第三話 入り相の鐘に 花ぞ散りける
転機が訪れたのは、翌日のことだった。
「お嬢ちゃん、もしや一人か?」
「!」
昼近く、空腹にきしきしと痛む腹を抱えながらとぼとぼ歩いていた薄雪を追い越した荷車が、少し先で停まったと思ったら、馭者台から顔を出した壮年の男が突然声をかけてきた。畑からの帰りだろうか、傍らには薄雪よりも小さな男の子が、頬に付けた土汚れもそのままにうつらうつらと船をこいでいる。
薄雪は思わず顔を伏せて身を引いたが、ここで黙って逃げ出す方が不審であることくらいは理解していた。どうにか堪えて、小さく頷く。
「山菜採りに、来て、でも、荷物、無くなってて」
薄雪はいつもの言葉をどうにか絞り出す。すると男はくしゃりと苦笑した。
「あぁー、悪餓鬼にでも盗られたかぁ」
「どこまで行くつもりだい。方向は同じようだし、途中まででも乗っていくかい?」
親切な申し出に、しかし薄雪は困ってしまった。
相手は敵対する
(でも、荷車なら、早く着く、よね?)
今まで家どころか
だが何より苦しいのは、温かな灯を遠くから独り寂しく眺めることだった。親切に声をかけてくれたこの親子を拒んで、独り見送るのを想像しただけでも辛い。
「では、あの、途中まで……」
薄雪は降って湧いた幸運と初めての親切を手放すことができず、危険があると承知の上で頷いていた。
「あぁ、遠慮するな。君くらいの子供なら、何も怖いことなんかないしな」
ははと笑って応じる男の朗らかな表情に、薄雪は知らず強張っていた肩を落とす。どうやら無意識に緊張していたようだ。
掌に滲んだ汗を
「あぁ、
と、男が薄雪を呼び寄せた。代わりに、隣の息子の肩を叩く。
「ほら、テヒラ。寝るなら
「んー……」
言われた息子は嫌がるでもなく、目を擦りながらそのまま荷台に転がり移ると、すぐに本格的な寝息を立て始めた。どうやら、早朝から頑張って働いたらしい。
薄雪はむずむずする思いをしながらも、こくりと頷くと男の隣に遠慮がちに腰かけた。男が荷車に繋がれた牛の綱を引くと、荷車は再びのんびりと動き出した。
◆
薄雪はしばらく、目の前で左右に揺れ続ける牛の尻尾を観察し続けた。
荷車は砂利や穴ぼこに出会う度に上下に揺れ、尻が痛み、とても快適とは言い難かったが、足をこれ以上酷使しないで済むだけでも薄雪にとっては十分な休息となった。
春の昼下がりの陽気は、疲れ切った薄雪をすぐに眠気の沼に落としにかかったが、こればかりはどうにか堪えた。加えて、話し相手がいなくて暇らしい男が終始薄雪に話しかけてくることも、薄雪を眠らせないことに一役買った。
「一人で山菜採りとは大変だろうに」
「母が、病気で」
「あぁ、母ちゃんか。そりゃ大変だ。それでその鷹鳴枕を持ってんのか。そりゃ、
「……これは、多分、父、から」
「なら一歳の祝いの品か。光鷹使は瑞鳥だから、贈り物にはぴったりだ」
「そう、なの?」
光鷹使とは魔獣の一種ではあるが、その系譜を辿れば光を司る
鷹鳴枕は、その光鷹使を模して絹や麻で作った枕に目と嘴をつけたもので、子供の将来に光あれと願って贈られるものだとも、男は説明してくれた。
薄雪のものはずっと抱きしめ続けていたものだからすっかり色褪せて全体的にくすんでいるが、かつては鮮やかな花萌葱色の生地に鼈甲の目と嘴が装飾されていた。つまり薄雪もこの
(お父さんが、わたしのことを……?)
実感は湧かなかったが、それでも腕の中の鷹鳴枕があるという事実だけは揺らがない。薄雪はむずむずとした気持ちになりながら、その後も続く男の話に耳を傾けた。
話題はどれも他愛のないことばかりだったが、そもそも誰かと会話をするということがほぼなかった薄雪にとって、それは緊張すると同時に不思議な感覚でもあった。
会話は会話と呼べるほども続かなかったし、男の愚痴に相槌を打つような具合でもあったが、そうやって何度も練習のような会話を重ねることで、少しずつ自分が人並みの、普通の子供になっているような気がし始めていた。
(誰も見ないで、花も、咲かなければ、わたしも)
普通の子供になれるのではないか。
それは、初めて外の世界を知った薄雪にとって、とても画期的な発見だった。
半花であるせいで外に出ることができず、この目のせいで母と触れ合うことすら叶わなくなった薄雪だが、一度外に出てみれば、そんなことを恐れる者はいまだ一人も現れていない。それは単に薄雪が花を咲かせず、目の力も使っていないだけだろうけれど、そこにこそ答えがあると思えたのだ。
それはつまり。
(わたしが、もっと我慢すれば……また、抱きしめてもらえる、かな)
男への返事が少しずつどもらなくなるにつれ、母への淡い期待が薄雪の胸に優しく満ちていった。
母は本当は優しくて、でも病気がちで、父は仕事が忙しく、滅多に帰ってこられないが、代わりに立派な鷹鳴枕を贈ってくれた。母のために薬草を探しに来たが、荷物を盗られ、帰り道に難儀していると、親切な人が助けてくれた。
有り余る時間で読み耽った幾つもの物語は、いつしか男との会話を繰り返すうちにすっかり薄雪の物語になっていた。
薬草を採って帰れば、母は辛い病身をおして薄雪を迎え入れてくれる。薄雪は花も目も克服し、普通の子供と変わらず、もう二度と母に拒まれることはない。
この先に待つ未来を想像するだけで、薄雪の心は満たされた。
想像することは得意だ。あの小さな室の中で、何の物音もしない時、薄雪はよく想像した。扉を開けて外へ出ることを。その時、薄雪は誰よりも勇気があって、行動力があって、魔獣を倒せるほどに目の力も使いこなせるようになっている。そして助けを求める母の元に駆け付けるのだ。
『あぁ、薄雪。あなたならきっと、やりおおせると信じていたわ――』
母が薄雪を抱きしめる。薄雪は嬉しくなって、母の顔を覗き込む。母の顔はいつまでも若々しく穏やかに笑んでいて――。
「この餓鬼がそうか」
「っ?」
突然の声とともに手首を掴まれ、薄雪はハッと目を見開いた。靄のかかった母の笑顔が、一瞬で牛の尻尾に切り替わる。いつの間にか寝入ってしまっていたらしい。
だがそのことに理解が及ぶよりも先に、隣に座る男が答えた。
「一人で山菜採りに来たという、魔除け鳥を持った黒髪黒目の十歳ほどの子供、ですよね」
すらすらと、聞き覚えのある特徴を口にする。何のことかと薄雪が隣を盗み見れば、男は薄ら笑いを浮かべて、薄雪の手首を掴んだ男を見上げていた。道中で度々見かけた、
「情報通りだな。ほら、褒賞は向こうで受け取れ」
「ありがとうございます」
郷兵が、少し離れたところにある
(だめ、見ちゃだめ……!)
薄雪の目は生き物を殺す。目で問うなどあってはならない。或いは薄雪がもっと弁が立ったなら、どうして、と言えただろう。けれどそんなことは、土台無理な話だった。ただ、考えるしかない。
褒賞ということは、薄雪が短い脚でちんたら歩いている間に、不審者としての情報が先に広まり、捕えよと
当たり前のことだ。
「どの道を通ったか、教えてもらうからな」
未だ理解が追い付かない薄雪を馭者台から引きずり下ろして、郷兵が凄む。鷹鳴枕をぎゅうっと抱きしめながら、薄雪はようやっと己の浅はかさを思い知った。
◆
日の暮れ始めた中、薄雪が連れていかれたのは、博栢郷は郷都
十二大陸の中でも西大陸と東大陸だけは比較的治安が保たれ、王花とともに現在まで十二州の行政と秩序が続いている。州は十二郡から成り、郡もまた十二郷から成る。その郷も更に複数の里が集まって成り、その中心になる里が都として機能していた。
その一つである隆桧の里は因陀州の北端に位置し、珊底州の南端にある薄雪の里から最も近い都でもある。そして、薄雪が目指していた場所でもあった。
(こんな風に来るなんて)
春が捕まり、珊底州が兵を送っても解放することができないのであれば、相手が個人である可能性は低い。華族でなくとも富裕な者はいるし、州兵を追い返すまでの私兵や権力を有している者も皆無ではない。だがそのような者が欲のために春を引き留めるとは、考えにくい。
畢竟、疑わしいのは行政の長である郷司や郡司だろうとは、里の間に暗黙裡に広がっていた。
だが、四季を捕まえることは重罪だ。数日ならまだしも、事が大きくなれば、大陸の
具眼者とは世界十二大陸にそれぞれ一人置かれ、人々の行いを監視する仙の長であり、天人とは世界の規律が乱れると天より降り来たり、問答無用で全てを粛清するという伝説を持つ、どちらも人智を越えた存在だ。華族にとっては、どちらも王花と並んで恐ろしい存在だという。
それを考えれば、因陀州司でもある華族が率先して関与しているという可能性は低い。とはいえ、裏ではこの事実を黙認し、密かに援助している可能性は十分ある。郷兵に混じって州兵がいるということが、その証左といえた。
とは言っても、薄雪にそこまでの考えがあったわけでは勿論ない。ただ、母が用意した中に地図があり、州境の森から最も近くにあったのがこの因陀州
それがあれば、因陀州に入ったあとも各里に設けられた市門を避け、兵に訝しがられることもなかっただろう。
道具一式を与えられても、薄雪が無知な子供であることに変わりはなかった。
(どうしよう……)
背中を押されて通った大きな門の前には門番が二人ずつ立ち、門の中には兵士たちの詰所や武器庫があるようだった。それらを通り過ぎ、薄雪が押し込まれたのは倉庫らしき場所だった。
埃が白く舞い上がる中、千切れた馬具や錆びた武具、とぐろを巻いた蛇のような綱や年季の入った掃除用品などが雑多に放り込まれ、そのどれもに厚い蜘蛛の巣が張られている。その中に申し訳のように置かれた机と椅子には、埃の代わりに赤黒い染みが点々と飛び、近寄りがたい雰囲気がある。
薄雪は目にした途端尻込みしたが、郷兵に背を押されて、つんのめるように中に入った。途端、汗と泥と黴が混じった饐えた匂いがむわりと鼻を突く。
だが薄雪はそれに顔を顰める余裕もないほど、混乱していた。
(捕まったら、どうなるんだろう)
物語でも、罪人は捕縛されれば鞭打ち、敵兵ならば斬首だ。珊底州から来たと知られているならば、やはり打ち首だろうか。
(そうなったら、春を連れて帰れない)
必然的に導きだされた答えに、薄雪は益々困惑した。その間も別の郷兵が出入りし、報告とか手引きとかの単語を口にしていたが、薄雪の耳にはまるで入ってこなかった。意識して呼吸を深くしなければ、今にも花が芽吹きそうで、余計に思考が纏まらない。
(に、逃げなきゃ)
ただ、そればかりを考えていた。
ここにいては、目的は達せられない。自分を落ち着かせるために、ぎゅっと鷹鳴枕を抱きしめる。それを、バッと取り上げられた。
「っ」
「こんな汚いもの後生大事に抱えて……なんか秘密でもあるのか?」
「や……」
郷兵が、鷹鳴枕を回したり引っくり返してまさぐる。その手に力が籠められ、緩んでいた縫い目が無理やり押し広げられるのを見た瞬間、薄雪は後先も考えられず郷兵の目を視ていた。
「やめて……っ」
「おっと」
子供だと侮ってか、まだ縄もかけていない薄雪が飛び上がっても、郷兵はあっさり躱すだけだった。
「やっぱりこれに何か――?」
だがそこで言葉は途切れ、郷兵が顔を顰める。怪訝そうにしたのは一瞬、次には鷹鳴枕を持つ指が小刻みに震えだし、何かに気付いた時には日焼けした顔は蒼褪め、ぐらり、足元がふらつく。
その間、薄雪は郷兵から片時も目を逸らさなかった。母からはずっとその目で誰かを見てはならないと言われていたのに、それを破るほどの憤りが、薄雪の体を突き動かしていた。
「な、なん……?」
郷兵が、喘ぎながらついに膝を折る。やっと手が届く位置に戻ってきた鷹鳴枕を奪い返すと、薄雪はがむしゃらに飛び出してその場から逃げ出していた。
ハァッ、ハァッ……
郷都隆桧の街並みに閉門の鐘が鳴り始める中を、薄雪は恐怖心に急き立てられながら走り続けた。
「待て、止まれ!」
「逃がすな! 餓鬼一人を逃がしたと知れたら郷兵の名折れだぞ!」
郷兵たちの野太い怒号が、絶え間なく薄雪を脅かす。薄雪は夕刻だというのに祭りのように沢山行き交う人々を掻き分けて走り続けたが、まるで怒号が背中に張り付いてしまったかのように、一向に遠ざかる気がしない。
薄雪は何度も通りを折れ、人のいない道を探したが、郷都の市中は今まで見てきた里とは比べ物にもならない。群衆を見る度に体が強張ったが、立ち止まることはできない。
「郷兵に手を出してただで済むと思うなよ!」
「あの汚い
(怖い。怖い……!)
薄雪は、ただ怖かった。
そして恐怖心が矮躯を満たす底で、別の可能性が更に薄雪を追い詰めた。
今追われているのは薄雪が敵州の子供で、郷兵に向かって目の力を使ったからだ。だがもしかしたら、半花であるというだけでも、このように恐ろしい扱いを受けるのだろうか。
「お母さん……」
母への思慕が、今更ながらに膨れ上がる。
母はやはり薄雪を嫌って閉じ込めていたのではなく、守ってくれていたのだろうか。記憶の中の冷たく見下ろす瞳と、先程夢で見たばかりの母の微笑が現実の恐怖と混ざって、どちらが真実だったのかわからなくなる。
「お母さん……っ」
涙が出そうだった。ずっと我慢していた感情が、堰を切ったように溢れて花に栄養を渡す。体中の皮膚がざわざわと蠢き、首の筋で、手の甲で、脇腹で、芽が皮膚を突き破り、ぷつり、ぷつりと、どんどんと花が咲いていく。
「……なんだ、今の」
「花?」
下を向きながら人々の間を走り抜ける薄雪を、すれ違う人が少しずつ振り返る。
『半花を快く思わない者もいるの』
母の言葉が蘇る。
薄雪は今度は群衆までが怖くなって、花を手で隠しながら細い路地に逃げ込んだ。
それが良くなかった。
薄雪は人がいてもいなくても鈍足だが、郷兵たちは人混みがなくなれば全速力で走れる。夕陽も届かない薄暗い路地で、薄雪はあっという間に取り押さえられた。
「やっ……」
「捕まえたぞ!」
「こいつ、半花か」
「何でもいい、偶獣を取り上げろ」
一人が背中からのしかかり、別の一人が再び鷹鳴枕を奪う。他にも足音が聞こえる。とても逃げ切れる数ではない。だがそんなことを冷静に考えるよりも前に、薄雪は鷹鳴枕を奪った兵士の目をまっすぐに睨み上げていた。
「返して……!」
途端、兵士の動きが止まり、その手から鷹鳴枕がぼとりと落ちる。その兵士が口端から泡を吹くに至り、他の兵士にも動揺が広がった。
「おい、しっかり持って……?」
「何だ……まさか」
「
薄雪の背を割れんばかりに押し潰していた郷兵が、怯えたように辺りを見回しながら飛びのく。薄雪はひゅぅひゅぅと喘鳴を上げながら、身を捩ってその郷兵も視た。
目が合う。
「は……? な、ん……」
視た。
郷兵が蒼白になってふらつき、もぎ取られて落ちた薄雪の花を踏み潰すのを。
視た。
駆け付けた郷兵が薄雪の視界に入った途端、痙攣するように足を止めるのを。
視た。
三人の兵士が、薄暗い路地に這いつくばって、恐ろしげに顔を歪めて薄雪を見上げるのを。
薄雪は、視続けた。
閉門の鐘が、淡々と鳴り続けていた。
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