬように、室内の余白の至るところに何種類もの花々が華やかに飾られていた。

 それはまるで本で読んだ、大洪水を恐れて沖島ひーるとうに逃げ込んだ、ネオン神族の楽園のようだった。双月の光も届かない物陰で、春の夜特有の肌寒い風が通り過ぎる中、独りぼっちで自分の力にさえ怯えている薄雪とは、まるで違う。

 ミシ……と、どこかでまた皮膚が破れる音がする。甘い匂いが、重い重い薄雪の足を動かす。


「――春、を」


 ひび割れた唇が、呪いのように唱える。

 迷いも罪悪感も、とうに消えていた。

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