クジラの夢渡り
夏倉こう
クジラの夢渡り
夜、子供たちの夢から夢へ渡り泳ぐ山より大きな鯨がいる。それは昔からの言い伝えだ。真っ黒な水に囲まれた夢の中に現れ、その体は朝早い空のように真っ白で、尾びれを上下させるたびに体に月の光をうねらせるという。圧倒されているうちに突風のような声を上げて、次の瞬間には周りの水を泡に変え、巻き上げながら消えていく。何人も何人も同じ夢を見た子供がいるのだ。
その夢の話は大人が教えたわけでもないのに、子供たちの口から口へと語り継がれていく。
「そのクジラにお願い事をすると叶うんだってさ」
それがこの伝説のお決まりの締め。僕たちはいつもの公園のベンチの周りで、誰にも話を聞かれないように頭を寄せ合っていた。
「でも夢の中で、これは夢だって気づいたら二度と目を覚ますことはないってさ」
「そしたらお願いなんてできないんじゃん」
話を聞いていた一人ががっくりと肩を落とす。そこからは話の筋なんてなく、パラパラとどんなお願いを聞いてもらいたいだとか、それよりも今日の先生の様子がおかしかっただとか、スパイごっこをしようだとか話はどんどんクジラと関係がなくなっていく。銃を構えるジェスチャーをしながら遊具の影に隠れていると、陽が沈む時を知らせる鐘がカラァンカラァンと鳴った。僕が世界で一番嫌いな音だ。
お母さんだ!帰んなきゃ、と誰かが言った。公園の入り口で肩にショールを巻いた色の白い女の人がこちらへ手を振っていた。またね、と言って駆け寄っていくとその子は女の人へ抱きつき、女の人はその子の頬を揉みくちゃに撫でる。バイバイ、とみんな散り散りに家へ帰っていく。誰もいなくなった公園はさっきまでよりずっと風が強くて僕にも帰るのを促しているようだった。
僕は、もし願いが叶うのなら何をお願いするだろう。僕はどうして自分の胸の中がいっぱいにならないのかわからない。常に半分くらい空洞で、真っ黒な霧が蔓延っているような心地なのだ。僕の中で小さな痩せっぽちのネズミが助けて助けて、とその黒い霧に溺れているようなのだ。
「ただいま、帰りました」
教会のドアを開けると、シスターはその細く角度のついた眉をしかめたまま、おかえりなさいと言った。僕は僕の親がどこかへ行ってしまってから、ここの教会で何人かの子供とシスター、そしてグランマと暮らしていた。
夕飯の配膳はみんなの仕事だ。
お湯の味がするスープと、バターとミルクが控えめのパン、そして薄く切ったチキンと蒸した野菜が今日のメニュー。手を合わせてお祈りをする。僕の席の隣は一つ上の体のでかいやつで、最近ますます背が伸びた。それに比例して胃も気も大きくなり、僕に偉そうにすることが増えた。
「俺にはこれじゃあ足りない」
彼は自分の皿の上をぺろりと平らげた。そうだろう、僕たち成長期の男子にとってここの晩御飯は控えめすぎる。
「お前、そのチキン残さねえの。残すんならさ俺にくれよ」
「残さないよ」
「明日俺のハムをやるからさ、今日はお前がチキンをくれよ。ハムの方が好きだろ」
「そう言って、本当にくれたことなんてないだろ」
「今度は本当だよ」
彼は知っているのだ。
「いい加減にしろよ。お前に分けてやるチキンはない!」
「こら、何事です」
気がつけば僕らの後ろにシスターが立っており、鋭いナイフを思わせる目で見下ろしていた。そして小枝のような人差し指で僕の鼻先を指す。
「今すぐ部屋に来なさい」
「でも、まだ食事中で」
「いいえ、今すぐです」
僕は胃袋を絞られる心地で席を立った。
シスターは僕にばかり厳しいことをみんな知っているのだ。僕が戻る頃にはきっとチキンは残っていないだろう。
シスターは僕を丸い木の椅子に座らせた。ゴツゴツしていて節立っていて、とても座り心地が悪く、いつももぞもぞと落ち着かない。
「あなたはいつも短気すぎる」
シスターは僕の手を握り、ため息混じりに話し出した。
「食事中に声を荒げるなんて、どういうことですか」
「あいつが僕のチキンをしつこく狙うんです」
「言い訳を聞きたいわけではありません。いいですか」
この先に続く話を僕は何回も聞いたことがある。一言一句違わずに復唱できるほどだ。頭にはしっかりと入ってはいるが、僕の腹の底まではどうしても落ち着かない。認めてはいけない、と思っていた。
「親の罪は子供の罪ではありません。あなたは何も悪くありません。それでも、あなたは他の人の十倍は優しくいようと努めなければなりません。あなたの血は悪い道へ促されやすいのですから。そして、そうしなければ人はあなたを罪人と認めてしまうのですから」
僕はこの場ではこういうしかなかった。
「すみませんでした。シスターの言う通りです」
そう言うとシスターは疑いの目を向けたまま、次の説教の段階へ進む。
そして全ての段階に僕が頷き尽くすと、ようやくこの冷たい部屋と粗末な椅子から解放されるのだ。
ご飯は半分も食べれなかったので、ぐるぐると鳴る腹を抱えて自室に戻るように言われる。僕はやり切れないやら、悔しいやらで自室にまっすぐは戻れないだろうと思った。そんな時、僕の足は自然と自室の前を素通りし、真っ暗な階段を降り、礼拝室手前のグランマの部屋へと向かう。
ノックをするとグランマのか細い声で、だあれ、と聞こえて来る。
「僕です、遅い時間にすみません」
「どうぞお入りなさい」
ドアを開けると寝巻きに着替えたグランマが震える腕で上半身を起こしベッドへ座り直すところだった。その腕には細い管が刺さり、点滴の袋へと繋がっている。街の医者はグランマは今年の冬を越えられないと言った。でもその窪んだ眼孔から僕を見る瞳は未だ誰より暖かく、近いうちに消えてしまうなんて思えなかった。
「またシスターに怒られたんだってね、おいで」
僕はグランマのぴったり横に座った。グランマは皮と骨しかない腕で僕の頭をすっぽりと抱きしめる。
「シスターはいつも厳しいね。でもそれは彼女がこの世は優しさでできていないことをよく知っているからなのよ。わかってね」
グランマは痩せ細っているのに誰よりも暖かい。それだけで僕は泣きたくなってしまう。
そしてこの暖かな場所は、無くなってしまう場所なのだ。
僕がわんわんと泣き始めると、グランマはたただ優しく背中をさすってくれた。
そんな時部屋の灯りがフッと消えた。僕が驚いて息を呑むと、窓が割れてしまうのではないかと思うほどガタガタ揺れ出す。
ぶろおぉぉぉぉぉ。
木々をざわめかすその重低音。クジラの鳴き声だ、そうに違いないと僕は思った。
「随分強い風ね。灯りがすぐに戻るといいけど」
「ちがうよ。クジラの声です」
「クジラ?それって夢を渡るクジラのことかしら」
僕の言葉をグランマは決して馬鹿にしなかった。むしろ、うんうんと納得したように頷く。
「先週、クジラの夢を見たって言っている子がいたわ。クジラは近くに来ているのね」
「グランマはクジラの夢を見たことはありますか」
「あるわ。小さい時にね。本当に綺麗だった。でも、私は夢の中で夢だと気づきお願いをすることはできなかった」
「なんてお願いしたかったんですか」
「……思い出せないけれど、すごく子供っぽいお願いよ。その夢を見た時に気がついたのだけれど、クジラにはクジラが叶えられるお願いしかできないのよ」
クジラが叶えられる願い、僕は口の中で繰り返した。クジラが何をできて何ができないかなんてわからない。でも僕の頭の中では不思議な重力を持つ一つの光の道が見え始めていた。やがて部屋の灯りは戻り、窓の外には虫の声が響き始める。グランマは僕の前髪を持ち上げ額を露にすると、そこへキスをしてくれた。
「おやすみ、私の可愛い子」
「おやすみなさい」
僕らには一人一つ、ベッドと机がやっと置ける大きさの部屋が与えられており、夜は一人きりになることができた。電気は通ってないため、小さな燭台へマッチをする。頼りない灯りが部屋の半分くらいをぼんやりとさせる。
ベッドに体の半分を潜らせ、寝る前に心を落ち着かせる本を読む。昔の心の広い人が書いた詩を集めた本で、シスターにもらったものだ。毎日読まなきゃ行けないからもうどのページも薄くよれ始めていた。
でも今日はどの詩も僕の心まで届かない。だって僕はクジラの鳴き声を聞いたあの時から、夢のクジラのことで頭が満たされていた。グランマは言ったんだ、近くまで来ている、と。
心臓が跳ね、瞼が軽やかな心地がしていた。とても眠りに入れる心持ちではなかったが、不思議なことに、小さな蝋燭が燃え尽きたと思ったら意識はあっという間に薄れていった。
夢を見ていた。
僕の図体はやけに小さく重たかった。高台の上に座って、目の前の砂の山を右から左へ少しずつ移さなければならない。そんなの普段の僕なら器用にこなすだろうに、なぜかうまくいかないのだ。手が鉛のように重たいからか、指先がブリキのように動かないからか、その作業は途方もなく終わりないものに思えた。耳元ではずっと誰かの話し声が聞こえる。なんと言っているかはわからないが、異様に居心地が悪かった。
空を分厚い雲が覆い、辺りが暗くなったかと思うと、足元から真夜中の暗闇が忍び寄りあっという間に僕の身体は闇の中に放り出された。上も下も分からなくなり、息の仕方を忘れたようだ。
ぶろぉぉぉぉぉぉ。
突風のような声が僕の頭の遥か上から聞こえた。
ぱっと目を向けて、息を飲んだ。
その眩い光を纏う巨体に僕は言葉を失った。シーツのように波打つ胸鰭をゆっくりと上下させ、クジラはもう一度声をあげる。よく見るとその身体には夜空の生地でできているかのような小さな魚が数匹くっついている。
長いまつ毛で縁取られた瞳と、音が鳴るかと思うほど目が合う。
その目は何も語っては来なかった。クジラと僕は夢の中を泳いで、すれ違ったに過ぎないことを知った。クジラはすぐに目を背け、遠くへ泳いでいこうとする。目の前が泡で包まれ、クジラの輪郭があやふやになり、慌てて僕は手で闇を掻いた。まって、まってと叫ぶたびに口へ水は流れ込んでくるが、全く苦しくはない。クジラは僕など全く気にもとめず、どんどん先を行こうとする。
「まって、お願い、僕も連れて行って!」
クジラはやっと僕を見た。
そして再び、とびきり大きな声で突風のような鳴き声をあげる。水流が僕へ一斉に押し寄せ、思わず手で頭を覆ったとき、僕は目を疑った。
僕の手は夕日と夜空の間の色に染まり、指がみるみるうちに縮むと、瞬く間に船のパドルのようになっていく。ちょうど魚の胸鰭のように!
気がつけば両足は閉じて尾鰭のように、身体はシャープに細長くなっていた。僕は水の中での動きに自由を得ると、あっという間にクジラへ追いついた。クジラが起こす引力のような海流にふわりと乗ると、自然と僕の背中だった部分はピタリとクジラの腹へくっついた。
不思議な高揚感だった。冷たくなった身体に、ふつふつと何かが湧くようだった。
クジラが気高い声を上げる。
君は終わりなき自由を泳ぐ旅に乗ったのだ!
誇るといい!
この素晴らしくあやふやで、理想が止まず、誰の目も邪魔もない旅に!
クジラの夢渡り 夏倉こう @natsukura
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