第二話 人煙は遠く、空しく花を見る

 州境を成す穏堵おんとの森と、大陸を一周する大街道とが交わる場所を拠点に、州軍と郷軍が陣を張り、厳重な警戒が行われていた。

 このため、大街道を通って郷里や郡を出入りするには軍の許可が必要で、許可が下りるのも官吏や武官の関係者や、営業許可を持つ商人などに限られていた。

 それは薄雪のいた珊底さんて州も、春が囚われているだろう因陀いんだ州も同様で、近隣の里人などは普段の山菜採りや狩猟に赴く際には、我が物顔で里を巡回する兵士たちをこそこそと盗み見ながら、危険な細道や獣道を使うほかなかった。

 だがそのお陰で、薄雪は雪が降り続く中でも森の中の道を辿ることができたし、包袱つつみひとつで森から出てきても、咎められることはなかった。


「春がある……」


 薄雪は、惜しみなく降り注ぐ陽光と心地よい春風を全身で感じながら、小さく呟いた。

 目の前に伸びる畦道の途中には、地図で見た里の名前が記された標石がある。その後ろに広がる麦畑には雪の名残すらなく、青葉はすでに膝の高さほどにも育っている。

 このまま上を見上げれば、珊底州では厚い雪雲に遮られて見えなかった沖島ひーるとうも、雲の合間に見ることができるだろう。上古には一つの大陸で、当時は神々の楽園があったと云われている。それが神々が去ったあとに七つに千切れ、今はあちこちの空を風のままに漂っているのだとか。

 書物で読んだ時にはどんな大きさなのかとか、楽園はまだあるのかとか、様々なことを想像して心が躍ったが、今ここにある春を全身で感じて思うのは、喜びよりも罪悪感だった。

 母はまだあの凍えるような寒さの中に取り残されているのに、自分だけが指先から解けるような温かさを甘受している。

 罪の意識が、より一層薄雪の気持ちを急かした。


(早く、春を連れて帰らなきゃ)


 季節の変わり目は、既に森の中から現れていた。

 珊底州からずっと雪を蹴り分けて進んできたが、ある所を境に地熱でも走っているかのように雪が消えていた。雪の消えた地面では柔らかな千草が一面に茂り、木々には若芽色の鮮やかな若葉が萌え、しなやかな枝を揺らして小鳥たちが軽やかに囀り合っていた。

 外套の頭巾の下からでも、その明るさの違いは眩しいほどだった。毛皮が裏打ちされた上等な外套のお陰で、薄雪は一年以上ぶりに汗を掻いた。


 鷹を模した偶獣ぬいぐるみ――鷹鳴枕ようめいまくらは、薄雪が一歳になった時に父母から贈られた縁起物で唯一の私物だ。だがそれ以外の外套を含めた荷物は、全て母がこのために用意してくれたもので、薄雪はどうしても捨てることができなかった。

 積雪のある場所まで戻って雪を掘り、外套だけでもその下に隠すことにした。春を連れて戻る時に、また掘り起こせばいい。

 そしてそれは正解だった。途中で外套を脱ぎ捨ててこなければ、この陽気だ、森を出てすぐに捕まっていただろう。頭巾がなくなるのは心細くて仕方がなかったが、捕まっては春を探しに行けない。


「……天に五光あり、地に五花あり。外出に吉日、死の気配なし。道に穢れなく、また遮る者なし。路傍の花が、私を辿り着くべき場所へ導く」


 お守り代わりの呪いを唱えて、薄雪は自分を奮い立たせた。そして包袱と鷹鳴枕をまとめてぎゅっと抱きしめると、知らない里へと続く畔道を歩き始めた。

 決して、顔を上げることなく。




       ◆




「あなた、どこへ行くの?」


 穏堵の森から一番近い里に入って少ししてから、薄雪は時折声をかけられるようになった。

 州境に広がる穏堵の森は大陸の中心に行くほど広く深く、春になれば他の里からも狩猟や木材の切り出しなど様々な理由で、大人だけでなく子供も出入りする数が増える。

 だが今は戦時中ということもあり、子供だけで外出させる親は少ない。加えて薄汚れて酷く疲れた様子の十一歳の少女が包袱を背負って鷹鳴枕だけを胸に一人歩く姿は、様々な理由から素通りを許さぬものがあった。


「……山菜採りの、帰り」


 心配と怪訝の混ざった顔で声をかけてくる年配の女性に、薄雪は素っ気ないほど端的に返した。

 嘘をつく時は往々にして多弁になるものだが、皮肉にも薄雪の中にはそもそも見栄や弁明という蓄えがなく、お陰でそれは真実らしく聞こえた。

 だが時には、それだけでは引き下がらない者もいた。


「おい、そこの餓鬼。何してる」


 道ですれ違った因陀州の兵士の一人が、わざわざ引き返してきてそう声をかけた。州兵の軍服を雑に着崩した、大柄な男だった。

 薄雪は一瞬、服装や雰囲気の何かが州で違うのかと恐ろしくなったが、考えすぎてはまた花が咲いてしまう。薄雪は自分の爪先だけを見つめて、同じように答えた。


「山菜採り、の、帰り」


 春の陽気のせいだけでなく、全身が汗ばんだ。大陸の西と東では服装も大分違うとは書物で読んだが、大陸境に行かなければそこまでの変化はないともあった。

 冬の着物は外套と一緒に雪の下に隠し、今はその下に着ていた交領くみえり短衫きものだけだ。春風でも流行りでもないが、裕福な家でなければ一年中同じものを着潰すのが普通だ。籠がないのが変と言われれば、確かにそうではあるが。


「山菜? こんな時期に、子供一人でか」


 兵士が、薄雪の答えに顔を顰める。こんな時期、というのは季節のことではなく、いつ戦が再開するか分からないということだろう。実際、周囲の家々からも男手は徴兵され、戦はもう他人事ではない。奴隷でもない子供を一人で遠くに行かせるというのは不自然だ。


 薄雪は短衫の下の肌が今にも芽吹こうと蠢く兆候に必死に耐えながら、頭を働かせた。だがそれで突然弁が立つようになるわけもなく、薄雪は記憶の箱をまさぐると、唯一の話し相手でもあった書物の中の設定に思い当たった。


「お母さんに、薬、が、いるから」

「薬?」

「あっ」


 問い返すよりも早く、兵士が薄雪の包袱を奪って乱暴に開いた。枯れ木のように細い薄雪は、それに引っ張られて呆気なく道に倒れた。雪のない地面は固く、ぶつけた膝の皮膚は破れ、血が滲む。


(痛い……)


 その薄雪の前に、塵芥ごみを打ち捨てるように包袱が投げ戻された。緩んだ結び目から、泥のついたままの野草が零れ出る。車前草おおばこだ。

 春となった森の中には、丁度咳止めに使う車前草などが豊富に自生していた。薄雪は包袱から長旅に使う用具を出すと、残り僅かな保存食と少しのお金だけを残して、その上に適当に摘んだ山菜や車前草などを詰めておいたのだ。荷物の中にあっても不自然ではなく、物々交換に使うか、応じてくれる人がいなければ食料にもなる。

 実際、薄雪は元々痩せ型な上、十日近くを保存食で凌いできた。服装もくたびれ薄汚れたもので、いかにも病床の母の代わりに苦労している子供に見えたろう。薄雪にそのつもりはなかったが、大事そうに抱えられた薄汚れた鷹鳴枕が、余計に物悲しさを助長していた。

 だが今薄雪が鷹鳴枕を必死に抱きしめ続けるのは、もう一つ別の理由があった。

 鷹鳴枕は唯一父母から貰った大切なものだが、今その中には綿ではなく、包袱から抜き出した火打石や地図などの旅の用具と、残りの路銀が全て詰まっている。何かあればそうするようにと、母が仕立て直してくれたのだ。

 だが兵士は単に鬱憤が溜まっていただけのようで、鷹鳴枕まで取り上げて検めようとはしなかった。


「州兵を見たら道を開けるのが礼儀だろ」


 散らばった野草を包袱に戻して結び直す薄雪を見下ろして、兵士が吐き捨てる。

 薄雪は、どうにか声を出して謝った。


「はい、ごめんなさい……」


 どうして謝るのか、自分でも分からないまま。




       ◆




 その後も、郷里を抜ける度に声をかけられる回数は増えた。

 今日などはくつ擦れに足を止めて傷口を見ている隙に、背負っていた荷物を盗られてしまった。路銀は分けて持っていたとはいえ、これには薄雪も成す術もなく途方に暮れた。

 だが、何よりも薄雪を心細くさせたのは、夕闇が迫る頃になると灯り始める家々の明かりだった。


(明るい、なぁ)


 必要な用具や資金は、母からある程度は渡されている。だが行き来の簡便な街道は避けなければならない上、子供の足であるため、できるだけ節約していた。

 そもそも、子供が一人で宿をとるというのは明らかに不審だし、野盗に狙ってくれと言っているようなものだ。そのため薄雪は、家に着く前に日が暮れたと言って納屋や厩の軒先を借りたり、野宿するなどしてやり過ごしていた。

 珊底州と違い、因陀州は春で温かい。凍死する危険は少ない。だがそれでも、夜になればやはり寒さに震えた。

 そんな時、遠くに温かそうな灯りや炊事の煙が昇るのを見ると、薄雪は居たたまれなくなって、不自然にごわごわする鷹鳴枕に顔を埋めるしかなかった。


(見てはダメ……見てはだめよ)


 薄雪の揺らぐ感情に刺激された蕾が、顔を出そうと薄皮一枚下のところで虫が這うように蠢く。

 恐怖にも孤独にも、耐えることができた。けれど幸せを眺めることは、耐えがたいほど辛かった。

 五、六年ほど前までは、薄雪もその温もりの中にいた。母は薄雪が半花でも、体調が悪くても、薄雪が泣けば抱きしめて頭を撫でてくれたし、一緒に食事をし、文字を教えてくれた。


『おはな、いたい……』

『感情が高ぶると花が咲いてしまうの。取るのは痛いから、花を咲かせてはだめよ』


 泣きじゃくって自分の花に埋もれてしまうたびに、母は優しく花を切り取ってくれた。


『おそと、だめなの?』

『残念だけど、半花を快く思わない者もいるの。それに、あの方に知られたら……』

『あのかた?』

『とにかく、家の外に出るのは危険なの』


 怯えるように窓の外を見る母の様子に、薄雪は幼いながらとても怖いことなのだと思った記憶がある。

 後に知ったことだが、厳格な二子制を採る華族にとって半花は異類婚の証であり、自然の摂理に背く忌むべき存在とされていた。

 しかも平民は華族の力によって守られている立場から、華族に手を出した女を淫婦、その子を混ざり者と呼び、迫害されることが殆どだった。年老いた祖父ですら、泣くたびに花を咲かせる薄雪に気味の悪いものを見る眼を向けた。

 だが、幼い薄雪には見たこともない外の世界よりも、もっと重要なことがあった。


『おとうさんも、きらい?』

『そんなことないわ。お父さんは、少し……忙しいだけなの。あなたが半花でも、お父さんとお母さんは、あなたが大好きよ』


 何か月かに一度しか会いに来ない父のことを尋ねて困らせても、母は優しく抱きしめてくれた。だから、外に出てはいけないと言われても我慢できた。

 けれど薄雪の目の力をまざまざと実感したあの日から、母は遠ざかった。食事はへやに運ばれ、触れることは許されず、呼んでも返事がなかった。


『どうして? お母さん、わたし、悪い子なの?』


 最初の内は、ぴったりと閉ざされた戸に縋りついて、ずっと謝っていた。何が悪いのか理解できなくて、薄雪は言われた言葉を必死に思い出しては訴えた。


『見ちゃいけないなら、わたし見ないよ。お母さんのこと、ずっと見ないから』


 薄雪は何日も何日も訴え続けたが、母が答えることはなかった。食事を運ぶ母の手に縋ったこともあった。だが幼い薄雪はあっさり突き飛ばされた。その時、薄雪は思わず母を見上げてしまった。その時に見た母の顔は、明らかに恐怖に歪んでいた。


『欲しいものがあるのなら言って。でも、その目で決して私を見ないで』


 逃げるように戸を閉めた後に聞こえた声は、まるで命乞いのようだった。だから、薄雪は悟ってしまった。

 何かが悪いのではない。きっと薄雪の存在そのものが悪いのだ。何を言っても、もう以前のような優しい母には戻ってくれないのだと。


 それから、薄雪は泣くのをやめた。父からの贈り物だという鷹鳴枕を抱きしめて、与えられた挿絵入りの冊子を読みながら長い時間を過ごした。

 唯一の救いは、戸の向こうが静かなことだった。毎日苛々して甲高い声を上げていた母は、驚くほど喋らなくなった。たまに祖父と言い争いをすることはあるようだったが、それだけだ。窓の外の通りから聞こえるような笑い声など、一つもない。まるでこの小さな室だけを残して、世界が掻き消えてしまったかと錯覚するほどに。

 だから、窓の外から楽しそうに歩く母子の声が聞こえても、夕刻になると灯りだす民家の明かりがどんなに温かそうでも、目を閉じて耳を塞げばそれで済んだ。

 今も同じだ。見なければ、聞こえなければ、ないのと同じだ。


(春を連れて行ったら、戻れるかな)


 優しかった母に。温かい家庭に。


(花、咲かないで)


 ぎゅっと、歯を食いしばって鷹鳴枕を抱きしめる。希望さえあれば、寒さにも寂しさにも耐えられた。


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