5.4 ノートに書かれていないこと
午後の強い日差しに引き寄せられるようにして、児玉さんが図書館の外に出ていく。僕はリュックから帽子を出して被ると、駆け足で児玉さんを追いかけた。
図書館の周辺は、緑が多く、広い公園になっている。図書館の横には子どもが遊べる遊具もあるので、楽しそうな声がどこからともなく聞こえてくる。
図書館の向かいには美術館が建っている。市民であれば身分証明証を見せると入館が無料になるので僕はお母さんと図書館帰りに立ち寄ることが多い。
児玉さんは黙ったまま、僕のほぼ真横を——手を伸ばしてもたぶん届かないほどの距離を空けて——早めの歩調で歩いている。
さっきまでは、ずいぶん年上の人に思えていた児玉さんが、まるで僕とさして年の変わらない女の子のように感じられた。横目でその瞳を見つめながら歩いていると、僕はタイムトラベルでもしているかのような気持ちになった。
児玉さんは明らかに動揺していて——僕に対して怒っているわけではないけれど——少しだけ機嫌が悪そうにさえ見える。その複雑な表情の奥に、さっきまで読んでいたノートの中に出てくるハルが浮かんで見えた。まるで過去に取り憑かれて、置き場のない感情に苛立っていているように思えた。
幼馴染の親友が命を削って過ごす日々を、児玉さんは——ハルは何を思って見つめていたのだろう。ハルの気持ちは、僕には分からない。分りたいとは思うけれど、きっと決して計り知れない。
もしも、目の前にいる児玉さんが本当に自分と同じくらいの年の女の子なら——ノートの中にいるハルが実際に目の前にいたとしたら——僕はもっと困っていたかもしれない。何とか助けになろうとして、思いつくままに話しかけることができたかもしれない。
けれど、おそらく自分よりも十歳ほど年上の女性である児玉さんが、目の前で顔をしかめていても、何だか映画のワンシーンを見ているように現実味がなくて、僕はかける言葉一つ見つけられなかった。そして、チラチラと横目で彼女の表情を伺いつつも、無言でついて行くことしかできなかった。
四月の終わりの公園は、右を見ても左を見ても鮮やかな緑が溢れている。児玉さんには申し訳ないけれど、公園の樹木や芝は青々として、風も程よく吹いていて、僕はとても気持ちが良かった。美術館の隣には芝生が広がっていて子どもたちがボールで遊んでいる。その芝生の奥には、この公園ができるより前からこの場所を見守っているケヤキの巨木がある。その木陰に入ると少しひんやりとした空気が僕を包んだ。
「一葉くん、さっきは取り乱してごめんなさい。沙樹は本当に優しくていい子だったけれど、あの頃を思い出すとやっぱり、私には今でも心の整理がついていないところがあるんだと思う」
児玉さんは、瞳の奥に幼さの見え隠れするハルの表情を残しつつも、落ち着いた様子で言葉を
「ねえ、そのノート、一葉くんはどこまで読んだんだったっけ?」
突然、公園に響くさまざまな音が消えて、児玉さんの声だけが僕の耳に届いた。
「マティアスさんが亡くなった後に、沙樹さんがプレミアチケットを使った日までです」
僕は目をつむって、ノートに書いてあったあの日の出来事を回想するように思い描いた。
「そっか。あの日までか……。実はあの日、夕方に空が私に電話をかけてきたの」
「ケーキの袋を見て喜んでいた空くんが?」
「そうよ。その数時間前、電話越しに聞いた空の声は震えていて、『お姉ちゃんが死んじゃうかも』って、沙樹の携帯にかけても連絡が取れなくて、すごく動揺してた」
ノートには、沙樹さんの家族が落ち着いた様子で帰りを待っていたように書かれていた。だから、児玉さんにまで連絡して探していたなんて、夢にも思わなかった。
「『ちゃんと帰る』ってメモが置いてあったのに?」
「メモなんて、契約書でも何でもないんだから……。何があってもおかしくないでしょ?
あの日、周りの人間は、みんな、ものすごく慌ててたんだよ。その頃の沙樹はどれだけ心配してもしきれないほど不安定で、幸せそうな顔をしていると思ったら、次の瞬間、突然何も言わなくなったりしていたから……。
そんな沙樹のことが大切な私たちは、とても怖かった。沙樹がずっと、自分がいなくなったときのことばかり考えていることにみんな気がついていたし、たとえ自分から死を選ばなくても、あの頃は『薬』を飲み続けていたせいでずいぶん痩せていたから、道端で倒れていたらどうしようっていう心配もあったし……。
直の誕生日に、沙樹を迎えにきたときに、沙樹の両親は、直と拓さん、そして、私の三人に、これからのことについて相談してきてたの。
そして、きっぱりと言った。『つらかったら逃げてもいいからね』と」
「そっか。そうですよね。ノートを読んだだけでは、すべては分からないですよね」
僕はノートを読んだだけで、沙樹さんや彼女の周りにいた人たちのことを知ったような気になっていた自分がとても恥ずかしかった。
「そうね。でも……ノートを読まなきゃ分からないこともたくさんあったの」
「……」
「そばにいても、家族でも、幼馴染でも、知らないことって案外多いものよ。
そのノートを読んで、少なくとも、私は救われた。私が想像していた以上に、沙樹が幸せだったことが分かったから」
僕は深く息をついた。ノートを物語を読むように、ドキドキしながら読んでいた自分がとても幼稚に思えた。他人の心の中に土足で入って、真剣な想いを汚してしまった気がしていた。
「あの。児玉さんは、このノートを僕に読んでもらいたいですか?」
「そうね……、読まずにあとで後悔することにだけは、なってほしくないかな」
「後悔……。僕の人生は、後悔だらけになってしまいそうです」
「んーーーーー。それは、学校に普通に通えていないから?」
僕は児玉さんが、オブラートに包んだりせずに言った言葉に驚いていた。今まで僕に気持ちを知りたいと問いかけてきた人たちは、あくまで待ちの姿勢で、どこか逃げ腰で、あいまいな言葉を使って僕の本音を探ろうとする人が多かった。
「……」
「違うか。早とちりしてごめんね」
「えっと……。児玉さんは、間違ってないです。僕は普通にできなくて、毎日怖い。後悔の連続です。それに、頭がいっぱいになって、寝込んでしまうことも多いから。だから、家族のみんなは、僕が普通ならもっと楽で幸せなんじゃないかって。僕なんか、この世から消えてしまった方がいいんじゃないかって、何度も思ってしまう……」
僕は、今まで誰にも言えなかった思いを言葉にしていた。罪悪感でいっぱいで、気が狂いそうだった……。
「そっか。でも、わざとじゃないんでしょ?」
「わざとじゃない?」
「そう、わざとつらくなったり、苦しんでいるわけじゃないでしょ。苦しんでしまう自分のことを責めてしまう一葉くんに悪気があるとは、私には思えないな」
わざとではない……と思うけれど、言葉が出ない。
「これ、見て」
そう言った児玉さんが財布の中から出して、僕に差し出したのは、少し角のよれた古い写真だった。
「え? この人って……もしかして」
写真には、このケヤキの木の根本に——僕が座っている場所のすぐ左隣に——座って本を読む小柄な女の子の姿が映っていた。
「沙樹だよ。ちょうど一葉くんと同じ年のころの写真。その本はね、本当は私が読んでたんだけど、写真を撮るってカメラを向けたら、沙樹はかっこつけて読んでるフリしたの。きっと、一葉くんが想像しているよりも平凡で、どこにでもいる女の子だよ」
確かに、僕の想像とは少し雰囲気が違う。思っていたよりも小柄で、どこか不安そうで、なんていうか、髪の長さも顔もまったく似ていないのに僕みたいだと思った。
「特にこの頃は、沙樹、行きたかった高校にも通うことができないかもしれないと言われて、落ち込んでたのよ。周りが真剣に将来について考えてるときに、つらいわよね。でも、高校に入ってからは、吹っ切れたのかな……幼稚園の頃の性格が戻ってきたみたいで、結構明るくなったんだけどね」
児玉さんは、もう一枚、別の写真を差し出してきた。
そこにはハロウィーン色に飾り付けられた部屋で満面の笑顔を見せる三人の姿が映っていた。
「直さんのバースデーパーティーですよね」
「うん。沙樹と私と直」
僕はずっと手に持っていた深海色のノートの表紙を見つめた。
「あの。僕やっぱり、このノートを読んでもいいですか?」
「そのノートは、今は一葉くんのものだから、一葉くんのしたいようにすればいいと思うな」
「あの、ハル。あっ違った、児玉さん。ここで読んでも、読み終わるまで、待っていてくれますか?」
「もちろん。——あと、少なくとも今日は、ハルでいいわよ」
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