2 真っ赤な表皮

 なにひとつ身の入らない状態で午前の四限を終えた。それは私に限ったことではなく、クラスメイトや教師たちすらも、どこか上の空のまま時間だけが過ぎて行った。

同級生の自殺未遂。一体どこから情報が漏れたのだろうか。SNS上では激しく憶測が飛び交いあっていることは容易に想像できた。事実、隣の席の諏訪さんは教師になんらはばかることなく、授業中スマホを弄り続けていた。日常の退屈に飢えている生徒たちにとって、同級生の自殺というセンセーショナルなイベントは、最上のエンターテイメントになったのだ。

 未遂、という点も生徒たちの自制心を大きく欠如させたのだろう。死んでしまったら不謹慎ということもできるが、未遂ならば、まだ死んでいない。死という抑止を欠いた状態で、この件について口を閉ざせと言う方が無理な話だ。休み時間に私からなにかしらの情報を得ようとする、失礼極まる野次馬もいたが、私の精神は彼らほど平然としていられなかった。私にとって、紅崎藤は他人ではなく、親友だ。自分の半身が切り刻まれたような気分だった。

 なぜ? どうして? その疑問だけが、行き場を失くして回遊していた。

 昼休みになると、学年主任が私を呼び出した。

 彼らも自殺に至った動機が知りたいようで、いじめはなかったか、家庭環境はどうだ、悩みを相談されたことはないか、と質問された。彼らもクラスメイトと少しの違いもない。死んでいないことで、気を回すということを頭の隅に押しやっていた。教育者として責任が問われるのではないか。学校が非難されるのではないか。危機回避、保身、責任逃れ。見え透いていた。彼らがただの一言でも、藤を思いやっただろうか。

 そして、私はただ聞かれた質問に首をふるしかなかった。

「突発的に死にたくなることもあるかもしれない。お前たちはそういう時期だしな?」

 自分勝手に納得したような学年主任の言葉に、殴ってやろうかと思った。そういう藤への不理解な態度が彼女を死に追いやったのではないか? そう言い返そうとしたが、やめた。だって、私も同じだったから。藤が自殺しようとしたと聞かされても、なにひとつ原因がわからない。藤の親友面して、彼女のことなどなにも理解していない私が情けなかった。

 呆然自失として生徒指導室をあとにする。

「安希世……安希世ぉ……」

 廊下に出ると、同じように隣室で事情を聞かれたらしい由香里が、涙にぬれた頬を私の胸の押しあてた。

「ふじが、ふじがね……」

「うん。わかってるよ……わかってるから」

 由香里の背中を抱き止めて、虚しさを慰め合う。やり場のない感情をふたりの身体に行き交わせて、少しでも薄めようとした。

 私たちは友達にすらなれていなかったのかもしれない。

 そんな言葉は飲み込んで。廊下のただなかで、ふたりは漂流して、迷子になってしまった。無力に声をあげて、泣きじゃくるしかできない子供でしかなかった。


 私と由香里は午後の授業を早退し、ZOWへと向かった。私の抱える混乱を、共有できる人間とすこしでも話したかったのだ。話したいのは由香里も同じだったようで、赤い目のままで賛同してくれた。

 オーダーを取りにきた店員が、お通夜のような私たちをみて驚いた顔をしたが、変に気を使わずオーダーを聞きメニューをさげていった。そのあとで、店内にかかるレコードの音量を少しだけあげてくれた。さりげない気遣いのある、いいお店で申し訳なく思う。

 しばらくして、コーヒーとケーキのセットがやってくる。私たちはそれまで一言も発せず、押し黙ってうつむいていた。コーヒーの香りで、ようやく意識を引き戻した。

 オリジナルブレンドに角砂糖をみっつ落とす。カフェインと糖分で感情を流し込もうとする私たち。マスターにはちょっと申し訳ない飲み方だが、いまはこの苦さが必要だった。

 私たちはぽつり、ぽつりと話しはじめた。

 話し始めて驚いたことに、由香里は教師から藤の自殺未遂に関する詳しい情報を聞き出していた。細かいことをペラペラとしゃべった教師への不信感は今さらだが、泣きじゃくっていた彼女の方がよほど私より頭が回っていた。

「ふじ、お風呂で手首を切っていたんだって。運よく仕事から戻ったお父さんが、おかしいって気づいたから助かったけど……それでもだいぶ弱っていたみたい」

 彼女の母親の自殺が、アップルパイと共に頭をかすめた。よりにもよって自分の母親と同じ死に方を選ぶなんて。いや、それしか死ぬ方法を知らなかったのかもしれない。藤の頭の中で、死に方といえば、風呂場で手首を切る行為を指すのかもしれなかった。

「きっと大丈夫だよ。一命は取り留めたんでしょ」

「うん……死んだりしないよね。また、三人で遊べるよね?」

 由香里は不安で落ち込んだり、急に空元気を出したりと、不安定に行ったり来たりしている。店内に入ったすぐは、むしろ私を励ましていたぐらいなのに、今は急激に弱気になり落ち込んでいる。

「当たり前だよ。そもそも、あの藤が自殺しただなんてこと自体信じられないぐらいなんだから。ほんと、なんで相談すらしてくれなかったのかな。わかんないよ」

「たぶん、あたしのせいだ。あたしが悪いんだよ」

「自分を責めないで。由香里が悪い事なんて、なにもないんだから」

 私の気休めを押し塞ぐように、由香里ははっきりと首を振った。

「違うよ。そうじゃないの」

 由香里の歪んだ表情をみて、私は藤だけでなく、由香里に対しても理解が及んでいないことを知る。親友の知らない面を知る。一枚剥いた皮の下。嫌な予感がした。別に私は知りたくない。知りたくもないことを分からせられようとしている。

 窓から入り込む午後の斜光が、卓の中央で明暗をえり分けていた。

「安希世は初耳かもしれないけど……」

 そう前置きされてはじまったのは、親友たちの私の親友でなかった部分。なんでも知っているつもりでいるのは傲慢で、なんでも解った気でいるのは怠慢で。そんな甘えが、どこまでも私の望んだ仲良しな三人でいさせてくれたのだ。『知りたくなかった』なんて言葉は、幼い後悔でしかないんだと、わからせられた。

「あたしが藤を一方的に責めちゃったから。悪いのはきっと、藤だけじゃなかったのに。高嶺くんと浮気したって噂で聞いて、見た人もいて、証拠まであって、頭に血が上ったの。あの時は、どうしても許せなくて。しかも、藤は別のひととも二股していて、親友だと思っていたのに、何もかも急に信じられなくなっちゃって。絶交だって言っちゃった」

 なにもかも初めて聞くことばかりだった。彼氏? 浮気? 二股? 一体、どこの世界の話をしているのだ。

「由香里と藤、彼氏いたんだね。しかも、高嶺くんって……サッカー部の高嶺昂生くんでしょ、それ。由香里すご……かっこいいよね。いい人そうだし。接点とかぜんぜんないと思ってた」

 衝撃のあまり由香里の懺悔とはまったく違う方向の、とんちんかんな感想を返してしまう。おまけに共感度ゼロの薄っぺらい、夏休み最終日に仕上げた読書感想文ぐらい中身の無い感想を漏らしてしまった。どろどろの愛憎劇や、親友の裏切り行為について意見するのは、私のキャパシティを越えている。

 高嶺昂生といえば、二年男子のなかでも目立つ存在だ。まるで接点のない私でも彼の風聞について、多少なりとも知っているぐらいだ。ひとあたりがよく、チャーミングな印象。同じ日向の種族の人間どころか、日陰者とも広い交流を保っている、稀有な人間だ。実際、いじめに発展しそうな場を彼が和ませることで、陰湿さを中和している場面を見かけたこともある。良い悪いは置いといて、いじめをいじりに昇華する程度のコミュニケーション能力を持っている。

 他人を寄せ付けない浮世離れした藤は言うまでもなく、根っからのオタクである由香里とも無縁の存在であるはずだった。由香里のかけた野暮ったい、プラスチックフレームの赤い眼鏡が偽物でなければ、の話だが。

「高嶺くんって、そういうことしなさそうな印象だったけど」

 無意識に話題を逸らせようと、言葉を発している。そうじゃないのに。今ここで聞きたいのは、そんな事じゃないのに。

「高嶺くん、やさしいから。好意でこられちゃうと、無下にできなくて押負けちゃったりするんだ。だから、あたしもお付き合いなんてできたわけだけど」

「いつから?」

「来週で三か月」

 二度目の衝撃を受けた。彼女の言葉が嘘でないのなら、私と藤がふたりでアップルパイを食べたときには、すでに付き合い始めて二か月も経っていたことになる。

「安希世はSNSとかあまり見ないから、気付かなかったと思うけど、最近噂になっていたの。藤と高嶺くんがふたりでZOWにいるところ見たって子がいて。高嶺くん、いままでそういう恋愛がらみの噂とかなかったし、人気もあるから、すごい勢いで拡散されちゃって。あたしが彼女のはずなのに、藤が彼女みたいな感じになって。でも、藤は美人だし、普通のひととは違うから、納得とは違うけど、敵わないよねって論調になっていたの。それで逆に、あたしは引っ込みがつかなくなって……藤に直接確かめなくちゃと思ったら」

「一方的に責めていた?」

 由香里は抑えきれない感情を涙として吐き出していく。眼鏡のしたにおしぼりを押し当て湿らせていく。

「浮気は本当だったの? 勘違いってことはない?」

 藤に限ってそんなこと、といいそうになる舌を口蓋に縫い止める。私の親友観は、今日に入って何度も崩壊させられたのだ。私の中にあった藤像や由香里像は、もはや私の幻想に過ぎない。事実を追いかけることだけが、私に許された理解の余地だ。

「あたしも勘違いだって、思いたかったけど」

 そういって由香里がスマホに保存された画像を見せてくれる。SNSに晒されたものを、証拠として保存していたようだ。やはり、由香里は動揺していても、どこか冷静だ。これも私が知らなかった一面のひとつ。

 画像にはZOWの窓際の席が写し出されている。藤と高嶺くんが向かい合ってテーブルを囲んでいる。テーブルの上にはお水とメニューがふたつずつ。メニューは閉じられており、なにかを注文しそうな気配はない。

 藤は後頭部と横顔しか写っていないが、卓上で組まれた細指の白さにかけて間違いないだろう。これほど手先がきれいな人間もそういない。高嶺くんは向かいの窓側に寄り添う形で座っており、薄っぺらい鞄も壁と体の間に挟んでいる。視線は窓の外に向かって、こちらをみていない。もしカメラの方を向いていれば、彼からは盗撮者がはっきりと視認できただろう。

 少し気になることはふたりの位置関係。四人掛けできるソファのテーブル席で、藤はソファの中央に堂々と座っているのに対して、高嶺くんは壁際で身を細めている。やましい気持ちがそうさせているのだろうか。窓際の壁に身を寄せていれば、外からは窓を覗き込まない限り、だれが座っているか確認することは難しい。ふたりとも制服であることからして、学校帰りなのだろう。

 高嶺くんは隣のクラスで、生息域もまるで違う。藤は私と同じクラスだが、気まぐれで授業を抜けるとこもあるし、放課後は探偵業に精を出していることも多い。ふたりが私に隠れてデートすることは、いくらでも可能なのだ。

 撮影者はふたりのいる席から対角線の店奥、お手洗いの前から撮影したようだ。距離にして10メートルは離れているし、私の肩の高さまである衝立によって隠れることもできる。店内にはレコードもかかっており、カメラの動画モードの起動音なら聞こえることもない。あとは静止画としてトリミングするだけだ。細部に焦点のぶれが残って、はっきり写っていないのもそのためだろう。

「でも、これだけだったら、ふたりで会っていたってだけじゃない?」

 男女の学生がふたりっきりで喫茶店にいるというシチュエーションそのものが、男女の関係を連想させる。少なくとも友達だからといって来る場所ではない。ただ画像に映し出されたふたりは、それほど親密そうにはみえない。

 私の言葉は苦し紛れにひねり出したものだったが、由香里ははっきりと確信を持って否定する。

「高嶺くんに聞いたら、デートだったって。高嶺くんはもう会ったりしないって約束してくれたけど」

「そう、なんだ……」

 本人が認めているならどうしようもない。しかし、浮気がばれたからといって自殺するだろうか。

「さっきの由香里の話だと、藤は高嶺くんじゃない彼氏がいるんだよね? そのひとはどうなったの?」

「わからない。そのひとについては、あたしも知らないの。でも、高嶺くんとのことは結構広まっちゃったから、別れるって話になってもおかしくないと思う」

 由香里の話をまとめると、藤には以前からお付き合いしていた男子がいた。そのうえで、由香里の彼氏である高嶺くんとデートをする。乗り換えなのか、単なる浮気か分からないが、彼氏と高嶺くんに二股をかけていた。しかし、高嶺くんとの浮気現場が見つかり、SNSで拡散される。由香里にばれて、高嶺君とは切れ、元々の彼氏とも縁が切れたかもしれない。そして、親友だった由香里とは絶交される。

 寄り所であるところの彼氏に加え、親友からも突き放された。まして、藤は母親のいない父子家庭だ。なにか不安定な要素を、心に抱えていても不思議じゃない。陥った状況としては、藤の自業自得といえなくもない。しかし、周囲から一度に絶縁され絶望して自殺、ということもあるかもしれない。

 ここまで考えて、ますます私が、彼女らの世界から疎遠な場所にいたのだと痛感した。

 藤は周囲から絶縁されたらしいが、こと私に関しては、はじめから隔絶しているように感じてしまう。この件について、なにひとつ蚊帳の外だ。事実、絶縁された藤が頼ったのは私ではなく、自殺という自傷行為だ。

 いや、と私は唇を噛む。私は昨晩のメッセージがあったことを思い出す。『見せたいものがある』といった藤。なにを指して、私に見せようとしていたのかはっきりしない。だが、由香里の話と合わせて考えると、自殺は衝動的というよりは作為的に思える。自分を捨てた男子や由香里への当てつけという可能性も考えられる。

 この一点において自殺未遂と由香里の話が噛み合わなくて引っ掛かる。

 藤は私に、なにを見せたかったのか。

 どこか、おかしい。でも、なにがおかしいのかわからない。

「なんか、意外だな」

 私はそう呟いていた。どちらにせよ、私の藤像とはかけ離れている。百歩譲って浮気や二股はありえたとしても、絶望という動機や当てつけという感情的な行動があてはまらない気がする。

 もっとも、私の藤像が間違いだったわけで、そういう結論もありえるのかも。

「ごめんねぇ。こんなことになるまで、打ち明けられなくて」

 由香里は涙ながらに、注文していたガトーショコラに齧りつき、コーヒーで流し込む。たくさん泣いたから体力を使ったのだろう。私は自分のケーキがのる皿を押しやって、彼女に食べさせる。店に入って注文したことをすっかり忘れていた。

 どうにも胃の底にもやもやと納得できないわだかまりが積もっている。とてもではないが、胃がむかむかして、ケーキなど食べられる気分ではなかった。

 空っぽのお腹には消化不良の感情がいつまでも残り続けていた。

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