第一章 蟄虫、始めて振く
第一話 尽日、春を尋ねて春を見ず
世界は灰色だった。
背中からのし掛かるような濃い闇を塗り潰す、木々の合間から吹き付ける大粒の雪。吹雪は行く者を押し返そうという強い意志でもあるかのように、
一度でも振り返れば、十一歳の小さな少女など容赦なく押し潰し、闇を吸って灰色に輝く雪原の下へと一瞬にして閉じ込めてしまうだろう。
(歩かなきゃ……)
薄雪の生まれた里もまた活気の消えた寂しい田舎だったが、ごうごうと雪が降り続く森の中では、寂しいという概念すら凍ったように何もなかった。林立する木々は樹皮にも枝葉にも残らず雪が張り付きし、春には山菜採りに使うはずの道も、今は綺麗に雪に均されて見つけられない。
手元の
その想像は、明確な恐怖となって幾度となく薄雪の足を鈍らせた。けれど帰る場所がないのだから、進むしかなかった。
はぁ、と溜息が出そうになって、薄雪は寸前で呑み込んだ。大きく息を吐けば、体の暖気は奪われ、一瞬で結晶となった呼気が顔を凍てつかせるのだ。
薄雪に何かしらの術が使えたなら、もう少し寒さを凌げる方法もあったろうが、生憎そんな力は一つもない。背負った
獣の鳴き声が遠く樹林の間をこだまする中、薄雪は上げたつもりの足が動かない反動に負けて、ぽとりと雪の中に倒れた。
(どうして、ここにいるのだっけ……)
樹上で踊る雪の
理由も、行き先も思い出せない。薄雪の頭の中に浮かぶのは、母の姿ばかり。
(あぁ、そうだった。お母さんに、春を……)
『ねぇ、薄雪。春を、探してきてくれない?』
いつも逃げるように
『……はる?』
十一歳になったばかりの薄雪の小さな胸は淡い期待に踊ったが、表面上はいつもの通り、母の目を見ないようにしながら問い返した。
春が来ない、と囁く里の人々の声は、家に閉じこもりきりの薄雪の耳にも届き始めていた。窓の外の雪はもう一年近く、しんしんと降り続けている。
冬はもう随分前にこの州を通り過ぎたと聞いたのに、春が来る気配がどこにもない。畑の麦は若葉のまま雪の下で朽ちようとしているし、
州境では隣州との戦争が激化しているというのに、静かすぎるほどだった。あるいは里中の男手が戦争に駆り出されているのだから、さもあらんとも言えた。
(この戦争の中、春を)
その言葉が示す意図を理解できないほど、薄雪は幼くも愚かでもなかった。
戦火は、既に大陸中に広がっていた。小さな衝突や反乱、蜂起まで含めれば、天下の擾乱は既に百年近く続いている。
このそもそもの発端は、
王花とは、大陸中央に広がる特別な花園――
だが以前に王花が生まれてから既に百八十年程が経過したが、新しい王花はどこにも見当たらなかった。
王花は華族よりも短命だが二百年以上の寿命を持ち、三代が揃うことに意味がある。一人でも欠ければ治安は徐々に乱れ、人を惑わす
そのきっかけを最早誰も覚えておらずとも、痛みを受ければ報いたくなるのが人の常。
春が来ないのもまた、そうしたものの一つと思われた。
(春、は、捕まっちゃったのかな)
命を育む上級精霊である四季は、世界十二大陸のうち七つの島を一年かけて順に歩いて巡っている。人々は四季の歩みを決して阻んではならず、止めれば季節は狂い、
だが人心が乱れると、目先の欲のために春や秋を捕らえ、その豊穣を独占しようとする者が現れ始める。
そしてそれが、今回は軍事戦略に利用されたのだ。
事の起こりは、魔獣の出没増加による不作のため、
噂では、王花が不在の間、仮に冊立される王――
互いに先に進軍して破壊活動を行ったのは相手側だと主張し合い、幾度となく衝突し、その間に冬が来た。初めは国力の高い珊底州が優勢だったが、それも長い冬の間に逆転した。珊底州は春を解放するために何度も派兵しているが、現在は膠着状態が続いていた。
『因陀州が春を捕えたせいだって、里のみんなが言っているわ』
娘の向こうの窓枠に積もり続ける雪を頑なに見つめながら、母は続けた。
『戦争のせいで、あの人もついにこの家に来なくなってしまった。春が来れば、きっと戦争にも勝てるし、あの人も帰ってくる。ねぇ、あなたもその方が良いでしょう?』
うん、とは、即答できなかった。
何故なら、薄雪は生まれてから今まで、あの人――父とともに暮らしたことがなかった。
一緒に暮らす祖父が零す愚痴を繋ぎ合わせると、どうやら薄雪が生まれた時期に父方の祖母の実家である
それでも五歳くらいまでは何か月かに一度は会っていたように思うが、今はもう顔も思い出せない。薄雪が室に閉じ込められるようになってからも、母は父に会える日を一日千秋の思いで待ち、会えるとなれば少女のように胸を弾ませていた。
だから、きっと良いことなのだろう。何より、母が喜ぶのなら、怖いことでも辛いことでも、薄雪は平気と思えた。
『うん』
薄雪は、寒さで感覚がなくなり始めている足の爪先を見つめなが、小さくこくりと頷いた。
『わたし、春を連れてくる』
言いながら、爪先にあった視線を恐る恐る母の手元へと押し上げた。ちょっとだけ、口元を見るだけなら。そう思ったのだ。
本当はいけないことだ。気付かれればきっと怒られる。
それでも、母が薄雪に何かを頼むなど初めてのことだった。だから、薄雪が承諾したことで母が僅かでも笑ってくれるのではないかと、期待した。
だって、もしかしたら、これが最後かもしれないから。
けれど。
『――――』
やっとの思いで辿り着いた視界の上端に真一文字に引き結んだ口唇が見えて、薄雪は再び凍った爪先に視線を落とした。爪と皮膚の間に痛い程の冷気が入り込んで、感覚はもう麻痺しているようだった。
あの日の寒さが、追い打ちをかけるように薄雪の感覚を奪う。
だが母は、きっともっと震えている。あの時も母の背は震えていた。薄雪に対してではない、きっと、父の不在に苦しんで。
(春を、連れて帰らなきゃ……)
薄雪は雪の中、再び目を覚ました。
(歩かなきゃ……)
夕方に野盗に見つかりそうになり、がむしゃらに逃げてきたせいで、日暮れまでに休む場所を見つけられなかった。
今は少しでも歩いて、風雪の凌げる場所まで行かなければ。本能が命じるまま、薄雪は血の気の失せた青白い顔を上げる。
指先は夢の続きのようにかじかんで、熱いような痺れが広がり始めている。もともとあったあかぎれからは血が滲んで、新雪を赤く汚していた。
今まで感情を揺らさないように生きてきたお陰で、涙が出ないのは幸いだった。こんな所で泣いたら、顔にまで凍傷が広がってしまうだろう。
薄雪が残る力を振り絞ってどうにか立ち上がろうとした時、
ぐるる……
何匹かの魔獣の気配が、周囲を取り巻いていた。灰色の闇の中に、三又の尾を持つ、犬に似た獣が見える。
キュゥゥ……ぐるる……ふぎゃぁ……
木々の間から様々な鳴き声がする。獲物を惑わしているのだ。赤子の鳴き声が混じっているのは、相手が人間だと察したからだろう。
魔獣も森にいるものは一般的には秋にたらふく食べて、春まで冬ごもりをするものが多いが、今年は終わらない冬のせいで体力が持たなくなってきたのだろう。取り囲んでいるのは、家族だろうか。
「来ないで……お願い……」
鷹の偶獣を抱きしめながら、薄雪はか細く呟いた。
母に初めてのお願いをされる前であれば、獣に喰われることを怖いとは思っても、拒絶まではしなかったろう。
大陸では死者は土葬が一般的だが、他の島では鳥葬や風葬もある。それは忌避されることではなく、肉体は自然に還り、他の命の糧となり、世界を造る一部となると考えられるためだ。焼かれて捨てられるよりも、余程価値がある。
だが今、薄雪は死にたくなかった。母の願いを叶えるまでは、生きていたかった。
薄雪が生きるためには、寒さに飢えた獣たちから逃げるか、退けるしかない。しかし今の薄雪に、そんな力は残っていなかった。
だから、「視る」しかない。
寒さに弱っていた心の臓が一転、怯えるように早鐘を打つ。動悸が高まるにつれ、そのカサカサの頬に、突如ぽ……と蕾が顔を出し、花開いた。痛みはない。
だから今は、まず低く唸りながら距離を詰めてくる先頭の三尾狸を視た。
その瞬間、迫っていた三尾狸の足が不自然に止まった。斜め後ろについていたもう一匹が、訝るように鼻先を向ける。
三尾狸は、家族単位で狩りを行う。先頭を父母、その後ろから慣れない足取りでついてくるのが子供たちだろう。常に家族を守りながら真っ先に飛びかかる父狸が、獲物を前に立ち止まった。母狸の鋭い鼻には危険を感じないのに、だ。
だがそれも一時。更に一歩父狸に近付こうとしたその足が、途中でぴくりと固まった。それを視界の端に捉えながら、薄雪はもう一度口を開いた。
「お願い、帰って」
小さな体に新雪が積もり続ける中、薄雪は立ち止まった三尾狸たちに懇願した。だが睨み返す黒い瞳に諦めの色は現れず、ただ獰猛に牙を剥き、涎を垂らしている。飢えているのだ。
春が例年通りに来ていれば、彼らは今頃春を迎え、活発に動き出した野兎や山鼠を捕まえて腹を満たせていた。だがそれがない。のこのこ現れた獲物をあっさり逃すことは、文字通り死に直結していた。
飢えた子供たちのため、この父狸はきっと死ぬまで引かないだろう。
「ごめんね……ごめんね」
薄雪は滲む涙を瞼の奥に押し込んで、父狸の目をその黒瞳に捉えた。円らな二つの瞳に、転んだまま立てないでいる自分が映り込んでいるのが見える。
瞬間、父狸の厚い冬毛が逆立った。これが人間であれば、まず顔が蒼褪め、汗が吹き出し、手足が小刻みに震えだす。体は動かしたくとも動けず、次第に呼吸すらままならなくなる。
明らかに異常を来した
(あと、少しだけ)
薄雪は自らも冷たい汗を顎に伝わせながら、狸を凝視し続けた。もし視界に捉え切れていない子狸たちがもっと成長した個体だったら、死角から襲われて先に薄雪が事切れていただろう。だが子供たちにはまだそこまでの経験はなく、また飢えと寒さで動きも鈍かった。
果たして、先に倒れたのは父狸の方だった。
垂れ続けていた涎に白い泡が混じり、ぐりんと白目を剥いて横に倒れる。その瞬間、薄雪はぎゅっと瞼を閉ざした。母狸が、キュッ! と鋭く鳴いて、急に動くようになった体で駆け付ける。くんくんと匂いを嗅ぎ、生きているかどうかを確かめる。
死んではいないはずだ。この力で命を奪ったことはないけれど、吐いたり泡を吹いて倒れるくらいまでは、まだ回復可能な範囲のはずだ。
「ごめんね」
薄雪はゆっくりと薄眼を開けて手元に焦点を合わしながら、もう一度呟いた。
「お願いだから、見逃して」
魔獣は、人の言語を解するものとそうでないものとがいる。三尾狸にその知能はない。それでも、薄雪の弱々しい懇願は通じた。母狸は薄雪を睨みつけたまま、倒れた父狸の首根っこを噛んで背後にひきずっていく。子供たちもまた不安そうに母の後について木立の向こうに消える。
再び、森は静寂に包まれた。
「こんな目があるから……」
母は春を探してこいと言ったが、本当はそれを理由に体よく捨てられたに過ぎないと、薄雪は知っていた。
薄雪の母は平民だが、父は華族だ。平民と華族は結ばれてはならない。それは厳格な身分や寿命の違いだけが理由ではない。平民と華族ではそもそも種族が違うのだ。結ばれればそれは異類婚となり、その子供は不完全な存在にしかなれない。
薄雪は
だが薄雪が母から忌み嫌われているのは、出自ではなくこの目が理由だった。
『その目、その目がいけないのよ……!』
この目の力を知った母が顔を青ざめて薄雪を突き放した日のことを、忘れてしまえばいいのに、今でも覚えている。
赤子の頃から、目が合うと頭痛がしたり手足が痺れたりしていたが、疲れのせいだと思っていたと母は言った。華族である父とは正式には婚姻を結んでおらず、祖父は年老いていて、母は女手一つで育てたようなものだ。その疲れのせいで体調不良を起こしているのだと。けれど薄雪から離れていると、一切の症状がなかった。母は次第に薄雪を気味悪がった。
そしてある日、どこかで捕まえてきた小鳥の入った籠を薄雪の前に差し出して、ずっと見つめ続けろと言った。薄雪は分からないながらも、素直に従った。その結果、小鳥は硬直し、痙攣し、泡を吹き、そして事切れた。
母は愕然として薄雪を部屋に閉じ込めた。それからずっと、薄雪はあの小さな室にいる。
同じ年頃の子供たちが外で楽しそうに走り回るのを細い格子窓の隙間から眺めながら、独り書物を読んで文字の続きを覚えた。外から聞こえてくる童歌をなぞった。
母は年を経るごとに部屋に来なくなった。それでも、薄雪は母のために努力した。母の目を見ず、常に自分の爪先を見るように心掛けた。前髪はほとんど切らず、常に頭巾をかぶり、間違って顔を上げても目が合わないようにした。
母の顔も、忘れそうだった。
「春を、見つけないと……」
薄雪は、折れそうな心を支える呪文のように、掠れ切った声で敢えてそう声に出した。母のためにもそうだが、あの狸たちだとて、春が来れば人など無闇に襲わない。
全ては春が来ないせいなのだ。
「春を見つけて、連れて帰ろう」
春さえいれば、きっと母は薄雪を迎え入れてくれる。軍人たちですら難しいことでも、誰かがやらなければ。
春が永遠に来ないのであれば、それは
薄雪は少し息を整えると、頬に咲いた花を無理やり捥ぎ取った。
半花の体に咲く花には茎はないが、代わりに細い根が直接皮膚の下に潜っている。血管を苗床にしているのだろうと、本にはあった。
咲く時には皮膚を突き破る感覚だけで痛みはないが、それを捥ぐ時には根が千切れ皮膚が裂け、出血を伴う。だが花を咲かせたままでは、また獣が春の匂いと勘違いして寄ってきてしまう。
薄雪は奥歯をぐっと噛んで痛みを堪えながら、首筋、手の甲と花を摘んでいく。
「はぁ……はぁ……」
花弁が血で赤く滲んだ花を握り潰して打ち捨てて、前を向く。
手提の灯籠は先程転んだ時に火袋が濡れ、中の魚油も溢れてしまった。だが辺りは雪のお陰で真闇ではなく、目も少し慣れてきた。
どちらへ進むべきか、それさえ分かればいい。
薄雪は灰色の世界を凝視しながら、母が教えてくれた
「……天に五光あり、地に
それは昔から広く使われている祝詞の一つで、外出時の祓邪と祝福を求める常套句だった。文言は美しく、力強く、希望に満ちている。
それがただの気休めだと誰もが知っているが、初めて家を出た時、母が背中から薄雪の両肩に手を置き、そう唱えてくれた時、薄雪は確かにその言葉を信じて足を踏み出すことができた。
だから、まるでそれが母が薄雪の無事を祈っている証だとでもいうように、薄雪は歩き出すたびにそう唱えた。
無知で無垢であるがゆえに、唱え続ければ、いつか辿り着けるような気がしていた。
「春を」
そしてその先にあるはずの、幸福に。
少女は求め続ける。
その旅路の果てに、神々も魔王をも巻き込むことになる、一つの時代の終わりがあることも知らずに。
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