通り雨~恋文配達人の事件簿~

西尾都

通り雨

 渡り廊下を渡る。ガラス張りの廊下からは、雨の雫がよく見えた。

 第一校舎と第二校舎をつなぐ、ガラスの橋。

 これで天井もガラス張りなら、水族館さながら楽しめるのに。

 リツコは湿っぽい廊下を、上履きの底を鳴らしながら歩く。

 いつもは賑やかな声が校庭から聞こえてくるこの場所も、今日は静かだ。

 六月の放課後。肌にまとわりつく水分を気にしながら、リツコは昇降口を目指して歩いていた。

 梅雨は嫌いだ。じめじめするし、制服の湿気を含んだ匂いも嫌い。

 そして何より、暇を持て余した運動部の友人がつまらないことを考えるから嫌だった。


『お願いよ』


 手を合わせて拝む彼女は陸上部。


『自分で渡す勇気がないの』


 だからって。


『お願い。ゲタ箱に入れてくるだけでいいの。簡単でしょう?』


 だったら、自分でやればいいのに。

 何故こんな役目を引き受けてしまったんだろう。

 鞄の中に隠した封筒に、リツコは恨みがましい視線を送る。

 白い封筒にピンクのシール。ラブレターのお手本のような封筒だが、男が貰って嬉しいのかどうか疑問である。

 階段を降りる。一階につけば、すぐそこが昇降口だ。

 雨の音を背景に軽い気持ちで踏み込んだリツコは、慌てて足を止めた。


 ――誰かいる。


 人のいる気配。今まで人影がなかったから油断していた。まだ家に帰らずに、ぐずぐずしていた奴らがいたのだ。


(早く帰りなさいよ)


 心の中で呟くリツコの気持ちとは裏腹に、声は続く。複数の声。なにやら長々と話をしているらしい。声の太さから言って、女子ではないようだ。


(……何やってんのよ。私が帰れないじゃないの!)


 いらいらと爪を噛む。雨の音が、より大きく耳につく。

 コンクリの屋根をつたう雨粒の音。糸のように細い銀色の線が、絶え間なく空から降り続く。


 ――いったい何を話し込んでいるの。


 相手は立ち並ぶゲタ箱の奥にいるらしく、影すら見えない。

 胸に抱えた皮鞄が、ぺったりと腕にはりつく。皮特有の匂いが鼻についた。

 雨はやまない。

 話声も消えない。

 ……苛々してきたなぁ、もう。

 リツコは恐る恐る隠れたていたゲタ箱の隅から顔を出した。

 それと同時に、相手が何を思ったのかひょいとこちらを見た。

 二つの視線が絡みつく。


「やあ、ちょうどいところに」


 リツコを見るなり手招きした男子。見覚えがある。同じクラスの幾島一郎だ。

 クラス一のノッポで、確か将棋部と写真部をかけもちしていたような気がする。

 落ち着いた、どこかのっぺりした顔に軽い笑みを貼り付けて、手首を使って手招きしている。

 胸に鞄を抱えたまま、リツコは渋々と近寄った。


「……何してるの?」


「何って、ポーカー」

 手にした札を見せ、幾島は当然という顔で言い返した。

 ゲタ箱の前に敷かれたスノコに座り込んで、幾島はカードゲームに興じているところだった。

 幾島の前には、小柄な男子生徒が座り込み手元のカードを睨みつけている。

 下級生だろうか。顔に見覚えが無い。


「辻井、ちょうどいいところに来たなー。

 やっぱこういうゲームは人数が多いほうが楽しいでしょ」


 にこにこと笑いながら手札から二枚引き出すと、山から二枚引く。


「おーい、真田。俺役できたんだけど」


「……俺もこのままでいいっす」


「じゃあ、勝負」

 ぽん、と床にカードを並べる二人。


「俺がフルハウスでお前がツーペア。……また俺の勝ちね」


「うー」


 真田と呼ばれた男子は、いがぐり頭を掻き毟った。どうやら、これが初めての敗北ではないらしい。


「なんで、こんなところでポーカーやってるの?」

 怪訝そうに眉を寄せるリツコに、幾島は笑いながらカードをかき集めた。


「いや~、俺もこいつも傘忘れちゃってね。仕方ないから少し雨脚が大人しくなるまで時間潰そうかと」


「よくこんなところでやってられるわねー」

 湿度の高い昇降口。ビニールコーティングされているカードの表面にも、うっすらと水滴がついている。


「どうせ梅雨の間はどこでもこうでしょ。

 うちの部室なんてもっと酷いよ。西向きの部屋だから、雨が吹きつけるんだよね。

 窓が開けられないから、湿度がこもること」


「将棋盤の上なんて、何回ふいてもびっちょりっすよね」


 真田が追随する。どうやら将棋部の方の後輩らしい。

 ならば何故将棋をやらないのか、と首を傾げるリツコの表情を読んだのか、幾島は縁無し眼鏡のレンズを指で押し上げた。


「最初はマグネット盤で将棋をやってたんだけどね。こいつ弱くてさ」


「先輩が強すぎるんですって!」


「で、こいつがポーカーなら自信あるっていうから、ポーカーしてたわけ。

 まあ、結局俺の敵じゃなかったけど」


「それは……てっ!」


 真田は顔を真っ赤にして何か言おうとしたが、その額を幾島が指で弾く。

 赤くなった額を抑えて真田が恨みがましい視線を送るが、幾島はどこ吹く風である。


「辻井も傘忘れたんだろ?」


「え? 私?!」

 鞄をぎゅっと抱きしめて、リツコは素っ頓狂な声を出した。


「だって随分前に昇降口に来たのに帰る気配ないし、違うの?」


 どうやら幾島はリツコの気配に気がついていたらしい。リツコの背筋を一筋汗が流れる。握り締めた鞄の中の封筒が見透かされているような気がして、思わず腕に力が入った。


「そ……そうなのよっ! もう嫌よね~。こんな梅雨の日に傘忘れちゃうなんて!」


 お気に入りのプーさんの折り畳み傘が鞄の中にあることは、この際忘れたことにしよう。


「そっか。じゃあ、ドジ仲間同士で仲良くしようや。ほい、辻井の分」


 目の前に差し出されたカードの束。

 すでに真田と幾島は扇形にカードを広げ、中の手を確認している。

 慌ててカードを受け取ると、しゃがみ込み鞄を腿の上に置く。

 五枚のカードを確認しながらふと目を上げると、こちらを見ている幾島の目。


「な、何?!」


 胸の奥まで見透かすようなその視線に、リツコはドキマギした。

 どこか冷たい様子がして、あまり教室で話したことがなかった幾島。よく見れば、なかなか見られる顔ではないだろうか。眼鏡の奥の目が、意外と澄んでいる。


「そんな姿勢だと、すぐひっくり返るぞ」


 言いながら脇に置いてあったスポーツバッグをぽん、とリツコの横に放った。

 青地に白い線が入った円筒型のバッグ。きょとんとした顔をするリツコに、幾島はバッグを指差した。


「それ、座っていいぞ。ちょうど体育あったからジャージが入ってるし、ちょうどいいだろ」


「え? でも……」


「汚くないぞ」


「そういうことじゃなくてね」


 リツコを無視して幾島は手元のカードに視線を落とす。

 しばらく悩んだ末、リツコはそうっとバッグの上に腰を下ろした。判然としない、ごちゃごちゃした感触が伝わってくる。これが幾島の鞄の中身の感触なのだろう。

 礼を言おうと顔を上げると、仏頂面で幾島はカードの山を指差していた。


「捨てる? それともそのまま? 早く決めて」


「え?! えーっとね……」


 慌ててカードの集中するリツコ。その横で、なぜか真田が笑いを噛み殺している。

 結局リツコは三枚捨てて、フォーカードを作った。


「けっきょく、俺の一人勝ちだったなー」


 雨上がりの校門で、幾島一人が元気に伸びをする。

 その後ろではげっそりとした表情のリツコと真田。


「二人がかりで一回も勝てないなんて……」


 けっきょくあの後数十分、えんえんとゲームを繰り返したが、二人とも一度として幾島に勝つことはできなかった。


「やっぱり部長は強いっすね……」


「部長?」


 ぼそりとこぼした真田の声に、リツコは目を丸くする。


「幾島君って部長だったの?」


「そう、俺部長だったの」


 頭の上に腕を組んで振り返ると、幾島がニッと笑った。

 眼鏡のレンズが夕焼けを反射して、きらりと光る。


「やだな、辻井。同じクラスなのにそんなことも知らないんだ」


「あー、えっとねー」


 冷や汗をかくリツコ。考えてみれば、男子の誰が何をしているのかなんて、殆ど知らない。

 幾島のことを知っていたのは、とある事情があったからで……。


「じゃ、部長。俺お先に失礼します!」


 気がつけば、真田が何時の間にか校門の外に走り出している。


「おう、明日またなー!」


 呑気に手を振る幾島に、にやにや笑いを貼り付けながら走り去って行く真田。


(なんだ。後輩の面倒見のいい、いい奴じゃないか)


 その様子を後ろでみながら、リツコはうんうんと頷いた。

 クラスメイトの別の顔を見られるのは、これでこれで楽しい。

 真田の姿が見えなくなると、幾島はリツコを振り向いた。

 夕焼けを背に浴びた幾島の長身は、どこか大人びた香りがしてリツコは一瞬その姿に見惚れた。


「んじゃ、俺たちも帰ろうか。辻井もバスで駅に出るんだろ?」


「うん、そう。……あ、ちょっと忘れ物。先に行ってて」


 くるりと踵を返すリツコの肩を幾島が掴んだ。

 振り返ると、そこには少し真剣な顔をした幾島が立っていた。


「……何?」


「お前、昇降口に何の用があったんだよ」


「え?」


 今までの冗談めいた口調は無く、真面目な口調で幾島は続ける。


「傘、持ってなかったわけじゃないんだろ。お前折り畳み傘いつも持ってたじゃん。

 誰かさんのゲタ箱に、用事があったんじゃないのか?」


(鋭いなあ……)


 肩にかかる手の感触を気にしつつ、リツコは額に汗をかいた。

 しかしふと意地の悪い考えが頭をもたげ、リツコはにやりと笑った。


「だったらどうするの? 幾島君に何か関係あるの?」 


 リツコの言葉に一瞬息を呑んだ幾島は、やがて何かを決意したかのように口元を引き締めると、真っ直ぐにリツコを見た。


「……俺もな。傘持ってたんだ」


「……え?」


「そしたら……参るよな、真田の奴がいきなり二年のゲタ箱に来るんだから。

 あいつ、傘忘れたの思い出して俺のこと探してたんだよな。まだ校舎にいるはずだからって」


「傘持ってたんなら、いれてあげればいいじゃない。まさか、男同士で相合傘が嫌だって言うんじゃないでしょうね」


 至極当たり前のことを言うリツコに、幾島は空いた手で後ろ頭を掻いた。


「だって、折り畳み傘だぜ。俺と一緒に真田が入ったらどうなるよ」


「あ」


 クラス一のノッポの幾島に、小柄な真田。

 小さな折り畳み傘では、真田がびしょぬれになるのは必至だろう。


「しょうがないから、雨がやむのを待ってたら、お前が来た」


(……いいところ、あるじゃない)


 ちょぴりクラスメートの株を上げながら、しかしリツコは首を傾げた。


「でも、それと私となんの関係があるの?」


 しばしの沈黙。

 やがて疲れたようなため息をつくと、幾島はリツコの肩から手を離した。


「人気の無いゲタ箱に用って言ったら、なんか思いつかんか?」


「だってさー、まさか男の子がラブレターゲタ箱にいれるわけないでしょ?」


 カラカラと笑いながら言うリツだったが、目の前の男子が固まったのを見て笑いを凍りつかせた。


「……まさか、ビンゴ?」


「……辻井は、ラブレターゲタ箱にいれるような男をどう思う?」

 打ちひしがれた様子で言う幾島に、リツコは無意味に両手をばたつかせた。


「えっ?! いや、別にいいんじゃないかなっ!? うんっ!

 今は男女平等の時代だし、男とか女とかそういう概念にとらわれず……」


「だから! 一般的にじゃなくて、辻井はどうなんだって聞いてるんだ!」


「あたしぃ……?」


 手をとめ腕を組むと、リツコは斜め上を睨みつけながら首をひねった。

 赤い空を烏が二羽飛んでいくのが見えた。

 ややあって、リツコは慎重に口を開いた。


「……内容によるんじゃないかと思う」


「どういう内容なら気にいるんだ?」


「ラブレター、貰ったことないから貰うまでわかんない」


「……あ、そう」


 気抜けしたように肩を落とすと、やおら幾島はズボンのポケットから白い物を出し、リツコに突きつけた。


「……何?」


「だから、ラブレター。読んでから決めるんだろ?」


 至極真面目な顔で出された白い封筒を見て、綺麗に三秒リツコは固まった。


「……私宛?」


「他に誰がいるんだ?」

 再び真面目に言われる。目を丸くしていたリツコは、やがてポンと一つ手を打った。


「あ! そうか! 幾島君もなんだね! なんだ~」


 驚いた表情を浮かべる幾島を置き去りに、リツコは自分の鞄の中をあさる。


「いや~、まさか幾島君も同じこと頼まれてたとはね。やっぱり男子の運動部も梅雨どきはロクなこと考えないんだね~。

 あたしもラブレターの『配達』頼まれちゃっててさ、もう困るよね、こういうの。

 で、はいこれが私が頼まれた分」

 笑顔で一気にまくしたて、リツコはポンとピンクの封筒を幾島の胸に押しつける。

 同時に白い封筒を大事そうに受け取る。


「で、幾島君はこれを誰に渡すように頼まれたの? 私にラブレター出すような男子って、全然心当たりないんだけど~」


 しばし硬直していた幾島は、やがてゆるゆるとその顔に表情を戻しつつあった。


「……配達?」


「うん、友達の運動部の子にね、幾島君にって。ゲタ箱に入れるくらい、自分ですればいいのにね」


「じゃあ、別にお前がラブレターを出そうとしていたんじゃなくて……」


「やあね、誰に出すのよ?」


「で、この俺宛のラブレターってのを、この状況でお前は俺に渡すわけだ……」


「お互い丁度いいかなと思って……って何? 怖い顔して」


 驚愕の表情から無表情、無表情から落胆。そして落胆から笑みへと表情を変えた幾島は、いまやひきつった笑顔でリツコを見下ろしている。

 口元は笑っているが、目が怒っている。そのアンバランスさが怖い。


「……返せ」


「何を?」


「俺のラブレータだよっ!」


 ひょいと手を伸ばして白い封筒を取り上げると、幾島は勢いよく二つに引き裂いた。


「あーっ!!」


 叫び声を上げてリツコが飛びつくが、相手はクラス一のノッポ。届くはずも無い。


「何すんのよ! 初めて貰ったラブレターなのに~!

 何の権利があって、そんなこと……」


「俺が書いたラブレターを、俺が破って何が悪いっ?!」


「ひどい……って、俺が書いた?」


 ようやく事態を飲み込んだのか、リツコの手が止まる。

 二センチ四方の紙くずになったラブレターとポケットに押し込むと、幾島は盛大にため息をついた。


「やめた、やめた。こんなにはっきりした状況なのに勘違いをかますような女に、ラブレターを渡す意味なんかないぜ」


 やれやれと肩をすくめる幾島に、リツコは目を丸くする。


「……幾島君から私宛だったの?」


「そうだったんですよ、辻井さん」


 妙に冷めた口調で答える幾島。


「頼まれたんじゃなくて、幾島君が私に?」


「頼まれたって、絶対に人のラブレターなんてお前に届けないね。

 ……そっちは頼まれたみたいだけどな」


 ひらひらとピンク色の封筒を肩の上でひらめかせ、幾島は半目でリツコを見下ろした。

 自分に告白しようとした人間に、他人から頼まれたその人宛のラブレターを渡した。

 ……これはかなり酷い仕打ちなのではないだろうか。

 リツコはざっと顔から血が引くのを感じた。


「あの……だから……その……」


「その?」


「……ごめんなさい」


 すっかり小さくなったリツコの頭の上で、幾島が息を吐く気配。

 いきなり嫌われてしまったかと恐る恐る目線を上げたリツコは、横を向いた幾島が小刻みに震えているのに気がついた。


(これは、かなり怒らせてしまったかも……)


 身をすくめて頭を下げるリツコの頭に、急に爆発したような笑いが振る。

 顔を上げると、幾島が体を二つに折って笑っている。


「な……?」


「はっはっは! いやー、悪い悪い。そんなに小さくなるとは思わなかったからさ」


 ひとしきり笑うと目元をこすって顔を上げ、幾島は腰に手を当ててリツコを見下ろした。


「でも、まあ少しはいいだろ? 俺だって少しは傷ついたんだし、おあいこで」


「まあ、それは……ね」


「ほんで、俺はお前が好きだ。お前は?」


「……え?」


 いきなりの直球台詞に、真っ白になるリツコ。


「いや、俺としてももう少し雰囲気のあるシュチュエーションで告るっていう夢があったんだけど、こうも初手から綺麗に崩れてると今さら格好つけてもなんだし。

 それにお前ってば勘違いの権化みたいな性格してるし……。

 ラブレターに書いた内容も大差ないから、別にいいだろ」


 早口で言い切る幾島。その間にジタバタと暴れだすリツコの頭をがしっと掌で抑えると、その顔を覗き込んだ。


「さあ、根性入れて答えてもらおうか。俺と付き合う気があるか、ないか」


(しまった……。

 他人のラブレターを渡してから、その相手に惚れてどうする……?!)


 リツコの顔が赤かったのは、何も夕焼けのせいだけではなかった。

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