6.4 72〜74ページ目 クリスマスの妖精2
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私とハルはリビングに通された。猫のマフィンも後をつけてきて、私たちがソファに腰掛けると、その向かいのソファに乗って、くるりと身を丸めて目を閉じた。
「あの、これ。よかったら食べてください」
私が差し出した袋の中身を見て、女性の顔がパッと明るくなった。
「マフィン! これ美味しかったやつだ。クッキーも入ってる。ありがとう。お茶入れてくるね。二人とも、紅茶飲める?」
「はい」
私とハルが同時に答えた。女性の足元が少しふらついたのを見て、ハルが心配そうに問いかけた。
「あの、本当に、具合はもう大丈夫ですか?」
「昨日まではかなりひどかったけど、今朝はだいぶ良くなったから、息子が心配しすぎてただけで、大丈夫。ゆっくりしていってね」
そう言って、女性はキッチンに姿を消した。しばらくすると、お盆にカップとティーポット、砂糖、そしてミルクを乗せて女性が戻ってきた。
「マフィン、大きくなったやろ? あのときは生後三ヶ月やったから、まだこんなんやったのに」
お盆をテーブルに置くと、女性はそう言いながら、猫の大きさを手で示した。あの日よりもさらに方言が強い気がする。
「私、関西出身で、家にいるといつもこんな感じになってしまって。特にマフィンといると訛ってしまって……。マフィンがここにやって来たとき、私もちょうど結婚してここに引っ越してきたばっかりで、知り合いまだおらんかったから寂しくって。たとえ猫でも気楽に話せるのが嬉しくて、ずーっと関西弁で話しかけてたから」
わざわざ方言のこと説明してくれるなんて、私の考えてることが分かったのかな。
「あの。マフィンって、どうして息子さんはさん付けで呼んでるんですか?」
「うーん。息子が勝手にそう言ってるだけだから……。なんでかな」
「あ、そういえば息子さんは?」
リビングに通されてから、男の子の姿が見えない。
「多分、自分の部屋に隠れてると思う。なかなか人見知りが激しくて。すぐに隠れちゃうから。保育園ではそれなりに元気に過ごしてるのに、他の場所では無理みたいで。でももしかしたら、保育園でも無理してるんかもって、親としてはどうしたらいいか……ってごめんなさい、こんな話」
「いえ」
それからしばらくすると、フォトアルバムを抱えて男の子がリビングにやってきて、楽しそうに話しながらマフィンさんが映った写真をたくさん見せてくれた。
一通り写真を見せ終わると、男の子は、袋から出してテーブルの上に並べてあったプレゼントの焼き菓子を食べ出した。すぐに隠れたくなるのに、人前に出てくるときには楽しそうな顔しか見せないこの小さな子が、今この瞬間も無理をしていないか、私はとても心配だった。
マフィンは男の子の横でじっと私たちの動きをうかがっている。
あんなに小さかった猫がすっかり大人になって、お兄さんの役割もしっかり果たしていて、とても頼もしかった。
それから三十分ほどして、男の子は疲れたのかソファに座ったまま眠ってしまった。すると、マフィンから私たちの方に寄ってきてくれたので、私とハルはマフィンをなでることができた。その後間もなくして、私たちは家に帰ることにした。
「また来てね」
女性がマフィンを抱いたまま玄関の外まで出てきて、私とハルを見送ってくれた。
「はい」
ハルが返事をした。
「マフィンのこと、本当にありがとうございます。とても元気に過ごしている姿が見れて、嬉しかったです」
私はお辞儀をして、マフィンに手を振った。
「ねえ、沙樹。どうして今になって、わざわざマフィンに会いに行こうと思ったの?」
「なんでかな。なんとなく……あの時約束したから、ずっと行かなきゃって思ってたから、かな」
☆ ☆ ☆
帰り道、私の心の中にはモヤモヤが残っていた。
「あの子、あんまり無理しないといいな」
「そうだね。それに、あの子のお母さんもね」
ハルの優しい声が響く。
私は分からなくなっていた。もしかしたら私は、苦しみから逃げるためだけに、プレミアチケットを使ってるんじゃないかな。
「ハル。みんな、痛いことや苦しいことがあるんだよね」
「うん。まあ、幸せなだけの人なんて、いないんじゃないかな。赤ちゃんだって、泣くしね」
「私、わがままだよね」
「そんなの今に始まったことじゃないでしょ」
「私、こんなんでいいのかな? 変わった方がいいのかな?」
「お好きにどうぞ」
ハルが苦笑いしている。でも、呆れているというよりは、素の私をそのまま全部受け入れてくれているのがわかる。
私にはハルはすべてを運命に任せてるみたいで、理解できないところが多い。でも、だからなのか、ハルのことがとても自由に見えた。
Will and testament:
あの猫が、マフィンさんが、私より長生きしてくれたら、嬉しいな。
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僕の家のマフィンさんは、もうすぐ二十歳になる。
間違いない。僕は覚えてる! あのときのことなんだ……。
「あの、ハルカさん。マフィンさんのこと、覚えてますか?」
「え? あの猫のこと。もちろん覚えてるけど、なんで?」
ハルカさんはうたた寝していたところを起こされたようで、少し寝ぼけている。
「その家の男の子のことも覚えてますか?」
「えっと……。うん、そうね、はっきりとは覚えてないけれど……すごくしっかりしていて、お母さんのことを、とても心配していたと思う。なんとなく気になってて、次の年にもマフィンとバタークッキーを持って会いに行ったけど、お留守だったのよ」
「その家の男の子、僕です」
「え?」
僕はノートを読むにしたがって、いつの間にか、自分のことを恐れずにハルカさんに伝えるようになっていることに気がついた。もしかしたらこのノートには、ノートを手にした人が素直になる魔法でもかかっているんじゃないだろうか。
「マフィンさん、もうすぐ二十歳になります。猫の年齢も合いますよね」
「確かに……。子猫に出会ったのが、小学一年の冬だったから、ちょうど二十年ね。あの男の子、一葉くんだったのか。ごめんね。しばらくの間は名前も覚えてたはずなんだけど、私すっかり忘れてて、もしかしてノートに名前書いてあった?」
「いいえ、あえて書かないようにしてくれたのか、苗字もお母さんの名前も書かれていません」
「そっか。あの子が一葉くんだったのか……」
ハルカさんは、手に持った赤い表紙のノートをペラペラとめくって、ノートの初めの方のページを開くと、感慨深そうにしている。あのクリスマスの日のことが書かれているページがあるんだろうか。
「僕、はっきり覚えてます。クリスマスの日にマフィンを食べたこと。あと、クッキーも。あのクリスマスは、お母さんがひどい頭痛で何日も寝込んでいて、朝からお父さんは熱が出たお姉ちゃんを病院に連れていってしまって、みんなクリスマスのことなんて忘れてて、僕はとても寂しかったんです。
でも、家の外で遊んでたら、マフィンさんの友達が二人現れて、お菓子をくれて、お母さんの具合が良くなって、とっても嬉しかった。二人は白いコートを着ていて、一人は赤いマフラーをしてた。そんな二人が赤と緑の——クリスマスの色の手提げの紙袋にお菓子をいっぱい入れて家にやってきたから、その時の僕は、二人のことをサンタの助手かと思いました」
「そっか、袋のことは覚えてないけど、コートはそんな色だったような気がするな。なんだか私の記憶の方が曖昧ね」
ハルカさんは眉を寄せて、口をちょっとへの字に曲げた。
「僕は毎年のように思い出しているから、ちゃんと記憶に残っているんだと思います。お菓子の入っていた袋を僕がすごく気に入って、ずっと大事にしていたら、お母さんがその袋をハート柄や靴下柄に切り抜いて、クリスマスの飾りを作ってくれたんです。その飾りはそれから毎年クリスマスになると、ツリーに吊るしたり壁に貼って飾ってるんです。お母さんは、あの年にはマフィンの妖精が遊びに来てくれたんだって言ってます」
「マフィンの妖精か……なんか、いいね」
「はい。大好きな妖精です」
お母さんにとっては、沙樹さんとハルカさんの二人が、クリスマスの魔法を届けてくれた小人の妖精ニッセなのだと僕は思った。
赤い表紙のノートをハルカさんが再び読み始めたので、僕は沙樹さんのノートに目を落とした。
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