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 アルフリーデ・ルメス・トリスタニア。


 彼女の名を知らぬ者は王国の内には居ないであろう。書物や文献で語られる高名な英雄たちですら教養の度合いによっては知らぬ者が居る中で、平民にも貴族にも須く知られる。或る意味で稀有な存在と言えるだろう。勿論の事、それはこれから語る彼女に対する大いなる皮肉である。


 彼女に纏わる逸話は限りなく、始まりを語ろうにも塗り変えられる記憶の内に判然としない。だが......代わりに少し語って聞かせよう。


 晩餐会を主催したアルフリーデが、出された料理が気に入らぬと癇癪を起こし、厨房に集めた料理人たちの首を並べて落とさせた理不尽を。


 招かれた社交場で貴族の子息が舞踏の順で自分より婚約者を優先させた事への腹いせに、有らぬ濡れ衣を着せて子息を廃嫡させた後、婚約者を好色な老貴族の下に妾として嫁がせた醜悪な策謀を。


 来賓として訪れた街の感謝祭で、偶然目にした疫病対策に駆除される小動物が憐れだと一切の殺生を禁じた無知蒙昧を。


 まだまだ語れど記すべき蛮行は数え切れず。誕生からよわい十四に至るまで、給金は高額なれど彼女の住まう黒曜宮で働く事は流刑と呼ばれるようになる。


 本来ならば、どれ一つ取って見てもアルフリーデの悪行は良くて軟禁、生涯幽閉生活が適罪なれど、誰に取っての不幸か......親である国王は愛しい我が子の暗愚を憐れと嘆き、心の病と断じる事で罪とは見なさず全てを許し不問としてきた。それが智王の唯一にして致命的な欠点と影で揶揄され、何時しかアルフリーデ自身も外見は黄金、なれど中身は真鍮の黄銅姫と蔑称される事となる。


 その民衆からも貴族からも憎まれ疎まれるアルフリーデが流行り病を理由に表舞台から姿を消して一年余り。天罰が下ったのだと歓喜の涙を流す者は数多に登り、誰もが望み願った結果ゆえ、憎しみの象徴の崩落に陰謀論を唱える声は皆無であった。


 更には悪評は届けど我関せずと、地理的距離が幸いしてか、直接的にアルフリーデと関わりの薄い地方領主と領民たちだけが、この熱病の如く熱狂と無縁であった事が誰とは知らず事態をより複雑なモノとしていた事だけは言うまでもない。



「姉さんも知っての通り、一年にも渡って国境の砦と街道全てに厳戒態勢が敷かれいる。この長期に渡る警戒令のお陰で膨大な人員と予算が浪費されるのをこれ以上看過は出来ない」


「公爵家の御令嬢にそう頼めと懇願されたのね」


 騎士として、と体裁を整える前にさらりと告げるヴィクトリアにアルフレッドは言葉を詰まらせる。答えは訊かずとも反応を見れば自ずと知れた。


 王族としての爵位は兎も角、役職としてはまだアルフレッドは一介の騎士に過ぎない。気風としても剣の鍛練に真っ直ぐに打ち込む事を良しとする弟が、この手の政治向きの話を持ち込む時は野心的な婚約者の影が背後にちらつく時とヴィクトリアは知っている。


「だっ......だとしても関係ない。大体にして馬鹿げてる。拐かされたアルフリーデが国外に連れ出されぬ為、と以前父上は言われたが、本当にそうなら何故犯人は王族を誘拐しておいて何も要求してこないんだ。全く道理に合わない」


「そう......ね」


 聡明で知られるヴィクトリアには珍しく歯切れが悪い。アルフレッドの語る疑問は既に多くの席で何百、何千と議論を重ねられてきた難問の一つであった。


 アルフリーデに関する一連の情報は限られた一部の重鎮しか知らされていない秘事。如何に王族とは言えど、政治的な後ろ楯と背景のないアルフレッドが多くを知らぬのは当然で、それゆえにヴィクトリアも何処までを知らせて良いのかを瞬時に思案していた。


「兎に角、アルフレッド。貴方はアルフリーデの件に余り関わっては駄目よ。王位継承権の絡む政治的な話に直系の男子が首を挟むのは要らぬ誤解を招き兼ねないもの。貴方もお兄様に倣って大人しく経過を見守っていなさい。良いわね?」


「でも姉さん」


「婚姻の話は折りを見てお父様にお願いしておくから。ヴィクトリアは賛成ですってね。それでもご不満かしら」


 先を見透かしたヴィクトリアの言い回しに、一瞬だけ驚いた様子を見せたアルフレッドであったが......昔から物事の本質を見透す事に長けた智者としての姉の姿を良く知るだけに、降参とばかりに両手を挙げて了承の意を態度で示す。


 確かにアルフレッドはアルフリーデを嫌ってはいたが、死んでいて欲しいと思った事など一度もない。今も尚、家族としてその身を案じてもいたし肉親としての情は持っている。にも関わらずつい心にもない発言が口から漏れたのには相応の理由があったからに他ならない。


 公爵家の令嬢との婚姻がアルフリーデの事件の影響で先延ばしにされ続けている事への蓄積された不満。王族が好いた異性と結ばれる事など稀な話であるだけに、良縁がこのまま解消されるのではないかと、焦りだけが募り先走った行動へとアルフレッドを駆り立てていたのは否めぬ事実であった。


 だだしかし、ヴィクトリアにして見れば、アルフレッドの抱く焦燥と懸念はそのまま公爵家こそがより正しく当て嵌まるモノで、弟が婚約者に上手く吹き込まれ公爵家の思惑のままに矢面に立たされていると感じていた。


 だが、それを忠告しようにも、公爵家と侯爵家は政治的な闘争を繰り広げる政敵同士。ゆえに身内だからと言って侯爵家に嫁いだヴィクトリアがアルフレッドの婚姻を妨げるような発言をすれば、後に公爵家との間に大きな遺恨を残しかねない。身内の集いの場ですらも政治的な思惑を切り離せぬ......貴族として生きる世界とは本当に息苦しいと、こんな時ほどヴィクトリアはそれを強く実感してしまう。


「紅茶が冷めてしまったわね」


 気付けば時は過ぎ去り、湯気の昇らぬ紅茶の杯に視線を落としたヴィクトリアは手持ちの鈴を鳴らして侍女を呼ぶ。


「じゃあ姉さん。これから蚊帳の外に置かれる可哀想な弟の為に少しだけ、アルフリーデの話を訊かせてくれないか。これ迄の経緯は抜きにして、家族としてのお願いだ。頼むよヴィクトリア」


 テラスへと姿を見せた侍女たちが、慣れた動作で速やかに紅茶の杯を新たなモノへと替えていく。一礼して侍女たちが去るまでの僅かの時間。様子を窺うアルフレッドの視線を受けながらもヴィクトリアは思案する。


 そして。


「この紅茶が冷めるまで、それで良いかしら?」


 話せる範囲は限られる。全てに憶測が含まれる仮定の話。それでもアルフレッドの家族を思う気持ちの一端に触れたヴィクトリアは心を定める。区切りの良い時節とは言えないが、これ迄に得た情報をもう一度客観的に振り返る良い機会かも知れないと。


 ゆえに、アルフリーデの身に起きたのであろう、事件のあらましを語って訊かせる事にした。



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