3.4 18〜23ページ目 動物園1

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 十月八日と九日


 LIFE:


 公園ですれ違っていただけの君が——ただ気になるというだけの存在が——どうやって大切でかけがえのない存在に変わっていったのか、はっきり言ってよくわからないけれど、私はなぜか君のことがずっと気になっていた。


 おなじみの見知らぬ人ファミリア・ストレンジャーだった公園のベンチの君が、同じ高校の人に変わってからちょうど三ヶ月、季節は秋に変わっていた。時間は着実に経っていたのに、私は君の名前も知らないまま、お互いにほぼ他人のままで、これから起きる出来事なんて、私は想像もしていなかった。


 君は公園の隅にある自動販売機の横のベンチがお気に入りで、私はその前を通りすぎるたびに、君を見てしまっていた。機嫌の悪い猫のような君はどこか憂いがあるのに、いつも飄々ひょうひょうとしていたのをよく覚えている。


 五年の月日が流れて、知らないうちに君は『同じ高校の人』になり、あの日の夕方、君は唐突に私を動物園に誘ってきた。でも、それから少しして、ハルの誕生日に無茶をした私はずっと寝込んでいたから、君には三ヶ月間会えずじまいだった。


 だからって、私は君に恋い焦がれてなどいなかったし、はっきり言って、動物園に誘われたときには変な人だって思った。


 私は十月になってやっと体調が落ち着き、お母さんに送ってもらわなくても自分の足で通院できるようになった。


 私は夕方から夜にかけてならば『薬』を飲まなくても体を動かせるので、今回の診察から、病院の先生が特別に診察の予約を私の体調の良い時間に入れられるようにしてくれていた。


 そして、十月八日、診察を終えた夜七時、久しぶりに君の座っている公園のベンチの前を通りかかった私に、君は待ち構えていたかのように声をかけてきた。


「もう来ないのかと思った」


 私はその場で足を止めた。君はどこか、見捨てられ置いてけぼりにされた犬のようだった。この前までは、ずっと人に興味のない猫みたいだと思っていたのに、すっかり印象が変わってしまいそうだった。


 確かに、初めて話したあとに三ヶ月間顔を出さなければ、避けられているとか嫌われたとか思ってもおかしくない。でも、私は君を嫌ってなんていなかったし、どちらかというと、もう一度会いたいと思っていた。


「いつからいたの?」

「三ヶ月前から……」


 君はまるであの日からずっと待っていたかのよな口ぶりで言った。


「じゃなくて今日よ」

「三時から」


 私は病院へ向かうときには公園を通らずに行く。せっかく出かけるのに同じ道を通ると、少しもったいない気がするから。だから、そう、私は君を避けてはいないし、わざとじゃないけれど、私が公園を横切らなかったせいで君が長い時間待つことになってしまったことを、私は少し申し訳なく思った。


「そっか、なんかごめん」

「なんで謝るの?」

「だって、私待たされるの嫌いだから」

「そっか、でも、会えてよかった」


 君はベンチから立つと、私の傍まで来た。私たちはゆっくりと歩き出した。

 やっと三ヶ月の謎が解ける。謎ってほどでもないか。ただ名前が知りたかっただけだし。


「君、名前は?」

「直。相田あいだなお河野こうのさん。沙樹さきって呼んでいい?」


 私は苗字で呼ばれるのが少し苦手だったから、迷うことなく返事をした。


「いいよ。なら私は君のこと直って呼ぶ」

「うん」


 直の方が少し照れているように思えた。


「君はずいぶん昇格したね。この間までファミリア・ストレンジャーだったのに」

「何それ?」


「知らないか……。ネットで調べなさい」

「ケチ」

「ケチじゃないよ。何事も勉強なのだよ」

「そうですか」


 直はよく分からないって顔をした。


「どうせね、本当に興味がなかったら、教えたって忘れちゃうんだから。これくらいがいいの!」

「俺、沙樹が教えてくれたら、忘れないと思うな」


 この人は、唐突に何を言ってくるんだろう。大した意味はないのかもしれないけれど、なんだか心がもぞもぞする。


「それはどうも」


 照れ隠しにそっけない受け答えをする。私はちょっとだけ強がっていた。でも、その直後、私は自分でも思いがけないことを口にした。


「ねえ、動物園」


 少しぶっきらぼうな言い方だった。自分が言った言葉なのに正直なところ驚いて立ち止まってしまった。

 直が誘ってくれたことが、それなりに気になっていたから出た言葉だとは思うけれど、まるで催促してるみたいで、少し恥ずかしくなる。


 直が私を見ているのが、前を向いていてもわかる。横からの視線ってこんなに強くできるものなんだっけ?


「あ。そっか。じゃあ、いつ行こうか?」


 君はまるでちょっとコンビニにでも寄るみたいに軽い口調で言った。


「——明日はどう?」

「明日?」


 さすがに急なので私は驚いて君の目を覗き込んだ。冗談ではなさそうだ。


「うん。明日」

「わかった」


 私は、ゆっくりと歩き出す。


「じゃあ、明日公園のベンチに朝九時でいい?」


 直は携帯を見ながら聞いてきた。カレンダーを開けて予定を入力しているようだ。

 そういえば、動物園なんて幼稚園の時に遠足で行ったきりだし、直は不思議なほど危なそうな人に見えなかった。だから、私は流れに身を任せて、「うん」と返事をした。


 前回別れたT字路までくると、直と私はまた別々の道を進んだ。君はバイトに行って、私はまっすぐ家に帰った。


 その夜、私は夜ご飯の後お風呂に入って、部屋に戻ると、宝箱の前で困り果てていた。


 朝は『薬』なしで動けないくせに。なんで、よく考えずに、『うん』って言っちゃったんだろう。『薬』を飲んだら、一日中気持ちが悪くて、動物園はあまり楽しめないだろう。


 プレミアムチケット使いたいな……。だけど、残り七枚のプレミアムチケットをほとんど知らない人との時間になんて使えない。


 ☆   ☆   ☆


 翌朝、土曜日。


 私はいつもは、朝は起きずに眠り続ける。朝から何かしたい日には、夜のうちにプレミアムチケットや『薬』を飲まないと起きられない。散々悩んだ結果、私は昨日の夜『薬』を飲んだ。


 朝出かけようとしたら、必ずと言っていいほど、家族に声をかけられてしまうけれど、その日はみんな朝からそれぞれ用事があって、家を空けていた。

 

 静かな洗面所で出かける準備をしていると、リリが引き戸を押して入ってきて、不思議そうに私を見上げていた。私はリリの頭をなでると、少し大きめのバックを肩から斜めがけにして、家を出た。八時二十分。公園まで徒歩三十分。余裕で間に合うだろう。


 直に公園で会うのは病院の診察後だから、朝に会ったことは今までなかった。私には、直がまだ実体を持った人間には感じられなかった。日が暮れると姿を現す妖怪のたぐいではないかとさえ思えた。でも君は実在した。私たちは待ち合わせ場所に辿り着く前に、昨日別れたT字路で出会った。


「おはよう」

「おはよー。なかなか朝は目が覚めなくて」


 君は言葉のとおり、まだかなり瞼が重そうで、目が開かず、非常に眠そうだった。そのまま二人で並んで歩き、公園を通り抜けて、病院の向こう側にある駅に向かった。


 私は気分が悪くて、歩く速さが遅くなっていくのを感じていた。

 君がどこまで私の体調の悪さに気がついていたかはわからないけれど、君が歩調をゆるめて私に合わせてくれているのを感じた。


 十五分後にくる電車を駅のベンチで待つ。その間、一人分しか空いていないベンチの席に私が座って、少し眠った。君は隣で立っていた。駅のアナウンスが耳の奥で反響していた。

 電車が来ると、まだ少しぼーっとしていた私を君が起こしてくれた。電車に乗っている間、私はずっとウトウトしていた。


 動物園は駅から降りてすぐの場所にあった。動物園には十一時には着けると思っていたのに、到着したときには十二時前になっていた。そして、このときになって初めて、私は駅のベンチで一時間近く眠っていたことに気がついた。


 どうして直は何も言わなかったのか、その理由を聞こうと思ったげど、入場券を買いに行っていた君が、あんまりにも嬉しそうな顔をして戻ってきたから、質問することを忘れてしまった。


 園内マップを片手に、

「動物園を楽しむことは、狙いを定めることだよ」

 と直は言った。


「狙い?」


 私は何をどう狙うのかさっぱりわからなかった。


「うん。お気に入りの動物を見つけて、その中でも特定の子に狙いを定めてじっと追いかけるんだ。そうすると、ただの動物じゃなくて、個性的な友達みたいに見えるんだよ。昔、よく母親がそうしてたんだ」

「へー」


 私は半信半疑だったけれど、君が本気だったから、私も真似することにした。


「ねえ、直の一番好きな動物は何?」

「象かな……」


 園内地図の『アジアゾウ』のエリアを直が指さして見せた。


「じゃあ、まずそこに行こう!」


 アジアゾウのエリアに来ると、体格の一番大きなゾウを指差した。


「あれはジロー」


 なかなかゆったりとした動きで、干し草のようなものを食べている。


「ジロー? どこで知ったの?」

「今狙いを定めて、付けた名前だよ!」


 そういうことか。よし!


「じゃあ、あの子はキャサリーン」


 私は、子どものゾウを連れた少し小さめのゾウをに狙いを定めた。


「いいね。子どもの名前は?」

「えっと、えっと……マリアンヌ」

「マリアンヌはいつ生まれたの?」

「えっと……」


 直の指差す先に、『生まれました!』とタイトルのついたポスターがあって、写真とともに、『八月五日生まれ、名前は募集中!』と書かれていた。


「まだ二ヶ月か……」


 マリアンヌは元気に動き回ってる。私は、この二ヶ月ほとんど何もしていなかったのに、この子は生まれて、立って、歩いて、毎日遊んで大きくなっていってるんだ。


「ねえ、狙いを定めたら、可愛くなるでしょ?」

「うん」


 私の返事に、直が満足そうに見つめてきた。 



 その後、園内のカフェに行って、直はハンバーガーとコーラを、私はLサイズのアイスティーをオーダーした。ひどく喉が渇いていた。カフェの外の日の当たる場所に席が空いていたので、そこで食べることにした。向かいに小さな湖があって、とても気持ちが良いから、私たちは二人で向かい合わせにはならずに、湖の方を向いて座った。


「お腹空いてない?」


 直に聞かれて、私はどこまで素直に答えるべきか迷った。だから、ただ「うん」と言った。


「具合悪かったら、今日はもう帰ったほうがいいんじゃない? ここにはまた来ればいいし」


 私は少しわがままだったかもしれないけど、もっとここにいたかった。


「ううん。大丈夫。オランウータンみる」


 私はアイスティーを握った。

 頭がクラクラして、体が揺れて、椅子がぐらついた。直が椅子を支えてくれたのがわかる。心配してくれている。でも、直は私に帰ろうとは言わなかった。


「疲れたら言ってね。兄が車で迎えに来れるから」


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