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 祭壇に掲げられた炎に照らされる壮年の男。陰影に浮かび上がる相貌には過ぎ去った年月を偲ばせる深いしわが刻まれている。長身ではっきりと異常と分かる程の痩身。積み重ねてきた怨讐の深さを物語る狂気を宿した白濁した瞳。一つとして真面まともな表現が浮かばぬ黒装の男から抱くべき印象は不吉、或いは凶兆と。誰もに恐れを植え付ける、そんな禍々しい雰囲気を纏わせた男であった。


「遂に宿願を果たす刻。お前を招く事が出来て光栄だ、アルフリーデ。唾棄すべきアウレウスの末裔の娘よ」


 台座に横たわる全裸の少女に静かに語り掛ける男の声音に欲情の色はない。眼下に映す少女......アルフリーデの肢体は、まだ未成熟ながらも一輪の花として十二分に魅力的で。真鍮なれど外見は黄金と。悪評なれど噂に違わぬ美しさと言っても過言ではない。しかし男の心は一片たりと揺らぐ事はなかった。それもまた必然であったのだろう。復讐者として魂に刻まれた名を以て、仇なす血筋の末裔に抱く筈もない感情であったから。


 ヴァレリウス・メレク。


 己こそが唯一のトリスタニアだと信じて疑わぬ。妄執と怨念に塗れた。それが男の名であった。


 トリスタニア王国でヴァレリウスの名を知る者は居ないだろう。それも当然と言えようか。始まりに記される王国の歴史とは建国の祖アウレウス・ルメス・トリスタニアの栄光が記された英雄譚としての意味合いを色濃く併せ持ち。西方域統一と言う輝かしい偉業に強く光が差せば差す程に。表裏おもてうら。生じたであろう筈の深い闇が語られる事はないのだから。


「あの規模の転移の術式を構築させるのも、無傷でお前を招待する事も、随分と骨を折らされた。如何に我が偉大なる魔術師であろうともな」


 浪費させられた年月の長さを思ってか、既に魔術的な補助がなければ完全に失明している筈の己の白濁した瞳をアルフリーデへと向ける。


 魔術の水準が高まる近代にあっても、転移を可能とする術式は未だ完全なる構築にまで至ってはいない。世界の在り方すら変えるであろう魔術。その最後の道程は永遠にも似て。机上の上では発現に至れるであろう術式の構成には実践的な運用に耐えられぬ致命的な欠陥が存在していた。


 空間に干渉し歪めた座標を重なり合わせる事で距離の概念を排した移動を可能とする転移の魔術は、空間が交錯する事で魔力的な外圧を生じさせる。その特殊な圧力は通過する物質に致命的な負荷を与えるモノで。生物であれば即死する程の甚大な欠損を被る事は免れないとされている。


 その転移魔術の欠陥を個体のみではあるが改善させ、広範囲に渡る空間を重ねて見せたヴァレリウスの魔術師としての才幹は最早、人の領域を逸脱した使徒と遜色ない異端の存在と言えただろう。歪み捻れ、穢れて墜ちる。まさにその在り方のままに。


「然れど......例えそなたが魔術儀式のかなめであろうとも、アウレウスの血族を易々と楽に死なせてやる訳には往かぬ」


 言葉の全てがソレを物語り。本来なれば怨敵の血筋に当たる血肉を備えた贄であれば魂の有無は問題ではなかったにも関わらず。


 アウレウスの末裔たる者には死に至る刹那まで地獄の苦しみを与えんと。己が宿願と呼ぶ大規模な儀式の完遂を前にしても尚、アルフリーデが転移の影響で死ぬ事を避ける為。死なせぬ為だけにこれ程の偉業を達成して見せたのだ。それはまさに狂気の淵に立つ逸脱者の姿であった。


「全てを奪われた者の怒りを知れ。お前の業は積み重ねてきた悪徳に非ず。穢れたアウレウスの血を受け継ぎ誕生した事にある。清算の時は来たれり。その肉体と魂を我に捧げ、苦しみの果てに死んで逝け。それだけがお前が出来る唯一にして細やかなる贖罪なのだ」


 既に儀式的な処置を施され、指一つとして動かす事すら出来ぬ哀れな人形と化したアルフリーデは......それでも確かな意思の輝きを湛えた瞳の蒼から。溢れて落ちる涙の雫が石畳の床を流れて濡らす。


 ────瞬間。


 祭壇を照らす松明の一つが音を立てて弾かれ消える。


 一つ。


 二つ。


 立て続けに弾かれていく松明の灯火が消え。祭壇に広がる光景を限定的なモノへと変えていき。振り返るヴァレリウスの視界に刹那に映り込んだのは、生じた闇に滑り込む人影の気配であった。


 が、邪悪は動じず。


「これは少々......驚かされた。生き残りが居た事にでは無いぞ。無謀にも我に対して抗おうという愚かしさにな」


 宣言するが如く言い放つ。


 世界が生命の大樹に例えられる様に、実りの果実たる人間ひとの内にも魔力は満ちている。ゆえに先天的に魔力に対する耐性を持つ者も経験と鍛練によって後天的に適応力を備える者も希に居る。


 転移に巻き込んだ付録の中に押し潰すほどの魔力的な圧力に耐え得る鼠が紛れ込んでいた可能性は万に一つは有り得る話。それが例え天文学的な確率論で語られる冗談じみた可能性であったとしても。


 運命に偶然はなく全ては理に定められた必然である。


 ソレは魔術師ならば誰もが知る真理ゆえ、眼前に広がる光景を前にしてもヴァレリウスには微塵の動揺も見られない。


 「どぶ鼠め、英雄の真似事でもするつもりか。良いだろう、ならば囚われの姫君を見事に救って見せて見よ」


 ヴァレリウスのソレは豪胆さとは無縁な、豪放とも異なる。まるで愚かな道化の芝居を見下す如く響きを帯びたものだった。



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