1.X.X ゆみとりのものがたり
*――*――*――*――*
――アーチャは元々、街外れのあばら家に住まう三兄妹の次女であった。父親の所在は知れず、母親一つの手のみ。近隣に他の住人などいやしない。決して豊かではない生活を送っていた。
ほとんどが自給自足を担わざるを得ない日常。母親は父親が最後に残したという弟となる赤ん坊の世話に勤しむため、子供であるアーチャとその兄が食材を毎日のように集めていた。山菜果実だけでなく、時には狩りにも出掛けた。兄の方が手際もよく、教えてもらいながらも着実にこなした。幼い時から弓を使い慣らしていたのはそれ故でもあった。
「お兄ちゃーん」
兄妹は決して窃盗は行わなかった。母親から、貧しいからとそんな悪事に手を染めるようなことは恥ずべき行為だと教え込まれていた。教えには自主的に従い、罠も手作りし、身体を清められない日々だってあった。
「アーチャ、止まって。罠仕掛けてあるから、静かに」
「はいはい~」
「はいは一回ね」
「はーい」
母親手織りの衣をたなびかせながら、パタパタと駆け寄るアーチャ。兄の腕に行く手を遮られるが、元より傍にちょこんと座る魂胆であった。
簡単な落とし穴を仕掛け終えた兄がその場からゆっくりと離れる。既に草むらに身を潜めていたアーチャは弓矢を手元に携える。
「来たきたっ」
他の生き物の気配と共に高鳴る胸元。小鹿が草陰から現れた。親は近くにおらず、罠上の枯れ草に気を取られている。
「シィーッ……」
「…………」
「……今だっ」
罠で脚を踏み外す小鹿。急いで穴から出ようとするが、穴の下に仕掛けていた簡易トラバサミでなかなか抜け出せない様子。
弓を強く引き絞っていたアーチャは隙を狙って弦を弾いた。矢は真っ直ぐ小鹿の首元に一突き喰らわす。もがき足掻いていた小鹿はぐったりと倒れこんだ。
「……よし」
兄の合図で胸を撫で下ろすアーチャ。小鹿はまだ息をしていたが、トドメは兄が締めた。必要だと知りつつも、アーチャにはまだまだ気難しかった。
「アーチャも弓矢の扱いが長けてきたな」
「えへえへ。お兄ちゃんのおかげだよ!」
「いいや。アーチャの実力さ」
「えへへえへへ〜」
兄の世辞ではなく、日に日にアーチャの弓技は磨かれていった。
そんなある日のこと。アーチャも少女なりにすくすくと大きくなり、家族もみすぼらしいながらも成長していった時のこと。
成長期が重なる一家にとって、食糧難は数知れず生じてしまった。近くの狩場は動物の数が減少し、罠にかかる個体もそう多くなくなった。兄妹は、多くの食糧を確保できる狩りを行うには、遠出をする必要が出てきた。
城下町の方向は人口が多く、アーチャ達には縁の遠い世界でもあった。働き手の母親はまともに動けず、狩りができるわけでもない。お金による食料調達が可能なわけでもない。
行く先は、王城や城下町の反対側、さらに離れた森の奥底であった。
そこは王国の騎士団が警備にすら回っていない領域であった。今は魔物という人の敵が現れる世界。アーチャと兄は、母親に黙ったまま覚悟を決めて未開の土地に足を踏み入れた。
猪を一匹狩るだけでも二人は苦労を重ねた。自然に満ち溢れた森に住まう動物もまた活き活きとしており、生命力も高かった。矢を数本受けただけでは止まる素振りを見せず、文字通りの猪突猛進を避けそびれたアーチャを庇った兄は片足に傷を負った。
「へへっ……。悪ぃな、すぐに動けそうにはねぇわ」
血抜きを済まし、兄は先に食料を送ってほしいとアーチャにお願いした。
「嫌だやだ。一緒に帰ろぅよ?」
「なぁに言ってるんだ。母さんが心配しちゃうだろ? 大丈夫、帰り道はちゃんと覚えてる。ちょっと休憩してからすぐ向かうさ。今日の飛び切りの成果を早く母さんに渡してやるんだ」
駄々をこねるほどの余裕がないことは幼いながらも成長した今わかっていた。猪の両足を肩で担ぎ、腰をやられないようにゆっくりと立ち上がる。
森が騒めき始めたことに、アーチャは気づいていなかった。
重たい猪を抱えて十と数歩だけ歩いた後、何となくアーチャは振り返った。
そこには、血塗れで足の傷に呻く兄の姿と、それに飛び掛かろうとする大型の魔物の姿であった。
兄は咄嗟の反応で抵抗したが、力を失った今やそれも焼け石に水をかけたようであった。魔物の口が兄の身体を飲み込むには造作もなかった。
「あぁぁぁ……っ」
アーチャはすぐさま駆け出した。間に合わないとわかっていた。それでも兄を助けなければと。猪をその場に投げ捨てて、弓矢を引き絞ろうとした。
だが、兄――正確には兄だったモノ――がそれを拒んだ。
早く、ここから逃げろ。
そんな風に聞き取れた気がした。
魔物の赤い目がぎょろりと辺りを見回して、すぐに兄だったモノを平らげた。ガリゴリという音の後、
アーチャは助けに行くことも、逃げることもできなかった。偶然にも木陰と草陰で魔物から身が隠れていた幸運を悪運だと呪った。
悲鳴を言葉にしてはいけない。急いで口を手で覆い、そのまま手のひらを噛んだ。痛みと血の味がした。
魔物はズカズカと広い道を選んだ。兄の腕を咥えたまま、アーチャとは反対の方向に遠ざかっていく。
振り返らなければよかった。
見なければよかった。
置いていかなければよかった。
そもそも。もっと早く、自分が躱すことができたならばよかった。
涙は歩くたびに溢れ、そのたびに立ち尽くしてしまう。家に辿り着くころにはすっかり夜も更けていた。ボロボロになりながらも倒れこむように着いた家は、とても静かだった。
きっともう母親は寝たのだろう。兄のことは何と伝えればいいのだろう。アーチャはうまく言葉にできる自信がなかった。
それもすぐに忘れる事態となる。
居間に倒れこむ母親と泣きべそをかく小さな姿を見て、アーチャは愕然とした。
暗くてわからなかったが、その状況はアーチャに全てを悟らせた。
すぐに母親に声をかけた。身体を揺さぶって、必死に叫んだ。それは答えてくれず、手には気味の悪い冷たさだけが残った。
「いやぁ――」
母親は持病を患っていた。重い疾患だったことはアーチャ含む子供達を思って教えず、独り抱えこんでいたのだ。
そうとは知らずに、アーチャは十数年の間過ごして来ていた。思い返せば、無理をしていたような素振りがいくらかあっただろう。
気がつけばアーチャは外へと駆け出していた。
早く。早く。
薬が必要だ。お医者さんを呼ばなくては。
城下町の門まで近づく。そのまま正門を通るにはしみんけんが必要だということは知っていた。母親はその目を縫って行く井戸の抜け道を教えてくれていた。迷わずアーチャはその井戸へと飛び込んだ。
だが、街中に入ったとはいえアーチャには宛がなかった。自分が病気にかかることはあったが、いつも兄や母親が看病してくれていた。薬というモノは知っていたが、どうやって手に入れるかもわからなかった。
一つだけわかることといえば、お金が必要であることだった。
城下町の人間達は、お金によって物々交換を行っていると聞く。薬もきっと、お金を手に入れることで交換できると。
お金をすぐに手に入れる方法。アーチャにはまだ知恵がなかった。
盗みを働けば確実に手に入るとわかっていた。緊急事態である。しかしながら、母親の教えはここでもアーチャを踏みとどまらせた。
アーチャは正面から目に入った薬屋の元へと尋ねた。
「あ、あの。お
「……へえん。おめえさん、さては金持ってねえだろ? 薄汚い小娘がよ。一銭も持ってないってんなら帰った帰った。こちとら善意で動いてるんじゃあねえわ」
ひと目で全てを見透かされてしまい、たじろいでしまった。
カウンターに座る薬師はしっしと露払いするようにアーチャを退けようとする。他に店があればいいが同じ対応をされてしまうだろう。
どこにも行けず身じろげずにいるアーチャを見つめ、薬師は顎をさすりながらわざとらしく聞こえるようにぼやいた。
「へえん。善意でなく全裸だと動くかって? へっへっ。おめえさんが自分を売るってんなら金出すやつがいるかもな。へえん。ガキの割にいいスタイルしてんじゃん。ま、オレにはガキの趣味ねえけどよお」
薄汚い声で笑う薬師。アーチャには怒りも悲しみもなかった。
偶然にも、金の手に入れ方を薬師が教えてくれた。善意か悪意かはわからなかったが、それによって手に入るということはわかった。
アーチャには一つだけ知っていたことがあった。自分が女という身分であることを。母親が、正義ではないその手に一時期染まっていたということも。
兄を見捨ててしまった今、家族皆を失うわけにはいかない。自分という犠牲を払ってまで、助ける必要があった。
薬屋を離れ、朧げながらも懸命に金目の者を探す。
通りかかった一人の男がいた。連れに老体の者がいるが、若い男の方が良いだろうか。
薬が必要なのだ。
お金が必要なのだ。
私の身体よりも母親の命が大事なのだ。
アーチャは若い男の膝へと崩れるように抱きついた。汚い身なりだとわかっていても、必死に喰らいついた。そして、ゆっくり口を開いた。
「お金をください。薬が必要なのです。タダでとは言いません。こんなあたしみたいな者を、どんなに穢しても構わないので」
若い男は抵抗せずに、ただこう答えた。
「おまえは口にした言葉の意味を理解しているのか?」
「あたしのせいで……もっと早く動けたら。もっと早くおうちに帰ってたら。お兄ちゃんも、お母さんも、こんなことにはならなかった。お母さんだけでも守らないと。あたしが犠牲になってでも、守らないと……っ」
「犠牲、か……」
若い男は言葉を復唱した。
「そういうおまえはどうして泣く?」
指摘されてから、アーチャは自分が涙を流していることを知った。とっくに枯れたと思っていた涙の泉は微量ながらも再び湧き出してくる。
ああ、怖いんだ。あたしは今とてつもなく恐ろしいのだ。
薬師に除けられたことでもない。母親を失うことでもない。自分が自分でなくなっていくことを一番恐れているのは、自分自身なのだ。
だが、そうでもしないと家族をまた失ってしまう。アーチャにはまだその覚悟が足りていなかった。
「己の恥を捨ててでも、そんなに強くなりたいか?」
アーチャは若い男のズボンに泣き縋る。今は一刻を争う。何を問うてるのだと思ったが、素直に頷いた。
兄を救えなかった自分。母親のために動くも手詰まりする自分。
もしも自分に助けられる力があれば。いや、それよりももっと前、早く兄を傷つけさせなければ。
「ユーシャ様、失礼ながらも急いだ方が……」
「ああ。わかっている」
ユーシャと呼ばれた若い男は何かを呟くと、こちらに手を掲げてはアーチャの身を光で包み込んだ。
光に痛みはない。涙も出なくなった。どちらかというと収まった、と言った方が正しい。
恐怖も薄れた。母親を助けに街中に来たが、別に助からなくとも不思議と何も感じない気分だ。
すくっと立ち上がり、問いをかける。
「……ユーシャさん、って呼べばいい? どうする? あたしはお金が必要なんだが、無ければ用はないよ。薬くらい、こそこそコソ泥でもすりゃ手に入る」
ふとアーチャはユーシャの顔を見つめた。眉を
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