5 カスタードクリーム

 由香里の主張は彼女自身が被害者として振舞う為の偽りだった。

 由香里曰く、

・『紅崎藤』は『秋野由香里』の彼氏である『高嶺昂生』と『浮気』をしている。

・『紅崎藤』には別に恋人(『彼氏X』)がいて『二股』をかけている。

 『秋野由香里』(恋人)『高嶺昂生』(浮気)『紅崎藤』(恋人)『彼氏X』という図式だった。

 この事実が発覚したことで、藤は高嶺昂生と彼氏Xから同時に縁を切られ、親友である由香里からも絶交された。人間関係が断ち切られ孤独と絶望から自殺に至った。そういう筋書きだった。しかし、それはすべて由香里の用意した偽物の物語であった。

 高嶺昂生の告白により出来上がった事実はまるで異なる。そして、彼の自白は私の掻き集めた証拠となんら矛盾しないものとなった。

 新しく浮かび上がった関係は以下の通りだ。

・『秋野由香里』は『明田小夏』の彼氏である『高嶺昂生』と『浮気』をしている。

・『秋野由香里』には別に恋人(『紅崎藤』)がいて『二股』をかけている。

 『明田小夏』(恋人)『高嶺昂生』(浮気)『秋野由香里』(恋人)『紅崎藤』という図式に変わる。

 由香里が藤を絶交したのではない。藤が由香里を拒絶したのだ。感情のベクトルが反転している。

 由香里は本来高嶺昂生のストーカーという立ち位置だった。その熱心すぎる気持ちが届いたのかはわからないけれど、高嶺昂生の愛人へと昇格することになった。今回の噂話の発端や証拠である画像の発信元も由香里である可能性が高い。彼女の他に今回の事件で利益を得る人間がいないから、間違いないだろう。

 なぜ由香里は、このような嘘をついたのか。高嶺昂生はなぜ、この嘘の情報に乗ることにしたのか。

 それは明田小夏に手をひかせるためだ。高嶺昂生自身が話した身分違いの恋という、学校社会のヒエラルキーが背景にあると思われる。

 学校社会という世界では外見や社会性、あるいは才能というパラメーターが存在し、数値の上位者が学校社会の上位者になれる不可視の身分階級制である。高嶺昂生はそのヒエラルキーでも頂点の存在。そして、客観的に判断して藤もヒエラルキーの上位者に違いない。容姿はさることながら、秀才である点も加点されているのだろう。一見学校社会とは隔絶してみえる藤だが、彼女自身がどう考えていようと周囲の人間は彼女を組み込んで考えるもの。大事なのは一般生徒たちがどう考えるかであり、本人がどう思っているかは関係ない。

 対して、明田小夏や秋野由香里はどうだろうか。明田小夏のことは直接知らないが、サッカー部の女子マネ春川茜の口ぶりからして、中位から下位のどこかに属するのだろう。秋野由香里は言うまでもなくヒエラルキー下位であり、私も制度的には最下層に属することになる。そして、この身分制度の恐ろしいところは、本人たちの感情よりも周囲の感情が優先させるところにある。

 美男は美女と。そういう多くの人間の納得が一番必要なものなのだ。それは身分違いの恋をしている明田小夏も例外ではない。だからこそ、関係を隠していたのだし、由香里が今回のやり方をとったのだ。要するに高嶺昂生が藤と付き合えば、階級的にも外見的にもお似合いのカップルとなる。腑に落ちる、お似合いという納得が明田小夏に諦めを促す。穏便に高嶺昂生を奪い取る手段だった。

 これらの事実が導く、由香里の本性こそが藤の『見せたいもの』なのだろう。

「毒林檎」

 私は彼女を、そう罵倒した。

「そうでしょ、由香里」

 放課後を待たずして、私は由香里をZOWに呼び出した。私に問題を解体するきっかをくれた限定アップルパイを前に対峙する、私と由香里。私は彼女に、すべてを話して解答を突きつけた。

「藤は両親のことがあったから、浮気や裏切りに特別な嫌悪感があった。トラウマだったんだ。だから、男の人とは付き合うはずがなくて、由香里が選ばれたんだ。藤は由香里のことを本気で思って、信頼していたからこそ、裏切りに対して自殺を決意するほど心の傷を負った。藤の自殺の引き金を引いたのは間違いなく由香里だ。由香里が、なにもかも、ぜんぶ悪い」

 諏訪さんの目撃した、藤とZOWにいた人物は由香里だったのだろう。一週間前、藤は由香里の浮気に思い至り、そのことについてこの場で言葉を交わし合っていたはずだ。

「ねえ、どうして?」

 私は由香里に語り掛ける。由香里は不敵に薄笑いを浮かべている。まるで刑務所で面会でもしているようだ。受刑者と面会者はアクリルの板で仕切られ、涙こらえる面会者に対して、底知れない感情を淀ませている犯罪者。一度は交差したはずの線。しかし、ふたりは直線で、永久に離れ続ける距離を元に戻すことはできないのだと知る。ふたりを隔てているのは、数センチのアクリル板よりはるかに分厚い心の距離だ。

「前に言ったっけ? 昂生くんって、押しに弱くてね。本当にいい人過ぎるんだ。まぁ、そこがいいんだけど。でね、たぶん彼は自分では気づいていないと思うけど、昂生くんにとってのお付き合いって、例えばホームレスにお金を恵んであげるようなものなの。可哀想な子を放っておけない。みじめで、みっともなくて、可哀想であればあるほど、彼にとってはどうしようもなく放っておけない。だから、あたしがストーカーをすることでしか好意をあらわせない可哀想な女だと気付いてから、あたしにとっても親身で優しくしてくれた。お付き合いなんてものを与えてくれた。根っからの善人で、生まれながらに優等種の人間なんだって、本当に思い知らされるよ。昂生くんにとって他人って生き物は、恵みや助けを与えるための弱者でしかないんだ。

 これって本当にすごいことだよ? すっごく気持ちの悪いことなんだよ? でもね、だからこそね、あたしのような最底辺の淀んだヘドロみたいな人間を助けたくて仕方ないんだ。明田小夏なんて、どこにでも転がっている不幸な女程度じゃ満足できなかったんだ。あたしみたいな、自ら汚れて、堕落していく、腐った人間じゃなきゃ、彼はもう駄目なんだよ?」

 由香里は赤いプラスチックフレームの眼鏡を揺すって、ケタケタと笑う。嗤う。耳ざわりにわらう。

「そんなこと聞いてない」

 私はアップルパイにフォークを突き立てた。パリッとした表皮の下は、熱でとろけて、ぐちゃぐちゃで気持ちが悪い感触がした。藤が教えてくれた水死体の感触と重なり合う。そう、腐りきって、ふやけた人間の手触りだ。

「私が聞きたいのは、なぜ藤を裏切ったのか。それだけだ。どうして高嶺くんと付き合うことができたか、なんてことに興味はない。もう、どうだっていいんだ。藤以外の事はなにもかも!」

「……もったいない。せっかくの限定アップルパイが台無しになっちゃう」

 由香里は私の怒りの矛先をいなすように、眼鏡の奥から覗きみる。私が芯からの感情を向けても、由香里は臆することも怖がることもなく、平然と見つめ返してくる。まったく、ちっとも。私の感情はなにひとつ、由香里に届いていない。声が聞こえるのに、触れるほど近くにいるのに。遠い。あまりにも違い過ぎて、気持ちが通じない。言葉が伝わらない。私には由香里がわからない。

「裏切った、ていうのは人聞きが悪すぎるよ。よく考えてみて欲しいんだ。誰だってより良い環境を求める権利がある。より良い生活を、仕事を、道具を、人間関係を。アップデートだよ。あたしは自分がもっとよくあれるパートナーにアップデートしただけ。誰だって新しいバージョンが欲しいでしょ? 最新のスマートフォンが出たら、愛着があっても古いものとは交換するでしょう? 同じことだよ。あたしたちは、いいえ、世の人間達は、人間関係だけを特別扱いし過ぎなんだよ。気に入らなければ捨てればいい。良いものを見つけたら取り替えたらいい。そうやって、より素晴らしい世界を手に入れていくべきだし、そうすることはなにひとつ悪いことじゃない。いまの恋人が絶対に最良の選択なんていうのは、それこそ自分が幸せになる努力を放棄しているようなものだよ」

 由香里は得意げによく喋った。考えてみれば、由香里は悪知恵が働くタイプだった。ちょっと前までは機転が利く、頭の柔らかい子だと思っていたけれど。

「詭弁だ。舌の上でこね回しただけの、意味のない言葉だ。そのぐらいは私にもわかる。馬鹿にしないで」

 そんな言葉が聞きたいんじゃない。そんな由香里が知りたいわけじゃない。

「安希世って、意外と頑固だよね。そういうところ、嫌いじゃないな」

 由香里はふっと、力を抜いて微笑んだ。気味の悪い薄ら笑いを止めて、すこしだけ友達だった頃の顔に近づける。

「あたしね、ひとのモノが欲しくなってしまうの。家が貧乏だからかな? それともあたしが強欲で、嫉妬深いからかな?

 他人が持っているものは、すでにその良さを誰かによって発掘されたものなの。モノの持つ魅力的なところにスポットライトが当たっている状態なわけね。それをさ、いいところがよりよく見えるように、みんなが持って、身に着けて、見せびらかしている。そしたらね、あたしやあたしの持っているのもが、途端に汚くてみすぼらしい泥に変わる。ああ、なんてみじめで恥ずかしいんだろうってね。みんながいいモノ、素敵なモノを身に着ける度に、欲しいって気持ちが止められない。奪い取ってでもあたしのものにしたい。いくつあっても足りない。世の中は、無数の人間が次々にいいモノを発掘して、どいんどん見せびらかしてくる。

 この欲望に終わりなんてないんだ。欲しい、手に入れたい。渇き、飢え。満たされない。あたしはずっと絶望しているんだよ?」

 誰もがうらやむイケメンの彼氏を手に入れたはずの由香里。彼女は絶望しているという。すでに諦めきった表情で、どうしようもなく悲しいはずの台詞を、なんでもない風にいう。

「藤もね、安希世が友達になったから欲しくなったの。安希世が仲良くなった紅崎藤という女の子。あたしには安希世の感じている憧れが手に取るようにわかった。安希世が拡声器となって、紅崎藤という人間の良さを喧伝しているのがわかった。

 最初は近寄りがたくて、クラスの誰も彼女を知ろうとしなかった。でも、安希世が彼女の賢さを見つけた。肌の白さ、滑らかさ、仕草の美しさ、人間としての強かさを見つけた。藤の魅力は全部安希世がみつけて、教えてくれた。そうじゃなきゃ、藤は学校という世界で無視されたままだったはず。異物として、目に入らないように、関わらないように。そういう扱いが徹底されていたはずだった。でも、安希世、あなたがいた。だから、藤も他人と関わるために探偵なんてものをはじめたし、クラスの人間も彼女を凄い人間なんだと畏怖して敬った。本来、彼女は学校のヒエラルキーにすら入ることができない人間だった。安希世が見つけた。素晴らしい彼女を見つけた。だから、あたしも欲しくなった」

 思えば、親友三人組は、最初から三人じゃなかった。

 私が藤と仲良くなり、私と由香里が喋るようになって、いくつかの接点が重なって、三人が親友になった。親友のなりかたにも順番があった。

「でも、もう親友じゃない?」

 由香里が私に確認する。

「もう親友ではいられないよ」

「そっか……じゃあ、このアップルパイも食べ収めだね。あまりにも苦い思い出が詰まり過ぎた。きっと、いつ食べてもこの味を思い出してしまうよ」

 由香里はすっかり冷めてしまったパイにナイフを入れ、口に運ぶ。

「藤の大好きなアップルパイだったのにな」

 名残惜しそうに、噛み締めて、そう呟いた。

 藤の『大好きな』アップルパイ。

 そんなはずはない。藤は母親の自殺を想起させるこの食べ物が『大嫌い』だと言っていた。由香里に嘘を吐いていたのか。それとも私にか。

 反転だ。私と由香里で、藤の言葉が反転している。

 おかしい。なにかが、おかしい。まだ、なにか、引っ掛かる。

「どうしたの?」

 唇に手をあて固まったままの私を、由香里が不思議そうにみつめる。

 私は手帳を取り出した。今回の事件のあらまし、些細な情報までびっしりと書き留めた手帳。ページをめくり引っ掛かりの正体を探す。

 藤は言った。ふたりだけの秘密だと。私にだけ打ち明けたのだと。その言葉を信じるとすれば。私が藤という人間を信用するとすれば、すべてがひっくり返るのではないか。

 由香里を恋人として本心から思っていたなら、これほど大事な嘘を吐く必要があるのだろうか。むしろ、付き合っている由香里にこそ打ち明けるべき内容じゃないのか。

 藤は本当に由香里の素顔を知らなかったのだろうか。由香里の口ぶりからして、他人のモノを奪う行為は今回が初めてではないはずだ。藤のように目ざとい人間が、身近な人間の素行不良に気が付けないことがあるのか。彼女は自分で名乗るほどの『探偵』だったのに、だ。

 藤の自殺未遂が発見されたときの状況を記したメモに目が留まる。藤は浴室で手首を切ったところを、帰ってきた父親に発見されたとある。藤は父親と同居しているようだ。

 それは、おかしい。私が考え出した藤の自殺の動機と矛盾している。藤は由香里の裏切りによって自殺を決意したことになっている。藤の浮気や裏切りに対する嫌悪感の原因を作ったのは、彼女の父親である。その父親と未だに同居、しかも母親がいないふたりきりの父子家庭を続けていられるなんておかしくはないだろうか。それこそ、由香里に裏切られずとも、幾度となく自殺未遂を繰り返すぐらいには精神をすり減らしていてもおかしくない。私の知る限り、藤にはこれまでに自殺未遂を犯した傷跡はなかった。

 アップルパイの嘘。紅崎藤という探偵。憎いはずの父親との同居。

 私の頭にひとつの鍵が浮かび上がる。由香里のときと同じだ。

 反転。入れ替え。方向の異なる感情ベクトル。

 もし藤が由香里を愛していなかったとしたら。

 紅崎藤はなぜ自殺に至ったのか。

「毒林檎」

 私は再びその言葉を呟く。

「毒林檎を食べさせられたのは由香里の方だったんだ」

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