4 白い果肉

 休み時間の終了間際。私は教室棟の廊下、階段前の曲がり角の壁に隠れていた。

 授業の隙間にあたる十分間の休憩。選択授業で移動教室になることを見越して、目標を角待ちする。狙いは高嶺くん。彼を周囲の人間達と分断する機会をうかがっているのだ。彼は常に男子の友人、もしくは女子の取り巻きに囲われ、私の様な日陰者が喋りかける隙がない。ならば、どうする。無理矢理作ってしまえばいい。それに他人の目があると、喋りにくい話題に違いない。彼が体面やひと目を気にすることで、発言が歪むのは好ましくない。彼ひとりを確実に隔離する必要があった。校内で隔離するなら、やはり授業時間を利用するのがいいだろう。

 数人の足音と話し声が迫ってくる。そのうちのひとつが高嶺くんであることを確認する。

 息を押し殺し、まずは目標の集団が通り過ぎるのを待つ。

 彼らは私に気が付くことなく、教室前の廊下から、階段へと繋がる踊り場へと踏み込む。移動教室は二年生の教室から上階に移る必要がある。そのため、彼らは上り階段の方へと足をかける。授業開始まではあと三分。高嶺くんは集団のなかでも最後尾に位置しており、都合がいい。集団のなかから高嶺くんの腕を見分け、狙いをつける。

 高嶺くんが階段を上ろうとしたとき、すかさず彼の腕をとり、下り階段へと引っ張り込む。

「え、ちょっと!」

 驚いた声を出したのは、取り巻きの女子だった。ちらりと私の姿がみえたのだろう。声調に怒りが含まれていた。

 私は構わず、高嶺くんの腕をつかんだまま階段を駆け下りる。高嶺くんも驚いた声を上げたが、階段でつまずくようなことはない。期待した通りの運動神経だ。そのまま階段を下りきり、人目につかない場所まで引っ張って行く。

 追手の気配はない。おそらく授業の開始時間と天秤にかけている間に、私たちの背中を見失ったのだ。簡単に視線が切れるように階段を使ったのだから、当然だ。ここまでは計算通りといえる。

 校舎を抜けて、上履きのまま外通路を通り、武道場の裏手へ。部活以外で使われることはないし、ここがもっとも人目に付きにくい。私が慣れない運動で息を整えている間も、高嶺くんは特になにかをいうことなく待ってくれている。

 授業開始の予鈴が鳴り響く。深呼吸して無理に整えると、彼に向き直る。

「あの、私一組の桜井安希世といいます。授業前だったのに、突然引っ張ってきてごめんなさい。どうしても聞かなきゃいけないことがあって」

「大丈夫だよ、呼び出されることには慣れているから。それで聞きたいことっていうのは、もしかして紅崎のこと?」

 高嶺くんに動揺した様子はなく、あくまで自然体のまま聞き返してくる。

「はい、藤の自殺に関して、どうしても解消しなきゃいけない疑問ができました」

「他のひとにも散々聞かれたよ。噂について真実かどうか、彼女だったのか、自殺の原因は。そりゃ色々とね。おれにしたって、紅崎が自殺しようとするなんて思ってもみなかった出来事なのに」

 彼は涼し気な表情をしたままだったが、言葉にはどこか陰がさしていた。ここまで引っ張っておいて、遠回しな質問や迂遠な言い方は無用だ。彼は自殺未遂の真相を知る、重要なピースを持っているはずだ。

「由香里から高嶺くんは、藤と浮気していたと聞きました。でも、本当は高嶺くんと藤は男女の関係などなかったのではありませんか?」

 由香里の名前を出した時、彼の目がほんの少し見開かれた。おそらく驚きの反応。

「桜井さんは由香里の友達か。そういえば一緒にいるところを見たことあるね……みんなおれが聖人君主かなにかだと思い込みたいみたいだ。おれ自身が言ったことでも信じてくれなくてさ。明確な証拠があるのに。きっと、おれが目の前で万引きしたって、何かの間違いだっていうに違いない。もしかしたら身代わりになって庇う子もいるかもね。誰だって魔がさすことはあるし、どんなに優しくて善良な人間も生き物を殺して食べたり、無意識に他人の生存圏を奪って蹴落とし合って生きていることに違いはないのにさ。おれは神様や仏さまじゃなくて、人間なんだぜ?」

 高嶺くんはさっぱりとした口調で、彼のキャラクターとは齟齬のある闇を吐き出す。やはり、彼を取り巻きから引き剥したのは正解だった。

「藤と関係があったと?」

「人によって受け取り方は違うだろうけど、おれ自身はそうだよ。少なくとも下心があって、何度か付き合ってもらったんだ。彼女がいる人間がするには十分な裏切り行為には違いない。だから、噂は本当だよ」

「それはおかしいですね」

 全面的に非を認めている彼だが、その言い方には私の疑いを崩すほどの力はなかった。

「おかしいことはないだろ、本人が言っているのに」

「いいえ、おかしいです。まるで藤の方には気がなかったかのような言い方も変です」

「彼女は高嶺の花だし、おかしくないだろ。あの人は冷淡というか、感情が分かりにくいからさ。おれなんかには本心はわからないさ」

「随分自己評価が低いんですね。でも、それでは由香里の話と噛み合いませんよ。高嶺くんの方に気があってデートしたというのでは、由香里の言い分とまるで立場が逆転している。由香里曰く、藤の方からアプローチをかけて、結果振られてしまったという筋書きでした。浮気という行為はふたりに共通していますが、行為の主体が入れ替わっている。高嶺くんはあくまでも、押しに弱かったから、仕方なくデートしてしまったという立場のはず」

 藤から高嶺くんへ向かっていた好意の矢印。由香里の恣意的な捻じ曲げもあるだろうが、方向が逆転していたとなると、由香里の説そのものへの説得力が弱くなる。高嶺くんの齟齬自体が、私の疑問をより肯定していく。

「それは由香里がおれをいいように解釈しているからだよ。さっきも言っただろ、みんなおれを聖人君主として扱いたがるって」

 彼はあくまでも自分が浮気をした、という体にしたいようだ。私は自分が見つけた証拠を示すことにする。

「高嶺くんと藤の関係を示す証拠は、高嶺くんの自白を除くとふたつあります。ひとつは目撃証言。もうひとつはZOWでの画像。しかし、私の考えでは、そのふたつは共にふたりの男女関係の証拠にはなりません。浮気でないことを疑うには十分すぎる、真逆の効果を持った証拠なのです」

「どういう意味?」

 私は高嶺くんに、集めた証拠から導き出した推理を伝える。

 目撃証言と画像における時間軸のずれ。

 部活の時間の都合で、目撃された時間にZOWにはいるはずがないこと。

 ストーカー行為の存在と藤の探偵業の関連性。画像の不自然なメニューの存在と、座席位置の空白から導かれる三人目の存在。

 ふたつの証拠はいずれも、男女の関係下で行われるデートという行為を否定するには十分な証拠能力を持っている。だからこそ、なぜ彼が浮気をしていると主張する必要があるのかがわからない。誰かを庇っているのか。それとも別のなにかを隠しているのか。自ら不貞の汚名を着てまで、なにを考えているのか。私が知りたいのはそのことだった。

 私が喋り終えたあと、高嶺くんはしばらく考え込んでいた。凛々しい眉も力なく歪み、手元で隠された唇は、なにを話すべきか迷っているようにみえた。

「すこし誤解があるけど、桜井さんの考えはほとんどあっているよ。驚いたな、まるでもうひとり紅崎がいるみたいだった」

 長い沈黙のあと、彼はそう切り出した。

「誤解とは?」

「ひとりの人間が自殺にまで至ったんだ。友達である桜井さんには、正直に話さなきゃいけないだろうね……誤解はふたつある。ひとつは、おれは確かに浮気していたということ。でも、その相手は紅崎じゃない。もうひとつの誤解は明田小夏のストーカー行為について。小夏はストーカーなんかじゃない。ZOWの隠し撮りだけど、待ち合わせしていた三人目は小夏なんだ。その日はストーカー調査を依頼するつもりで、紅崎を呼んだ」

 やはり藤は高嶺くんと浮気などしていなかった。だが、別の浮気とはなんだ。それに、明田小夏がストーカーじゃないのに、ストーカー調査を依頼する意味はどこに。ひとつ消えたのに、もうひとつが現れるあべこべな状況だ。彼も私の混乱を知ってか、改めて話す姿勢を取り直す。

「おそらく桜井さんの想像よりも込み入った事情だと思う。混乱しても無理はない。だからまず、順番に話していこう。最初は小夏とストーカーのことから」

 話は長くなりそうだ。彼は私に、武道場から外へ続く階段に腰掛けるよう勧めた。私も彼に倣って、隣に腰をおろす。

「明田小夏さんとは一年のときに噂になったことがあると聞いています。ただ、その時は今回のような証拠はなく、ただ噂だけ。しかし、その後、噂のせいで明田さんが却って本気になり、ストーカー化したという話を聞きました」

「それを話したのはサッカー部の女子マネだね。彼女たちは小夏を相当敵視しているから。そういう悪い偏見と、認めたくない気持ちが合わさっているんだろう。まず、事実として小夏とは中学のときから今まで男女の付き合いを続けている。つまり、一年のときの噂は本当だった。隠れて付き合っていたから、ストーカー呼ばわりされて、本人もかなり腹を立てていたよ」

「なぜ、隠れてお付き合いを? 堂々としていれば、良かったのではありませんか。口ぶりからして、女子マネには高嶺くん自身も困っていたようですし」

 私がそういうと、彼は困ったように頬をかいた。

「桜井さんって、紅崎とつるんでいるだけあって、ちょっと世間とはずれてるよね」

 自覚がなかったが、そうなのだろうか。今時の女子っぽくないと言われているようで、恥ずかしくなって視線をそらした。

「自分でいうのもなんだけど、おれって女子からモテるんだ。外見だけでも有利なのは自覚してるし、他人から好感をもたれるように振舞っているつもりだしね。それによっておれ自身の評価が高まることは素直に嬉しい。でも、それだけじゃない。おれ個人の評価が高まると、自然とおれの周りの評価も高くあるべきだとみんなが思うようになる。セレブが自分にふさわしいブランドを身に着けるみたいにね。そういう決めつけが、他人の意識の中に形成されるんだ。偏見といってもいい。そういう偏見は、当然恋人にも適用されてくる。身分違いの恋ってやつだよ。もちろん、そんな身分は誰かが勝手に決めたもので、国や法律が決めているわけじゃない。ただ学校という社会のなかでは決められているルールなんだ」

 まさしく『花より団子』というわけだ。美男には美女の組み合わせが相応しい。もし自分が敵わないような相手であればあきらめもつく。芸能人同士の結婚に対するファン心理と同じようなものだろうか。要するに明田小夏は庶民の側で、才女でも美女でも金持ちでもなかったということだろう。

「嫉妬はたやすくいじめに発展するから。小夏が平穏に学校生活を送るためにも、隠しておくべきだったんだ」

「それなら、ストーカーは一体?」

 明田小夏がストーカーでないとするならば、藤に調査依頼を出すようなストーカーが別に存在していたということになる。

「小夏との噂が発端になったのかもしれない。ちょうどその時期から、おれや小夏の近辺で気配を感じるようになったんだ。視線を感じたり、差出人不明の手紙が届いたり。小夏の方はもっと露骨な嫌がらせをされたようだった。もっとも初めのうちは実害もなかったから、紅崎に相談したのはほんのひと月前の話。例のZOWでの場面を撮影したのも、同じ人間の仕業だろう。なんなら、今回の噂の発端も」

「ストーカーの正体は誰ですか。藤に依頼したなら突き止めたはずです」

 彼は頷いたものの、その先で言いよどむ。

「ここからはさっき言ったひとつめの誤解に繋がる話になる。結局、おれはストーカーの調査は依頼したけれど、その問題解決までは依頼しなかった。正体を突き止めた時点で、おれの方ではストーカー問題が解決された。ストーカーの問題は浮気の問題に変わってしまったからね」

 ここで私は原点に立ち戻り、由香里という存在を思い出す。彼女は高嶺くんと付き合っており、高嶺くん自身もその関係を否定していない。そして、これまでの高嶺くんの話でお付き合いしている恋人として登場するのは明田小夏だ。彼の口から今も男女としての付き合いを続けているとはっきり聞いた。

 浮気。ふたりの恋人。ストーカーから浮気問題へ。

「まさか、ストーカーは由香里?」

「そう……だから、言っただろ。おれは浮気をしているんだって」

 私は混乱した。中学から付き合っていたなら、間違いなく明田小夏のほうが先だ。そのあと由香里と付き合い始めたことになるけれど、ストーカーと自ら浮気することになったのか? それとも浮気が原因で、明田小夏と別れさせるべく由香里がストーカー行為を行うようになったのか?

 行為が先か、好意が先か。いずれにせよ、由香里の語った藤の自殺動機はまったくのでたらめであったことが証明された。

「それじゃあ、藤の自殺はまったく関係ないってことに」

「いいや、それは違うと思う。紅崎の自殺は、確かにおれたちの問題と繋がっている」

「どういうことですか?」

「浮気をしていたのはおれだけじゃないってこと。つまりさ、由香里自身もおれと付き合った時点で二股していたんだ。ただし、相手は男じゃなかったけど」

「それって……」

 私は春川さんの最後の台詞が頭に蘇ってきた。

『紅崎藤が男と付き合うなんて、信じられないのよね』

 彼女はそう言った。母親の自殺は、父親の浮気のせい。藤の根底には男性不信が根付いており、浮気調査が本業である探偵をやっているのも不貞行為を許せないから。

 藤と由香里の本当の関係。

 百合。レズビアン。同性同士のカップルが存在している事実を、私は知っている。実際に出会ったことはなかったけれど、現実に存在しているのだ。

「藤と由香里は付き合っていた」

 由香里の説明した関係性の構築式が、がらりと入れ替わっていく。

 頭の中で主語と述語が逆転し、感情のベクトルが反転する。

 世界がひっくり返る瞬間、月の裏側が眼前に浮かび上がってくるのだ。

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