3.3 勘違い

「児玉さん!」


 僕は、心臓が止まるかと思った。


「どうしたの? そんなに驚かなくてもいいのに……。私これでも司書よ。図書館にいても不自然じゃないでしょ?」


 確かにそうだけど、児玉さんは僕がノートを盗んだことを怒っていなのかな?


「えっと、あの」

「ん?」


 児玉さんが首を傾げて僕を見る。もしかして、僕がノートを持って帰ったことに気がついていないんじゃないか?


「えっと、僕が探していたのは、児玉さんなんです……」

「え? どうして?」

「本当に、ごめんなさい!」


 僕は頭を思いっきり下げた。多分、僕の人生で一番本気で謝ったと思う。


「どういうこと?」


 僕の声に驚いて、近くにいた人たちが数人、僕と児玉さんのいる方に振り向いた。


「ちょっと座って話しましょう」


 児玉さんが小さい声でそう言って、学習コーナーの奥にあるソファーを指さした。


 ◇   □   ◇


 広い学習コーナーには、椅子と机と椅子が三十席ほど並んでいる。僕はたまにここで本を読んだり、調べ物をする。いつもは十人以上の人がいるけれど、今日は珍しく誰もいない。


 学習コーナーの奥には二人掛けのソファーがコーヒーテーブルを挟んで二台ある。児玉さんと僕はコーヒーテーブルを挟んで向かい合って座った。


「一葉くん、一体どうしたの?」


 児玉さんが、落ち着いた声で静かに聞いてきた。


「えっと……」


 僕はリュックを開けて、深海色のノートを取り出すと、テーブル越しに児玉さんに向けて差し出した。


「あの、これ!」

「え? これって……」

「ごめんなさい」

「どういうこと? このノート……。もしかして、本当に……」


 児玉さんは驚いた表情でノートを見ている。やっぱり僕が盗んだことに気がついていなかったんだ。


「えっと。このノート、児玉さんが忘れていったものなんですよね」

「違うわ。だってそのノートは……」

「違うって?」


 なんだか会話が噛み合わない。


「どこでそのノートを手に入れたの?」


 児玉さんは怒っている様子はないが、状況がまったく理解できないようだ。


「僕、勝手に図書室から持ち出してしまいました」

「図書室って、学校の?」

「はい、昨日、児玉さんが整理していた本棚で見つけたんです。本当にごめんなさい」


 児玉さんは状況を理解しようとしているのだろう。少し間を開けてから訊ねてきた。


「……一葉くんは、どうして私に謝るの?」

「えっと……これ、児玉さんのものだと……。もしかして、児玉さんのものではないんですか?」

「違うわ」


 もしかして、児玉遥と言う人は、児玉さんと同姓同名の他人なのか? いいや、そんな偶然、考えられない。


「あっそっか。さっきの男の人のものなんですね」

「さっきの男の人?」

「はい、一時間ほど前に、医学書のコーナの近くで児玉さんが話していた人のことです」

「あぁ、彼のこと……」

「あの時、僕、通りがかりに二人の会話を聞いてしまって。児玉さん、今すぐは返せないって……。あれってこのノートのことなんですよね」

「……違うわ」

「え?」

「そのノートは私のものじゃない。それに、私はもう何年も見てないわ」


 僕は明らかに色々と勘違いをしていたようだ。


 児玉さんがノートを受け取ろうとしないので、僕は目の前のテーブルの上にノートをそっと置いた。


 それから、ゆっくりと児玉さんにノートのことを確認すると、児玉さんは、このノートのことは知っているけれど、何年も前に借りて読んだあとに、持ち主に返して、その後一度もこのノートは目にしていなかったらしい。


 ◇   □   ◇


 児玉さんは僕がどうしてこのノートを持っているのか状況がうまく理解できないようなので、僕は昨日、学校の図書室で、児玉さんが本を下ろしているのを手伝った直後に、本棚でこのノートを見つけて、このノートをどうしても読んでみたくなり、家に持ち帰って盗み読みしてしまったことを一から説明した。そして、このノートに挟まれた手紙に児玉さんの名前が書いてあったから、返そうとしていたことを伝えた。


「そっか、そう言うことか。一葉くんはそのノート、どこまで読んだの?」

「えっと、プレミアチケットと病気についての説明が書かれたページまでです」


 ためらいながらも、僕は正直に答えた。すると、児玉さんから、意外な言葉が返ってきた。


「実はね、私も盗み読みしたの……ちょうど、一葉くんが読んだ場所まで。で、そのノートが完結してから、また読んだわ。そのときは盗み読みじゃなかったけど」


 児玉さんは少し寂しそうな顔をした。その顔を見て僕は思い出した。そうだ、もう一つ読んだものがあったんだった。


「あと、児玉さんの手紙も……読んでしまいました」

「そういえば、あの手紙、挟んであったわね」


 児玉さんは遠い記憶を呼び起こすようにして話しているのか、僕の方を見ているのに目線が合わない。


「あの、このノート、完結しているんですか?」

「沙樹は最後に『終わり』って書いてるから。完結でしょ?」

「そっか……。終わるんだ……」


 僕は心のどこかでまだ、このノートが終わらないまま、沙樹さんは元気になって普通に生活しているんじゃないかと期待していた。


「うん。沙樹の人生のストーリーは、そこに書かれている物語の続きは、ほんの少ししかないわ」

「ほんの少しだけ?」

「うん。少なくとも私には、ほんの少ししかなかった。沙樹がどう感じていたかまでは私にはわからないけど……」


 ひどく寂しそうな、どこか痛みを伴ったような声で児玉さんが言った。


「あの。教えてもらってもいいですか? 沙樹さんに何があったのか」

「いいけど、私が話す前に、先に自分でそのノート読んだ方がいいんじゃない?」

「え? いいんですか?」

「だって、学校の図書室にあったんでしょ?」

「はい。図書室の本棚に……」

「じゃあ、学校の書籍ということで、私が許可します。それに確か……『このノートを開けたすべての人に捧げます。』ってそのノートにも書いてあったわよね」

「はい……」

「だから、読んでいいのよ」


 児玉さんが、普段学校では見せない——いたずら好きな、少し子どものような顔を覗かせたように感じた。


 僕は黙ったまま、テーブルの上に置いたノートの表紙をじっと見た。


「私、ちょっと外に行ってくるから、戻ってくるまで、一葉くん、ここで続きを読んだら?」

「はい」


 児玉さんが、ソファーから立ち上がり、少し寂しそうな笑顔を見せた。


「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」


 僕がそう言うと、児玉さんは学習コーナーから出ていった。


 僕はノートを再び手に取り、ページをペラペラとめくった。

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