5.3 53〜56ページ目 二十歳

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 十二月七日


 LIFE:


 人生が、日々が、時間が、ただ、流れていく。


 マティアスが亡くなってからずっと、私は寿命について考えていた。


 彼の病気の進行速度は私よりやや穏やかで、病状は私の数年後の状態だと推定されていた。


 数年後に、私は……。


 ☆   ☆   ☆


 私は、普通に普通の一日が送りたくて——なんて言ったらいいのかな、特別な一日じゃなくて、ただゆっくりと過ぎていく平和な時間が過ごしたくて——昨日の夜、眠る前にプレミアチケットを使った。


 朝、七時。

 ゆっくりと目覚めた。


 八時半。

 みんなが仕事や学校に行くと、私も朝ごはんを食べて、出かける準備した。携帯の電源は、一日中切っておくことにした。家には『ちゃんと帰るので心配しないでね』とリビングのテーブルにメモを残しておいた。


 リリが玄関まで見送りに来てくれたので、行ってきますと挨拶をして、ゆっくりとドアを閉めた。


 天気が良くて、体も軽い。ゆっくりと歩いているつもりが、あっという間に駅にたどり着いた。電車に乗って高校に向かう。


 通勤ラッシュは終わっていて、座席はまばらにしか埋まっていない。ほどよく日の当たる場所を見つけて座る。


 どこからか、赤ちゃんが泣く声が聞こえる。その泣き声が小さくなると、電車の走るガタンゴトンという音や到着駅を知らせるアナウンスが耳に入ってきた。


 私は線路沿いの景色を眺める。電車が川にかかる橋を渡る。釣りをしている人が目に入る。あんなにゆったりと時間を過ごせるなんて、うらやましいな。


 九時半。

 学校に着いた。図書室で、本を読むことにした。

 ハルならきっと、こんな時間の使い方を贅沢ぜいたくだと思うはずだ。


 通信制の高校なので、学校の図書室は何時に行っても誰も何も不自然だとは思わない。今日は授業がない日なので、学校にはほとんど人がいない。


 棚から棚に目を移しながら歩く。

 初めて見る作家の小さな詩集を手に取って、窓際の椅子に腰掛けた。




 日の光が眩しい。

 私は今、なんてことはない場所で、

 なんてことのない時間を過ごしてる。

 だけど、今まで過ごしたどの時間よりも幸せだと思う。


 残念だな、私はきっと、二十歳まで生きられない。



 十二時過ぎ。

 前から気になっていた小さな食堂に足を踏み入れた。

 店の隅っこに、大きなオルゴールがあって、どこかで聞いたことのあるクラシックの曲を、店内の静寂を壊さないように緩やかに奏でている。


 メニューを開くと、デミグラスソースのオムライスの横にオーナーのおすすめと吹き出しで書いてあった。早速注文して食べると、ボリュームがある割には、あっという間にお皿は空になった。お腹はいっぱいになったけれど、向かいの席の人が食べていたクリームたっぷりのパフェに心惹かれて、同じパフェを追加で頼んでしまった。


 二時ごろ。

 みんなのクリスマスプレゼントを探してみる。

 結構難しい。


 三時半。

 駅前のベンチに座った。

 電車の走り過ぎる音、風に吹かれて落ち葉がカサコソと擦れ合いながら舞う音、信号が変わる音、目の前を通り過ぎる人が話す声、どこか遠くで鳴るサイレン、子どもが親を呼ぶ声とその声に返される温かな声、鳥のさえずり……世界の音をもっと、もっと聞いていたいと思った。


 四時半。

 帰りに駅前のケーキ屋さんで、ケーキを六つ買って帰った。本当はリリにはあげないほうがいいけど、でも、少しくらいルールを破ってもいいでしょ? もしかして少し喧嘩になるかもしれないと思ったけれど、かわいいケーキばかりだったので種類を絞りきれずに、迷いに迷った結果、バラバラの六種類のケーキにした。


 家に帰ったら、ドアが開く音に気がついたのだろう、空が玄関まで走ってやってきた。


「さっちゃん、おかえり」


「ただいま」


空は、私が想像した以上にケーキ家さんの紙袋を見て喜んだ。空がとても子どもっぽく思えた。


 リビングに入ると、まだ五時を過ぎたばかりなのに珍しくみんなもう家にいて、私の帰りを待っていた。きっと、一番早く帰ってきた誰かが私が残したメモを見て、みんなに連絡したんだろう。お母さんは安堵の表情を浮かべて、


「おかえり、夜ご飯、食べよっか?」


 と言うと、それ以上は何も言わずにテーブルを片付けた。


 夕飯は具沢山のお鍋で、卵たっぷりの雑炊ぞうすい出汁だしが効いていて美味しかった。鍋を片付けると、紅茶を淹れて、それぞれケーキを選んで食べた。


 今日みたいな日が、ずっとずっと続けばいいのに。


 ☆   ☆   ☆


 その夜は、プレミアチケットの効き目が続いていたので、痛みはなく、とても幸せな夢を見た。魔法がかかったような一日だった。




 Will and testament:

 なんだろう。そうだ、みんな、毎日美味しいご飯を食べてね。そして、たまにご褒美のケーキも!


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 僕はノートを閉じると、目線を上げた。


 児玉さんは、いつの間にかテーブルを挟んだ僕の向かいのソファーに戻ってきていて、赤い布表紙の児童書を手にうつらうつらしていた。

 

「あの。児玉さん」


 僕が声をかけると、児玉さんは、眠気を飛ばすように少し頭を横に振った。


「ん? なに? もう読み終わったの?」

「いいえ、まだです。ただ、児玉さん、僕はこのノートを読んでいいほどの人間なんでしょうか? 僕には、そんな価値はないと思う」


 児玉さんが怪訝けげんな顔をした。


「価値がないって。どうしてそんなこと思うの? 彼女の残したノートは、限られた人しか読むことが許されない神聖な書物とは違うわ」


 僕は自分が分からなくなっていた。必死で生きているつもりなのに、逃げてきただけなんじゃないか? ただ、毎日を、時間を無駄にしているんじゃないか?


「えっと、その……。僕は、この世界を、ちゃんと生きていない気がするから。何だか失礼な気がしてきて」

「一葉くんは真面目なんだね」


 児玉さんの声は優しいのに、ちょっとした衝撃でネジが外れるように、突き放されてしまいそうで怖い。


「僕は、真面目なのは沙樹さんの方だと思います。僕は沙樹さんのように、世界をまっすぐ見ることができない。僕はいつも、逃げていて、僕はいつも……」

「何言ってるの? 沙樹は聖人でもなければ、天使でもなかった。子生意気な十代の女の子だった。優しくて真っ直ぐだけど、頑固でわがままだった。無鉄砲なことをして、どれだけ周りが心配したか。周りがどれだけ沙樹のことを思って、悩んでいたか、彼女の決断でどれだけ傷ついたか……」

「児玉さん?」


 児玉さんのまぶたに涙が溜まっているように見えた。


「ごめん。一葉くん、ちょっと外、歩こうか?」


 さっと立って歩き出した児玉さんの後ろを僕は追った。

 

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