毒林檎の血蜜

志村麦穂

1 毒林檎

『見せたいものがある』

 紅崎藤からのメッセージが届いたのは、22時を回ったころだった。夜更かしというほどでもないが、明日が月曜ということを考えると億劫さで眠気が襲う時間だ。私はスマホを弄るついでに、聞き返してみたが反応がない。またいつもの思い付きだろうと、うつらうつらと寝落ちしてしまった。

 明日の英語は、私が和訳を当てられる番だったかも。予習していないけど、藤に見せてもらえばいいよね。そんなことを夢現に考えながら、ベッドに沈んでいった。

 私はあまりにも鈍感すぎた。

 このときの私は、まだ何にも気づけていなかった。

 翌朝、すこしばかり寝過ぎた私は、時計の針と競い合って教室にやってきた。一限が英語だったのに、これでは予習を書き写す時間もない。慌てて駆け込んだ教室は、妙なざわめきに包まれている。ホームルーム前の騒々しさとは違い、皆声をひそめつつも、浮足立った様子で視線と言葉を交わし合う。

 おかしな空気を感じつつも、教室を見回してあることに気が付く。この時間、いつもなら教室にいるはずの藤が見当たらないのだ。彼女は通学時の雑踏を嫌う関係上、朝練の生徒と同じころには登校している。ところが、彼女の姿はおろか、机に鞄すらもない。

 私は英語のノートを引っ張り出しながら、隣の席で寄り集まっている女子グループに問いかける。

「藤、どこいったか知らない?」

 その一言で、教室が静まり返った。

 さざ波のようだったざわめきがぴしゃりと収まり、不気味な凪が私を中心に広がっていく。

 隣の席の子たちは、女子特有の視線による高速通信回線を用いて、無言の言葉を交わし合う。瞬きの回数と黒目の方向で暗号化されたシグナルは、同じグループに所属する共通言語の話者にしか解読できない。女子高生の暗号は時に、SNSの量と速度をはるかに凌駕するツールとなる。およそ一秒にも満たないやり取りの後、私にもっとも近い女の子――諏訪さんがためらい混じりに口を開く。

「桜井さんは、聞いてないの?」

「なにを?」

 もしかしたら私が下手を踏んだのかとも思ったが、伝聞形の言い方からして私が原因ではないらしい。残るとすれば藤のことだろうが、私に心当たりはない。

 クラス全員の視線と意識が、私たちに集まっている。息を呑むクラスメイトたち。今になって気が付いたが、廊下や隣のクラスまでもが異様な静けさに包まれている。なにかがおかしい。

 グループの女子たちに押し出されるようにして、諏訪さんが口を開く

「紅崎さん、自殺未遂だって……今は病院で意識不明みたい」

 藤が自殺。あの藤が、自ら死のうとした。

 英語のノートを取りこぼした。ガラスの花瓶でも叩きつけたような、鋭く尖った反響が教室を揺らした。だれも押し黙り、喋ろうとしなかった。音が、私たちの言葉を奪い去ってしまった。

 私は取りこぼした。

 ノートだけじゃない。もっと重くてたくさんのものが、指の隙間から零れ落ちていった気がした。


 藤の自殺、と聞いて真っ先に思い浮かんだのはアップルパイだった。

 ひと月ほど前のこと。私がせがんで一緒に行った、焼き菓子が美味しいことで有名な喫茶店「ZOW」。赤レンガの外観はドールハウスのようで可愛らしく、年季の入った皮張りのソファには本格的な趣を感じた。私たちの蓮見台高校の女子の間では、特にアップルパイが絶品だと評判だ。

 その日も、私たち以外にちらほらと蓮見台の制服をきた女子たちがみえる。彼女らのお目当ても、16時ぴったりに焼き上げる数量限定の、蜜たっぷりの林檎と特製カスタードを使ったアップルパイであるようだった。

 しかし、16時のアップルパイにありつくためには問題がひとつ。

 間に合わないのだ。七限目の授業が終わる時刻が16時20分。そこからホームルームを待っていたら、学校を出るのは早くても16時30分。そこからZOWまで片道徒歩20分。30分もあれば完売余裕といわれ、休日は10分と経たずに品切れとなる競争率の高さなのだ。そもそも焼き上がる数が少ないこともあるが、予約もできないとあっては食べること自体が難しい。オーダー自体も焼き上がり後より受け付け、という徹底ぶりだ。故に、ねらい目は平日。七限目はサボり。これしかない。

 私と藤は六限が終わると同時に、まるでトイレにでも行くかのようなさりげなさで教室を抜け、裏門から脱出を果たした。16時の15分前には店内に入り、焼き上がりを紅茶片手に待ちわびていたのだ。本来なら、もうひとりの親友である由香里も一緒に来たかったのだが、彼女は廊下で担任に捕まるというアクシデントに見舞われた。彼女は私たちと違い隣のクラスで、担任はやけにねちっこい喋り方をする現文の信濃だった。

 日を改めるべきかとためらったが、由香里が後手に立てた親指をみて、腹をくくった。

 ポケットのスマホがメッセージを受信して震える。

『私は彼女と行くから、悔しくないもん』

 肩を落として授業を受ける由香里の姿を、容易に想像できた。でも、彼女ってなんだ。彼氏と打ち間違えたのだろうか。

「由香里、なんて言ってる?」

 眠たそうなタレ眼を差し向けて、正面に座る藤が私に問いかける。紅茶の入ったティーカップを摘まむ仕草が、やたらと様になっている。

「彼氏と行く、だって。まずはつくるのが先だろうにね。やっぱり、次にすればよかったかな? 七限、ゆるい津狩先生とはいえ、突然小テストしたりするからさぁ……心配になってきたかも」

「心配ないよ。あの先生がテストをするのは、思い付きじゃなくて周期。いかにも数学教師らしくね。教師も暇じゃないから、自分が忙しい時には面倒なことはしないものだよ。テストを出すからには作問や採点をしないといけないでしょう? 成績をつけるなら、なおさらね」

「周期って、いつやるか分かるの?」

 私の疑問に藤が答える。私らの中では見慣れた構図だ。藤は聡明なだけでなく、洞察力にも優れている。彼女は細長い指を組む、やや芝居がかった仕草でもって解説をはじめる。

「津狩先生は一年のときから担当だし、ほとんど正確に予測できる。少なくとも、どの週に行うかは検討がつけられる。まず大前提として、教師の目的が生徒の成績の維持、向上なのは理解できるでしょう。どんな態度、性格の教師であっても、生徒に勉強させなければいけない。津狩先生は生徒の授業態度に関しては、細かく注意をしたりしない。自分の授業をその場で聞いているか、否かについては放任している。誰かが抜け出しても気にしないぐらいにね。一々聞いていることを生徒に確認したり、無理に集中させようとはしない。ひとクラス35人もいるのだから、当然の判断だと思うわ」

「もしかして、小テストはその代わり、ってこと?」

「その通り。津狩先生は生徒に左右されないから、授業の進行速度は常に一定で、定期考査を目安として計画的に進められている。つまり、小テストも計画的に実施される。小テストには主にふたつの区切りで行われる。ひとつは理解度の確認として、教科書の内容の区切りで行われるもの。もうひとつはテスト前の復習として行われるもののふたつ。ちなみに、小テストの内容を重点的に復習すれば、定期テストは八割を取れる」

「え、じゃあヤバイじゃん。この間、教科書の三章終わったところだし」

 藤の言葉が本当なら、小テストも十分成績に響いてくるということだ。私はいままで受けた小テストを、返却されてすぐ捨てたことを後悔した。

「もうひとつ、大事な条件がある。それは津狩先生自身が暇なこと。先生はテニス部の顧問で、練習試合の引率があるときは必ず同伴しないといけないわ。うちのテニス部は県下でも強豪で、練習試合で他校にいくことも多い。週末が潰れるときに限って、自分から仕事を増やしたりはしない。そして、テニス部は今週遠征の予定がはいっている。小テストがあるなら、来週の木、金あたりじゃないかな」

「テニス部の予定とか、わざわざ調べたの?」

「計画には万全を期したいの。教師の動線を調べるぐらいわけないわ。学校教師って意外と仕事が多いものだから、行動の予測は立てやすい」

 藤は鋏で直線的に切り落としたボブの毛先を、爪先でなでた。相変わらず仕草の一々が艶めいてみえる。半眼の冷めた目線も、口元のほくろと相まって、お姉さん系だと男子からの密やかな人気を集めている。制服よりパンツスーツが似合いそう、だとか。確かに線の細い腰回りや、白くて長い首回りなんかは大人びた彼女のスタイルを後押ししている。

「さすが趣味で探偵をしているだけはあるね」

 藤はその頭脳を活かして、探偵活動を行っている。同好会という体で活動しているらしく、うちの学生、とくに私ら二年生は、困りごとがあると彼女を頼ることがある。まあ、知名度は「知る人しか知らぬ」程度なのだそうだが。

「浮気調査が大抵さ。最近はストーカーの特定も請け負ったりしたかな。事件を推理するような名探偵には程遠いよ」

 藤は自嘲していう。自分ではおままごとだというが、彼女が探偵に憧れを持っていることを私はよく知っている。読書のラインナップをみれば、察しの悪い私も気づこうというものだ。

「それだと、由香里がこられなかったのは、なおさら悔しいね」

 彼女を気遣って私がそう口にすると、「そうね」とだけ言って、藤にしてはめずらしい曖昧な微笑みをみせた。

 そうこうしている間に、焼き立てのアップルパイが木の実の香りをまとわせてやってくる。テーブルに置かれた瞬間、鼻先を覆った香ばしさに私の思考は埋め尽くされる。木漏れ日のきらめきを宿したパイの光沢は、焼き立てにしか出会えない奇跡のひととき。断面からは、熱で溶けだした蜜が、固まることなく生地に浸透していく様子をみつめることさえできた。層になったパイシートに、リンゴからあぶり出された糖蜜が、じゅわりと染みを広げていく。

 口コミによると、特製のカスタードは甘さを極限まで控えてあるらしく、リンゴの甘みを最大限まで引き出した品であることがうかがえる。甘味のつよい品種を使っているのだろう。パイにはナッツがペーストにして練り込んであるらしく、リンゴの甘味と絡み合いながら匂い立ってくる。いかにも食欲を掻き立てる香りだ。

 私が散々鼻を鳴らして、パイを眺めまわしている間に、藤は小さく切り取った断面を咀嚼している。

 フォークを押し込んで、いざ食べるぞ、と意気込んだところで、藤がぽろりと言葉をこぼした。

「嫌いなの、アップルパイ」

「え?」

 二口目を押し込んだ彼女は、表情ひとつ変えずにそう言った。

「リンゴがね、白い実が熱で溶けだして、ぐずぐずになっているでしょう? それをみると母の死体を思い出す。浴槽にお湯をはって、肩まで浸かり込んで、手首を切って死んでいた。私が六年生のころの話よ。第一発見者は学校から帰ってきた私。修学旅行の帰りだったから、死体はまる二日経っていたのかな。父は出張中で知りようもなかった。バスタブでね、浮いているの。体内にガスが溜まって。ふやけでぐずぐずになった皮膚から毛が抜けて、さらに溶けかけの体で。ぶよぶよで、触ると、変な粘り気のある半透明の茶色い汁が糸をひくの」

 彼女はアップルパイを次々に切り崩し、内側を開いて、カスタードとリンゴをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて口に運ぶ。

「浴室が閉め切ってあったから、涙がでるほど臭い。発酵した熱と、老廃物の腐敗した匂いがこもって、刺激が鼻から脳髄にまで浸食してくる。私まで腐らせようとするみたいに、鼻と目と口から汁を零れさせるんだ。何の汁かなんて自分でもわからないけど。でもね、おかしいの。ふと、ある瞬間を過ぎると、甘い匂いが鼻の奥に残るようになる。あんなに臭かったのに。生ごみの奥底に、発酵が生み出した、甘ったるい生命の腐敗を感じた。この、アップルパイみたいに、甘い匂いが頭にこびりついて離れなくなる。甘い匂いを嗅ぐたびに、母の死骸を思い出して、ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに、しなくちゃって、思うんだよね」

 私はフォークを突き刺したまま、身じろぎさえできずにいた。次の呼吸でパイの甘さを吸い込んだらと思うと、息をすることも躊躇われた。

「だからね、大嫌い。アップルパイ」

 藤は最後の一口を満足そうに飲み込んだ。食べている最中はちっとも美味しそうじゃなかったのに、私の表情をみて微笑んだのだ。みじんの瑕疵もない、きれいな笑顔だった。きれいで、わるい、笑みをしていた。

「安希世だから、話したの」

 もしかしたら、と酸欠になりそうな頭で考えた。

 由香里がこの場にいないのは、偶然ではないのかも、と。わざわざ教師の行動を調べ上げた彼女が、詰めを誤るようなことがあるのだろうか。

 ただの憶測にすぎない。けれど、その憶測が、私の肌から染みこんでくるのを感じた。

「ここだけの秘密、ね?」

 溶け出した蜜が、一層ずつパイに染みこんでいくように。

 彼女から溶け出した秘密は、少しずつ、着実に、私のなかに染みこんでいった。

 甘い香りだ。食欲をそそり、唾液で口を湿らせる。あまい、甘い。

 私は藤の目の前で、アップルパイを貪り食った。本来の、想定されていたリンゴの甘味を越えた、人工の甘味料が私の舌を痺れさせ、いつまでも甘ったるい後味を残して消えなかった。

 いまここでしか、味わえない甘さだった。

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