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 和やかに流れていた室内の空気が僅かに冷え込む感覚。春先のまだ肌寒さが残る季節ゆえの錯覚と解釈するには難しい程にロッテンだけではない、その場に居合わせている村長の額にも知らず玉の汗が滲んでいた。


 アフリーが威圧的な訳ではない。対応を変えた訳でもない。ただ少し、ほんの僅かに、このたおやかな少女の気配の密度が増しただけで、己が身に生理的な変化を覚えたのだとしたら、それは人あらざるモノを前にして。ソレは抗えぬ捕食者に対する本能的な警鐘と呼ぶべき変化であったのかも知れない。


「あっ......その、言い方が......いえっ、誤解を招くような言い回しをして済みません。契約の内容に異論なんてないんです。ただその......」


 刹那の激情。そのような勢い任せの感情が長続きする筈もなく、折れてしまえば一瞬で砂上の如く崩れ去る。後に残るのは言い訳染みた弁解の言だけだった。


「隻腕......の」


 ロッテンが呟いたのは咄嗟の思い付き。深く考えを巡らせての言葉ではない。だが時に思慮に欠けた誤魔化しが正鵠を射る事もある。


「確かに隻腕の男と言えば特徴的なようにも思えますが、正直、言葉の印象程ではない。そんな人間はこの国を見渡せば珍しくもないですからね。魔術師にしてもそうです。組合のある街なら幾らでも見つかるでしょう。その中から貴女の探す相手だとどう判断して精査すれば良いのでしょうか」


 大陸と言わず王国と言わず、今生の世情を思えばロッテンの疑問は道理と言えるが、答えなき背景となる混沌とした世の原因が数百年にも及ぶ妖魔との闘争ゆえとは言い切れない。その何十倍にも渡る長き時。人間たちは同族同士で血生臭い争いを繰り広げている。人の歩みとは今へと至る争いの歴史。列強は大陸の覇権を争い。国内へと目を向ければ領主が利権を求めて地域紛争に明け暮れる。見渡せば世界は剣戟の音で満ち溢れ、鳴り響く嘆きの叫びが常に耳朶を震わせている。


 歴史を紐解き含めて見ても、混沌が絶えず広がる今の世にあって、立場や事情は様々なれど、片腕と言わず体の一部を欠損している男など探さずとも街角を見れば掃いて捨てる程に居た。


 だが一方で。


 正論を並べ立て、的を射てはいても噛み合わぬ、はっきりと求める以上に踏み込んでくるロッテンに、アフリーは珍しくうんざりと小さく肩を竦めて見せた。


「あのね......既に契約が交わされている条件の内容を今更どうのと蒸し返されても、その答えは事前に提示していたつもりだったのだけど。私の思い違いだったかな?」


 花の笑顔はそのままに。待てども応える言葉がないゆえに。


「決め事も守れない小僧なら、大人の席にしたり顔で顔を出すじゃねえよ糞餓鬼がっ。俺の時間を無駄に浪費しやがって」


 表情とは相容れぬ低調な少女の呟きが室内に溢れて漏れる。


「もっ......申し訳ありませぬ。この者は合議の席に参加しておらぬのです。後に内容を詳しく伝えなかったはこの老骨の落ち度。ロッテンに責はありませぬゆえ、どうかご容赦を」


 慌てて村長がアフリーに謝罪する。その言葉に嘘はないが、交渉当時、契約の相手が使徒と訊き、万が一の場合を考えて若者たちを遠ざけていた結果がこのような予期せぬ事態を招いた事に動揺を隠せずにいる。ロッテンも自分を庇う村長の姿を前にして残る覇気はなく心を満たす恐れと畏怖に顔を歪ませて口を閉ざしていた。


 語る者なき室内は重苦しい空気が満ちている。


 だが、訪れる沈黙は束の間で、無言のままに視線を交差させ両者を流し見たアフリーはもう一度肩を竦め、続く言葉は変わらぬ何時もの鈴の音で。


「外見的な特徴に大した意味はない。あの男の異質さは一度見れば誰であろうと忘れられる筈がないからね。脳髄に絡み付く不吉な感覚を。凶兆の如く感覚を。だから旅人に、行商人に問うた時、少しでも思案する素振りが見えたなら、例えその後に目撃したと言われても報告する必要はないんだよ」


 これ以上不毛な遣り取りで時間を浪費したくないアフリーは、今日一番と言っても良いだろう、元々に足りない忍耐を振り絞り、噛み砕くが如く丁寧に優しく伝えてやるのであった。



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